専属侍女の願い①
ニア視点
――十年ほど前
「ニア…また、あなたなの…」
ソファで足を組む貴婦人が、重い溜息を吐いた。
「…申し訳ありません、奥様」
ニアはソファの脇で、深々と頭を下げた。
「これであなたを呼び出すのは、何度目かしら」
「…本当に申し訳ありません」
「申し訳ございません、でしょう。まったく…あなたを指導したのは、誰だったかしら」
「わたくしたちです、奥様」
貴婦人の言葉に、壁際に立つ使用人が、さっと口を開いた。
「ですが、言葉遣いの悪さも、粗忽なところも、すべて彼女自身の問題です。生まれつきの性分は、変えようがございません」
「そうですよ、奥様。私たちがまさか、物を割ってもいいなどと指導するわけがございません」
さらにその隣の者が、付け足すように言った。
「はあ…もう分かったわ。お黙りなさい」
貴婦人は煩わしそうに手を払い、使用人たちの言葉を止めた。
「ニア…あなたには、今日限りで辞めてもらうわ」
「そっ、そんなっ…」
ニアは弾かれたように顔を上げた。
「食器を割るくらいなら、まだ許せたわ。だけど、さすがに先代から受け継いだ花瓶まで割られてはね…」
貴婦人はテーブルに置かれた葉巻を手に取り、火をつけた。
「わ、わ、私は――」
「ニア…他の使用人とうまくやっていくことも、大切な仕事よ」
白い煙が、ゆっくりと室内に広がっていく。
「あなたがいることで、輪が乱れるの」
「……」
「安心しなさい。次の職場が見つかるまでは、給金を出すわ」
「…あ、ありがとうございます…」
「話は、以上…」
貴婦人が、ふと口を閉ざした。
「…ああ、ひとつ、あなたに紹介できる先があるかもしれないわ」
「…!」
ニアは、わずかに身を乗り出した。
「先日の茶会で、アヴェリーン夫人が娘のための侍女が欲しいと言っていたのよ。変な条件だったから、きっとまだ見つかっていないのではないかしら」
「…?」
アヴェリーン夫人が誰なのかも、変な条件が何を指すのかも分からない。
「あっ、アヴェリーン夫人…っ!?」
再び、壁際から声が上がった。
「あのエラドリオール家で、この女が働くというのですかっ…!?」
「…!」
エラドリオール家――
この国唯一の、大公爵家だ。
「奥様、本気でおっしゃっているのですか!?ニアに大公爵家の侍女なんて、絶対に無理ですよ!」
「お黙り」
貴婦人が、鋭く使用人たちを睨みつけた。
「言ったでしょう。条件があるのよ」
「お、奥様…条件とは、何でしょうか…?」
ニアは、恐る恐る尋ねた。
「元気が有り余っているような、若い娘」
貴婦人は、さらりと答えた。
「へっ…」
「それから、木登りができる者なら、なおいいと話していたけれど…あなた、できるかしら」
「…はい、できます」
「…ぷーっ…!」
「さ、さすが、田舎育ちの男爵娘っ…」
使用人たちが、ニアの言葉にくすくすと笑った。
「そう。それなら、推薦状を書けるわね」
貴婦人は、使用人たちには目もくれなかった。
「さっそく明日、書状を送ってみるわ。返事が来るまで、与えた部屋で待っていなさい」
「…あの、その間、仕事は…」
「もう、しなくていいわ。あなたが屋敷内を歩き回るたび、割れるものが増えるのだから」
「……」
「ニア…あなたは、まだ若いわ。それに、つらい環境にも耐え抜く強さがある」
貴婦人は、葉巻の煙を吐き出しながら続けた。
「次の職場は、あなたの良さを生かせるところだといいわね」
「…はい」
ニアは目を伏せ、小さく頷いた。
――そして、現在
「よいせっと…」
ニアは両手で持った大きな鞄を、どさっと荷馬車に載せた。
「これで最後ですか?」
「はい、そうです。予定通り、王城の方へお届けください」
