忘れられない記憶②
リリアンヌ視点
「…!」
アランフォースの重ねた手が、ぴくりと動いた。
「……」
リリアンヌは目を閉じ、じっと記憶の続きを待った。
場所は――ここだ。
目の前と同じ聖樹が、そびえ立っている。
聖樹の周りには、色とりどりの光が浮かんでいる。
光は、動物、昆虫、小人…いろいろな姿だ。
精霊たちが、思い思いに戯れていた。
記憶の端から、ひとりの旅人が現れた。
人族…だろうか。
頭からすっぽりとマントをかぶっていて、その顔は分からない。
旅人が、聖樹に手を伸ばす――
見えた手は、すらりと細かった。
女性だ。
その女性の指先から、優しい白い光が溢れた。
光はどんどん広がり、辺りを包んだ。
聖樹の鼓動が、低く響き渡った。
周りを飛ぶ精霊たちは、ふわりと光を膨らませた。
聖樹も精霊も、喜んでいる。
「…ふふっ」
女性が、マントの下で嬉しそうに笑った。
…なんて綺麗な光景なのだろう。
これは――
――聖樹は、記憶を与える
これは、聖樹の記憶だ。
唐突に、そこでぷつりと途切れた。
「ホ~…」
スノウが肩に戻ってきた。
ここは、現実だ。
「……」
アランフォースは、リリアンヌの手をそっと聖樹から離した。
「アランフォースも…見ましたか?」
「…ええ。今のは何でしょうか」
「恐らく、聖樹の記憶です」
「…聖樹の記憶?」
「きっと…何百年も前のもの」
精霊と人間が共生していた時代のものだ。
もしかしたら、もっと古い記憶かもしれない。
「なぜ…そんなものを?」
「…それは、分からないけれど」
でも、きっと――
「昔は、当たり前のように白のちからを聖樹に送っていたのかな」
リリアンヌは、そっと振り向いた。
「精霊がここにたくさんいたことを、私たちに伝えたかったのかも」
「……」
アランフォースはしばらく、黙って聖樹を見つめていた。
「…あなたは、いつもこれを見ていたのですか?」
その視線が、ゆっくりとこちらへ向いた。
「え?いいえ、初めてです」
「…ですが、驚いていない」
「う~ん…慣れた、かな?」
ビッケと同じようなことを言ってしまった。
「…そうですね。もっと不思議なことを経験してきました」
アランフォースは、ふっと笑みをこぼした。
「……」
「祈りは、しないのでしょうか」
「あっ…そうですね」
リリアンヌは、はっと聖樹に向き直った。
右手で額に円を描き、胸の前で両手を組む――
…また、必ずここに来ます。
また、白のちからを送るから。
その頃には、精霊だってきっともっと増えているから。
だから…どうか、寂しがらないで。
「…よし」
顔を上げて、手を前に伸ばした。
「またね」
最後に聖樹にそっと触れて、離した。
「…もう、いいのですか?」
「え…?駄目ですか?」
どうして驚いているような顔をしているのだろう。
「…いえ。終わったのなら、戻りましょう」
「…?はい…」
首を傾げながら、歩き出したアランフォースに並んだ。
最後なのに、あっさりしすぎただろうか。
「てっきり…また、何時間も祈るものと思っていました」
「…あ!」
はっと、アランフォースに顔を向けた。
「だから、朝だと難しいと言ったのですか?」
往復で二時間もかかるうえに、祈りの時間もあるから。
「…そうですね」
アランフォースは小さく頷いた。
「さすがに、時間と空気くらい、読めます」
リリアンヌは、小さく口を尖らせた。
こんな夜に、いつものように長い時間祈るつもりは初めからなかった。
「……」
「…どうして、賛同してくれないのでしょうか?」
そこで黙られると、まるで空気が読めない人間と言われているようだ。
「……」
「…あの」
だんだん、ひとりで話していて虚しくなってきた。
「…ふっ」
「!」
「…すみません」
アランフォースは小さく咳払いすると、再び前を見て進んでいった。
「…何も面白いことは、言ってないと思うけれど」
顔を、背けなくてもいいのに。
「いいえ。嬉しかっただけです」
「?どうしてですか?」
「あなたが、前より様々な表情を見せるようになったことが、嬉しい」
ちらりとこちらを向いた顔は、微笑んでいた。
「…!」
リリアンヌは、ぎゅっと言葉を詰まらせた。
「そ、それは…アランフォースの方でしょう…?」
「…そうでしょうか?」
「それに…私はもともと、こういう表情です」
「ええ。分かっています」
アランフォースは、再び笑みを浮かべた。
「ですから、それを私にも向けてくださっていることが嬉しいのです」
「……」
それは…本当に、こっちの言葉だ。
やっと…笑ってくれた。
静かな森を、ふたり並んで歩いていく。
やがて、樹々の向こうに岸が見えてきた。
アランフォースは舟に片足をかけ、手を差し出した。
「気を付け――」
ふいに言葉を止め、視線を湖に向けた。
「…?」
