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セスランディア王国物語  作者: あきよし りん
第十五章/大好きな人たちと大切な時間を
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専属侍女の願い②

ニア視点



エラドリオール邸は、最高の職場だ。



前の職場のように、陰湿ないじめもない。


というより…誰も、それどころではなかった。



王城の次に大きいと言われるこの屋敷に、使用人はたった五十人しかいない。


誰もが自分の役割にとらわれず、忙しく屋敷中を動き回っていた。



自分に落ち着きがなく、言葉遣いもなっていないことくらい分かっている。


だけどここでは、それを指摘する人は誰もいなかった。


先輩たちに怒られたこともあるけれど、人格を否定するようなことは言われない。



それどころか、頑張り屋だと褒めてもらった。


奥様も、「あなたが来てくれて良かったわ」と何度もおっしゃってくださった。


こんな自分を、初めて認めてもらえた。



何もかも、お嬢様のおかげだ。


お嬢様が、私の良さを引き出してくれたから。



最初に出会った時のことを、今でも覚えている。


ぱっちりした目に、艶やかな黒髪。


人形と見間違うくらい、美しい少女。


その顔が、にっこりと笑った。



――ニア、これからよろしくね



緊張して、何も分からない私に、お嬢様はたくさん話しかけてくれた。


たどたどしい言葉で、一生懸命、屋敷のことを説明してくれた。


使用人の名前をひとりひとり呼んで、私のことを紹介してくれた。



――彼女は、ニア。今日から、私の侍女なの



そう話すお嬢様を、誰もが微笑ましそうに見ていた。


その時から、分かっていた。


ああ、お嬢様はこの屋敷の、大切な宝物なのだと。



お嬢様の周りには、花が咲いたように笑顔が生まれた。


厳格なご主人様も、気難しいサイラス様も、お嬢様の前ではいつでも笑顔だった。



確かに、大変なこともあった。


お嬢様は驚くほどお転婆で、よく駆け、よく泥まみれになっていた。


ドレスを汚して、一日に何度もお着替えをしたこともある。


怪我こそしたことはなかったけれど、何をしでかすか、分かったものじゃない。



そうかと思えば、一度何かに集中すると、時間も忘れてしまう。


放っておくと寝ることも忘れてしまうから、お嬢様がちゃんとベッドに入ったかどうか、毎日確認する必要もあった。



八歳でスノウ様を見つけて登城するようになってからは、笑顔も減ってしまった。


何かに追われているかのように、思い詰めた顔をすることもあった。



だけど長い眠りから覚めたお嬢様は、すっかり出会った頃のお転婆少女に戻っていた。


一年前にビッケの村へ旅に行ってからは、それはもう、毎日を生き生きと過ごしている――



お嬢様を乗せた馬車が、小さくなっていく。



「…行ってらっしゃい、お嬢様」

ニアは、口の中で呟いた。



どうして今回、お嬢様がここを出て、王城に住むことになったのか。


本当の理由は、私には分からないけれど。


お嬢様ならきっと、城の人たちもあっという間に笑顔にしてしまうのだろう。



お嬢様がいたから、私の存在が認められ、居場所ができた。


何もかも、お嬢様がいたから。



「……」

ニアは馬車に向かい、深々とお辞儀をした。


私の、可愛いお嬢様――



「…ん?」

ふいに、隣から訝しげな声が上がった。



「…へ?どうしたんです、ステファン様」



「…馬車が止まったな」



「…!」

ニアは、すぐにステファンの視線の先を追った。



先ほどまで遠ざかっていた馬車が、ぴたりと止まっている。


何か、不備でもあったのだろうか。


その馬車から、突然、人影が飛び降りた。



「ニアー…っ」



「…えっ」



「ニアー…!待って!」


