特別な一日⑤
リリアンヌ視点
ブライアンは、並んでいた人たちを大勢の中から見つけてみせた。
最後の一組との挨拶が終わる頃、大広間に流れる音楽が、明るく軽やかなものから、しっとりと落ち着いた曲調へ変わった。
「…そろそろ出るか」
ブライアンはリリアンヌの手から空のグラスを受け取ると、近くの給仕へ渡した。
「もう出ていってもいいのですか?」
空いた両手を下ろしながら、辺りを見回した。
まだ、これほど客がいるのに。
「主役が初めに出ないと、皆、帰れない」
「あ…そっか」
「行こうか」
ブライアンに促され、扉へ向かった。
「リリアンヌ殿下、ブライアン王太子殿下のご退場です!」
案内の者の声に、大広間が静かになった。
二人で並び、客たちに向かってお辞儀すると、温かい拍手が送られた。
ブライアンの差し出した腕に手を掛け、そのまま大広間をあとにした。
大階段脇の階段を上がり、部屋へと向かっていく。
先ほどまでの賑やかさが嘘のように、静かだ。
「…それで、視察って?」
「貧民区への視察です」
リリアンヌは、足元へ視線を落としたまま答えた。
「先ほどの二人が、貧民区に興味を持ってくれていたから。一緒に行ってみないかと誘ってみました」
「それは…実現してしまうな」
「…駄目なのでしょうか?」
「上にも話はいくだろう」
「…?はい…」
「…いや、いい。視察の話は分かった。もちろん、私もついて行く」
「ありがとうございます、ブライアン」
まとめられてしまった気もするけれど。
ブライアンは、本当にすごい。
一緒に来てくれると思うだけで、こんなに安心できるのだから。
「あの…今日は、本当に助かりました」
リリアンヌは、ちらりと隣を見上げた。
「ブライアンがいなければ、きっと何もできませんでした」
今日のようなことを、ブライアンは普段からこなしている。
心から尊敬する。
「…そう思ってもらえたなら、何よりだ」
ブライアンは、そっと目を逸らした。
「本当に、本当です…!」
まさか、お世辞と思われたのだろうか。
「ブライアンがエスコートを引き受けてくださって、本当に嬉しかったんです」
「……」
「ブライアンが傍にいてくれれば、すごく安心します」
「……」
ふいに、ブライアンがぴたりと足を止めた。
勢いのまま一段進み、自然と手が離れた。
「…?」
リリアンヌは、ゆっくりと振り返った。
ブライアンは、じっと見上げていた。
「君は、それでいいのか」
「…え?」
「本当に、それでいいのか」
「…何のお話でしょうか?」
確か…エスコートの話をしていたはずだ。
「これからも私が君の傍にいれば、必ず噂が流れ続ける」
ブライアンは一度口を閉ざし、静かに息を吐いた。
「…いくら鈍い君でも、もう分かるだろう?」
「……」
ずっと…
ずっと避けてきた話――
「…ブライアン。巻き込んでしまって、ごめんなさい」
「…何の謝罪だ?」
「その…ブライアンは、まだ…」
「私に婚約者はいない」
ブライアンが、核心に触れた。
「…それはきっと、私の相手をしなくちゃいけないから…」
『リリアンヌ。お前、ブライアンと結婚するか?』
『ブライアンは、格好良くなってただろ?結婚相手として、どうだ』
二度も、国王から直々に言われた。
本当は、分かっていた。
成人を迎えれば――
ブライアンと、婚約を結ぶのだろうと。
私たちの意思とは、関係なしに。
「……」
ブライアンは額に手を置くと、下を向いて黙り込んだ。
「……」
リリアンヌは胸の前で両手を握り、眉を下げた。
きっと、ブライアンだって好きな人がいるはずだ。
レックスが自分を婚約者にと言わなければ、とっくに結婚していたかもしれない。
二十一歳で婚約者がいないのは…王太子として、あり得ないことだ。
「…もし、ブライアンが婚約者を選べるのなら…そうしたら、私に遠慮せず――」
「…そうではなく」
ブライアンがまっすぐに目を上げ、顔を寄せた。
「……」
リリアンヌは視線を落とし、そのまま階段を上がった。
腕をぐいっと引かれ、またブライアンの前に戻った。
「…!」
はっと、伏せた目を上げた。
「リリアンヌ。君の気持ちを知りたい」
見つめる表情は、真剣だった。
「……」
…私の、気持ち?