「ええ、分かりました」
御者は短く答えると、積み荷を手早く固定していった。
やがて荷馬車が、一足先に王城へ向かっていく。
「すごい荷物になっちゃったね…」
後ろから、申し訳なさそうな声がぽつりと聞こえた。
「…何をおっしゃっているんですか」
ニアは両手を腰にあて、くるりと振り向いた。
「王族の荷物としては少ないくらいですよ、お嬢様!」
「…でも、嫁ぎに行くわけではないから」
リリアンヌは眉を下げ、気まずそうに笑っていた。
「週に一度以上は、ここへ戻ってくるし…」
「それでもですよ。家具なんて、何も持っていかれないじゃないですか」
「だって、王城に備え付けてあるもので十分だもの」
「調度品も、ランタンと羅針盤だけですか」
「それはお父様から頂いた、大切なものだから」
「あっ、お嬢様。日記帳は積まれましたっけ?」
「大丈夫。今までのものも含めて、ビッケが持ってくれているの」
リリアンヌは言いながら、ちらりと後ろに視線を向けた。
ビッケは、大きな鞄を軽々と片手で持っていた。
「ビッケ。お嬢様のこと、ほんっとうに頼んだわよ」
ニアは、ぐいっとビッケに顔を寄せた。
「目を離しては、駄目よ。すぐに見失っちゃうんだから」
「…分かったって」
ビッケは、視線だけをニアに向けて小さく返事した。
「もう…ニアったら、何年前の話をしているの」
リリアンヌは、困ったような笑みを浮かべた。
「ニア、その辺りにしておきなさい。お嬢様がいつまでも発てないでしょう」
「!」
屋敷の方から聞こえた声に、ビッケの表情が一瞬で引き締まった。
「おや…ビッケ、素敵な飾りピンですね」
ステファンはビッケの胸元に視線を向けると、ふっと笑みを浮かべた。
「…ありがとうございます」
ビッケは姿勢を正し、素早く一礼した。
「ステファン、わざわざお見送りありがとう」
「とんでもございません。本日はお嬢様にとって、大切な日でございますから」
「ステファンまで、大袈裟ね。明後日、また来るのに」
リリアンヌはくすっと笑うと、門の方へ目を向けた。
門の向こうでは、すでに馬車とお嬢様の護衛が待っている。
「それじゃあ…ステファン、ニア。そろそろ行くね」
「お忘れ物は、ないですか?何か足りないものがあったら、すぐにビッケに伝えてくださいね」
「忘れ物があったら、次回来た時に持っていけばいいでしょう?」
門を過ぎたところで、リリアンヌはくるっと振り返った。
「ニアったら、いつからそんな心配性になったの?」
「私は、もともと心配性ですよ」
「ふふっ…そうだね。心配性で、お喋り好きで、それから、少しお小言が多いかな?」
「ええっ?」
「要は、大好きってこと」
リリアンヌが、にっこりと笑った。
「じゃあ、またね」
小さく手を振り、こちらに背を向けた。
「アランフォース、今日もよろしくお願いします」
「ええ、よろしくお願いします」
「ありがとう」
護衛の手を借りて馬車へ乗り込み、あっという間にその姿が見えなくなった。
「…ぐすっ…」
「ニア…まだ、お嬢様が見ていらっしゃる」
ステファンが隣で、苦笑混じりに囁いた。
馬車の大きな窓から、リリアンヌがこちらへ顔を向けていた。
自分たちが見ていることに気付くと、にっこりと笑って手を振った。
ニアは小さく手を上げ、それに応えた。
馬車が、ゆっくりと動き出す――
「…これで良かったのか?」
ステファンが、静かに囁いた。
「お嬢様に何もお伝えせず…本当に良かったのか?」
「…はい」
ニアは手をゆっくり下ろすと、小さく鼻をすすった。
「お嬢様に、私のことなんかで煩わせたくないです…」
今日――私は、エラドリオール邸を出ていく。
あの馬車を見送ったら、すぐにでも発つ予定だ。