リリアンヌは手を取ったまま、アランフォースの視線を追った。
暗い水面に、ゆっくりと波紋が広がり――ざぱりと盛り上がった。
「きゃぁ…っ!」
ぎゅっと、手を強く握った。
「湖の主ですね」
アランフォースが冷静に言った。
水面から、大きな亀が顔を覗かせていた。
「…び、びっくりした…」
まだ、心臓が早鐘を打っている。
「また運んでくれるのでしょうか」
「でも…舟をここに置いていってもいいのかな」
リリアンヌに応えるかのように、湖の主が岸に体を寄せた。
舟が、ゆらりと甲羅の上に乗った。
「…もしかして、舟ごと乗せてくれるの?」
顔を出した主が、ゆっくりと瞬きした。
「すごい…!そんなこともしてくれるの?」
リリアンヌは、ぱっと顔を綻ばせた。
「…すっかり、懐かれましたね」
アランフォースは、小さく苦笑を漏らした。
「あ…でも、ゆっくりでお願いします」
さっきの速いのも楽しかったけれど、叫べば、また耳の良い獣人族たちが集まってしまう。
分かったよ、とでもいうように、主は甲羅をぐらりと揺らした。
「…乗りましょうか」
握ったままだった手を、アランフォースが優しく引いた。
ふたりで、甲羅に乗った舟の上に腰を下ろした。
「まさか…旅の最後に、こんな思い出ができるなんて思わなかった」
リリアンヌは、ふふっと笑みを浮かべた。
「…そうですね」
アランフォースが、優しく相槌を打った。
湖の主がゆっくりと岸から離れ、
ふたりを乗せた舟は、静かに水面を進み出した。
「涼しい…」
火照った頬に当たる風が、心地よい。
「…ここに来て、本当に良かった」
リリアンヌは湖に顔を向け、ゆっくりと笑みを広げた。
「今回の旅で、いろんなことを経験して、たくさん成長した気がします」
「ええ。あなただけではなく、全員が変わりました」
「…えっ、全員?」
きょとんと、正面に顔を向けた。
「…気付いていませんか?」
アランフォースは、困ったように眉を上げた。
「あなたが、変えました」
「…全員って?」
「旅の同行者たちも、村人も、騎士たちも、全員です」
「…わ、私が変えたって、どういうこと?」
まったく身に覚えがない。
「…説明するのは、少し手間ですね」
アランフォースは、そっと目を逸らした。
「面倒くさがらないでください…」
「…ネウロ殿が、きっと喜んで説明してくれます」
「そんなぁ…」
本当に、説明してくれなさそうだ。
「…じゃあ、せめて、私がアランフォースをどう変えたのかだけでも教えてください」
リリアンヌは、ちらりと見上げて尋ねた。
「…それは、言えません」
顔まで逸らされてしまった。
「気になることだけ言って、何も教えてくれない」
むうっと、思わず頬が膨らんだ。
「…ははっ」
「…!」
今度は――はっきりと笑った。
「…すみません。あなたの怒り方は、随分可愛らしいなと」
アランフォースの口元には、まだ笑みが残っていた。
「…お、怒る時は、しっかり怒ります」
よく分からないことを口走ってしまった。
「…出立した日に話したことを、覚えていますか?」
「…加護仲間の話ですか?」
リリアンヌは、恥ずかしそうに答えた。
「その前です」
「…遠慮をしないでという話?」
「もっと前です」
「……」
いろいろ話しているから、すぐには思い出せない。
「あなたは、私に怒りの感情を一度も持ったことはないと話しました」
「あ…はい」
手紙の件でお互いに誤解していたことがあったから、咄嗟にそう言った。
「ですが…今も、あなたは私に怒った」
アランフォースは、嬉しそうに目を細めた。
「これは…でも、本気ではありません」
怒りの感情と、怒ることは違う。
「ええ、分かっています。それでも、旅の前には見せることのなかった一面です」
「そう…だったかな」
本当は…分かっている。
昨日、酔った勢いのままアランフォースと言い合いをして…
それが、楽しかった。
だから、つい我儘みたいなことを言った。
さっきも、今も。
「…呆れましたか?」
リリアンヌは、おずおずと視線を上げた。
「…何を聞いていたのでしょう」
「…ほら、呆れてる」
「これは、今のあなたにです」
アランフォースはふっと笑うと、視線を横に向けた。
「…もう、戻ってきましたね」
「あ…」
舟着き場が、見えてきた。
宴はまだやっているのか、治療院の向こうは賑やかだ。
もう、終わってしまう――
「リリアンヌ」
「…はいっ」
びくっと、顔を前に向けた。
「…!」
アランフォースは身を乗り出し、顔を近づけていた。
「先ほどの言葉を、撤回します」
「…え?」
「何も変わっていないと言いましたが、私たちは確かに変わっている」
すぐ近くの顔に、ゆっくりと笑みが広がっていく。
「これからも、傍にいますから…もっと、あなたのことを教えてください」
その知らない笑みから――目が、離せなかった。