「私…は」
…私は。
「…伯父上と、お父様が決めた方と…」
私は、王族だ。
国のために、
民のために。
そこに、自分の意志は必要ない。
「……」
分かって…いるのに。
すぐ傍で、小さな溜息が落ちた。
「…っ」
リリアンヌは、びくりと肩を揺らした。
「…まだ君は、今日成人したばかりだ」
ブライアンは、掴んでいた腕からそっと手を離した。
「急いで決めることはない」
「……」
…どうして。
まるで、私が選べるような言い方をするのだろう。
「…めでたい日に、すまない」
リリアンヌの手を取り、そのままゆっくりと階段を上がった。
「部屋に戻ろう」
「…はい」
俯いたまま、ブライアンについていく。
部屋の前まで着くと、ビッケが待っていた。
「…お帰り」
「ただいま、ビッケ…」
ビッケの顔を見て、泣きそうになった。
「…君の主人を困らせる気はなかった」
「……」
ビッケは何も言わず、ゆっくりと部屋の扉を開けた。
「…リリアンヌ。今日はゆっくり休め」
扉の前で、そっと手が解かれた。
「あの、ブライアン。今日は、本当にありがとうございました」
それだけは、どうしても伝えたかった。
「…誰よりも綺麗な君をエスコートできたことを、光栄に思う」
ブライアンは優しく微笑むと、静かに扉を閉めた。
扉の向こうで、足音が遠ざかっていく。
「……」
「…とりあえず、着替える?侍女たちを呼んでいい?」
ビッケが、後ろからそっと声を掛けた。
「…ううん。少し、待って」
リリアンヌはくるりと振り返ると、まっすぐテラスまで進んでいった。
月が、綺麗だ。
ほんのりと、下から音楽が聴こえる。
まだ祝宴は続いているようだ。
「ホ~」
スノウが肩から離れ、真上へ飛んでいった。
どこか近くにいる、キリのところまで向かったのだろう。
ビッケがテラスのテーブルに、紅茶の入ったカップをそっと置いた。
「ありがとう…」
手袋を外してテーブルに置くと、ゆっくりと椅子に腰掛けた。
カップを両手で持ち、紅茶に口を付けた。
ビッケの淹れてくれる紅茶は、いつも心が温まる。
カップを置いて、靴を脱いでいく。
椅子の上に足を載せ、痛んだところを確認した。
今日は、いつもより踵の高い靴を履いていた。
小指が、赤くなってしまっている。
こっそり、足に白のちからを送った。
「……」
そのまま足を抱えて、膝に顔を埋めた。
穏やかな音楽が、耳を通り抜けていく。
自分の中に、ヌシカがいることを知ってから――
一度も左肩が痛むことなく、今日を迎えた。
正直…その枷を、忘れかけていた。
それほど、この二年間は、好きなことをして生きてきた。
大好きな人たちと、大切な時間を過ごしてきた。
このままでいられたら、どれほど幸せだっただろう。
そろそろ、自分の背負ったものと向き合うべきだ。
本当は――
結婚なんて、誰ともしてはいけない。
“物語”通りにいけば、私はまず、十八歳で異形の存在になるのだから。
『あなたは、絶対に異形の存在になりません』
…たとえ、物語通りにならなかったとしても。
私は、“ま族”だ。
精霊であり、聖樹であり…ま族。
決して、人族ではない。
そのことを秘密にしたまま誰かと結婚することなんて、絶対にできない――
風の冷たさに、肩がぶるりと震えた。
ゆっくり顔を上げると、ビッケが部屋の方から心配そうにこちらを見ていた。
「…ごめん」
両足を椅子から下ろして、脱いだ靴を探した。
「……」
ふと思い立って、裸足のまま手すりの前まで進んでいった。
どうせ、このあとお風呂に入る。
眼下には、城下町の灯りが優しく広がっている。
あそこは、四塔近くの酒場だろうか。
どこかで、サムたちも酒を飲んでいるかもしれない。
私の誕生日を…祝ってくれているのだろうか。
先ほどまで聞こえていた音楽が、消えている。
祝宴が、終わった。
リリアンヌは身を乗り出し、左下へ目を向けた。
ここから、かろうじて王城の入り口を見ることができる。
客たちを乗せた馬車が、列をなして帰っていく。
私の誕生日の祝宴のはずなのに、初めて会う人たちばかりだった。
ラジャタ村に行って、城下町を出歩くようになって。
自分の世界は広がったなんて思っていたけれど、まだまだ狭い。
このまま…
終わってしまうのだろうか。
…また、旅に出たい。
また、精霊に会いたい。
あの、綺麗な光景を。
特別な時間を。
特別な人と――
「…はぁ」
リリアンヌは溜息をつき、そっと姿勢を戻した。
いつまでもこうしているわけにはいかない。
きっと後ろでは、まだ心配そうにビッケが見ているのだろう。
振り向きながら、何気なく右下へ目を向けた。
「…!」
下に――誰かいる。
灯りと灯りの間に立っているから、黒い影になり、誰か分からない。
だけど、見上げていることだけは分かる。
じっと動かず…ただ、こちらを見ている。
やがて人影は一礼すると、城内の方へ歩き出した。
「…っ!待って…!」
あれは、
あの影は――
「!おい、リリアンヌ!」
ビッケの制止も聞かず、
リリアンヌは勢いよく手すりを越え、テラスから飛び降りた。