飛び出した人影は、お嬢様だった。


追いかける護衛を気にせず、必死でこちらへ駆けてくる。



「…あ、開けるか」


「そうだな…」


門番たちが、たった今閉めたばかりの門をゆっくりと開けた。


細く開いた門の隙間を、リリアンヌはするりと抜けた。



「おっ、お嬢様っ」



「ニア…っ!」



「一体――わっ!」


体に飛びつかれ、それ以上言葉が続かなかった。



「今日でエラドリオール邸を出ていくって、本当…!?」



「…!」



「本当なの…っ?」



「ど、どうして、それを…」



「ビッケが、教えてくれたの!」



「!」


そうだった。


あの子は、とても耳が良い。



「どうして?どうして出ていくの?」

リリアンヌは体を離すと、息つく間もなく質問を重ねた。



「私が王城に住むようになったから?」



「ええっ…?いいえ、関係ありませんよぉ」

ニアは慌てて首を振った。



「じゃあ、どうして?なんで何も言ってくれなかったの…?」

リリアンヌの瞳が、じわりと潤んだ。



「今日で最後なんてっ…信じられない…!」



「さっ、最後っ…?」

ニアは、きょとんと目を丸くした。



「最後って、なんですか?」



「…へ?」

リリアンヌは、同じように目を丸くした。


見つめ合ったまま、沈黙が流れた。



「…だ、だって、エラドリオール邸を出るって」



「はい。エラドリオール邸の使用人部屋を、出ます」

ニアは、こくりと頷いた。



「え…?…え?」

リリアンヌの顔に、困惑が広がった。



「…ニア。だから言ったでしょう」

二人の横で、ステファンがこほんと咳払いした。



「今度こそ、お嬢様へ説明しなさい」



「…お嬢様、すみません。きちんと説明します」

ニアは姿勢を正し、静かに切り出した。



「私、結婚するんです。奥様がご紹介くださった方と」



「えっ…えええっ…!」

リリアンヌの大きな目が、さらに開かれた。



「それは、おめでとうっ…ええと…どなたと?」



「王都に住まわれている商人の方です。第二城壁の北門を出てすぐのところに、家を構えているんです」



「…すぐ、そこね?」



「はい、そうです。大変理解のある方で、私が引き続きエラドリオール邸で働くことを、快く賛成してくださっています」



「!通いで、ここで働くということね?」



「その通りです。夕方には帰りますが、お嬢様がいらっしゃる時はもちろん、今まで通り私がお世話させていただきます」



「…よ、良かったぁ…」

リリアンヌは、へなへなと肩の力を抜いた。



「てっきり、辞めるものとばかり…」



「それでしたら、さすがにお嬢様に言いますよぉ」

ニアは、くすっと苦笑した。



「…でも、結婚することまで教えてくれないなんて、ひどい」

いつもみたいに、ぷくっと頬を膨らませている。



「もちろん、落ち着いたらお伝えするつもりでしたよ。昨日のサイラス様の結婚式まで、お嬢様もお忙しかったですから」



「そんなの、関係ないでしょう?ニアの結婚は、一度しかないのだから」



「?それは、そうですけど」


さすがに、今から二度目の結婚のことは考えていない。



「ニアの、結婚祝いをしよう…!」

リリアンヌはそう言って、嬉しそうに両手を叩いた。



「明後日は…さすがに無理だけど、その次、ここへ私が来る日に」



「えっ、いいですよ、お嬢様」

ニアは慌てて首を振った。



「私なんかのために、そんなことしなくていいです。それに、これからも働くのですから、何も変わらないですよ」



「何も変わらないわけ、ないでしょう?」



「!」



「それに…私なんか、じゃない」

リリアンヌは両手で、そっとニアの右手を握りしめた。



「今までたくさん頑張ってくれたニアのために、私が何かしたいの」



「…お嬢様ぁ」

ニアは、じわりと目元を滲ませた。



「ね、ニア。何か欲しいものはない?新しい家に住むのでしょう?何か必要なものはある?」



「ぐすっ…いいえ、何もいりません」



「そんなはずないでしょう?調度品とか、調理器具とか…」



「…本当に、いいんです」


もう…十分、貰っている。



溢れるほどの言葉と、


溢れるほどの思い出を。



「ん~…でも、私だって、ニアのお祝いがしたい」



「…ひとつだけ、欲しいものがあります」



「!なあに?」

リリアンヌは、意気込むように顔を近づけた。



「昨日の言葉を…もう一度、聞かせてくれませんか?」

ニアは、涙ぐんだ目をじっとリリアンヌへ向けた。



「…昨日の言葉?」



「はい、そうです」



「……」

目を伏せて、黙り込んでしまった。



昨日もたくさん話したから、きっと、どの言葉のことか探しているのだろう。


だけど、「あの言葉です」と自分から言うのは…恥ずかしい。


そうかといって…これ以上、お嬢様を困らせるわけにもいかない。



「…あの、お嬢様。もう――」



「ニア、本当にありがとう」



「…!」



「ニアは、私の最高の侍女だわ」

リリアンヌは、にっこりと笑った。



「本当に、おめでとう。ニアが結婚することが、とっても嬉しい」



「…っ…お、お嬢様は、私の最高のお嬢様です…っ」

ぽろぽろと、涙がこぼれ落ちた。



「ふふっ…ニアってば、また同じところで泣いてる」



「そりゃ、泣きますよぉ…もう、お嬢様の部屋の灯りを消すことはできないのですから」



「んん…最近は、私が自分で消していたと思うけれど」



「一生懸命日記を書く後ろ姿を見ることもできませんし、もう寝てくださいと叱ることもできません」



「それは…う~ん、ごめんなさい」



「可愛らしい寝起きの顔も見ることができませんし、それから、謎かけのような寝言も――」



「う、うわわっ…ニア!」

リリアンヌは慌ててニアの口を塞ぐと、さっと後ろに顔を向けた。



「……」

開かれた門の向こうで、静かに護衛が待っているだけだった。


止まってしまった馬車の横では、ビッケが困ったように立っている。



「とっ、とにかく…明後日また、ゆっくり話そうっ…?」

リリアンヌは、赤くなった顔をニアに向けた。



「ええ、その通りですね」

ずっと黙っていたステファンが、さっと口を挟んだ。



「お嬢様。今後は、あのように馬車を降りてはいけませんよ」



「…ごめんなさい」



「皆さんが困ってらっしゃいます。もう、馬車へお戻りください」



「はい、そうします」

リリアンヌは素直に頷くと、そっとニアの口から手を離した。



「うっ…うっ…」

その瞬間、堪えていた嗚咽が漏れた。



「ニア…もう、泣かないで」

リリアンヌは、もう一度ニアの手を握った。



「寂しいけれど…ニアにとって、おめでたいことなのだから」



「っ…」


違う。


お嬢様の優しさに、涙が止まらないだけだ。



「じゃあ…ステファン、ニア。今度こそ、行きます」

リリアンヌは気まずそうな笑みを浮かべると、門へ向き直った。



「ええと…驚かせてしまって、ごめんなさい。門を開けてくれて、ありがとう」



「あ…ええ、いえ」


「どうぞ、お気をつけて」


門番たちが、どこか呆然としながら答えた。



「アランフォースも、すみませんでした」



「二度と、勝手に馬車を止めないでください」



「…はい、ごめんなさい」



「もう二度と、私より先に馬車を降りないでください」



「…本当に、ごめんなさい」


お嬢様の後ろ姿が、どんどん遠くなっていく。


心なしか丸まっている気はするけど…もう、出会った頃のような小さな背中ではない。



今ではたくさんのものを背負う、立派な背中だ。



私の、可愛いお嬢様。


お嬢様が私に与えてくれたほどの幸せが、お嬢様のもとにも届きますように――



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