忘れられない記憶①
リリアンヌ視点
「リリアンヌ殿下」
「はいっ…」
「…この舟に乗りましょう」
アランフォースが選んだのは、二人乗りの小ぶりの舟だった。
「気を付けて」
「あ、ありがとうございます…」
アランフォースの手を取り、ゆっくりと舟に乗り込んだ。
先端についていたランタンを灯すと、柔らかく辺りが照らされた。
それでも水面は、真っ暗だ。
「ホ~」
スノウがランタンの上にとまり、まるで雪だるまのような影ができた。
アランフォースが正面に腰を下ろし、両側の櫂を大きく引いた。
舟が動き出し、舟着き場が離れていった。
ゆっくりと、宴の喧騒が遠のいていく。
「お手数を、おかけします…」
リリアンヌは両足を抱え、小さく縮こまった。
「遠慮しないでくださいと、申しました」
「だけど、申し訳なさすぎて…」
こんな遅い時間に、舟を漕がせるなんて。
「…キリ殿やビッケには、気を遣わないのに?」
「えっ…?」
「あの二人にだったら、あなたは躊躇わず頼めるでしょう?」
アランフォースは櫂へ目を向けながら、静かに尋ねた。
「……」
二人になら…
「頼める…かな」
「でしょう。何が違うというのです」
「そ、それは…」
違うというか…
「…そうさせているのは、私ですね」
小さな溜息が、耳に届いた。
「…え?」
リリアンヌは、そっと眉をひそませた。
「村へ来た初日の話です」
アランフォースは素早く答えた。
「あなたが傷つくと分かったうえで、私はひどいことを言いました」
「傷ついてなんていません」
すぐに首を振った。
「アランフォースは、私のためを思って言ってくれたから――」
「ですが、私が追い討ちをかけた」
鋭く遮られた。
「…いいえ、違います」
「泣いていたでしょう」
「……」
「…傷つけてしまい、申し訳ありませんでした」
「違います…!」
リリアンヌは、咄嗟に返した。
「そうじゃなくて…」
傷ついたのは、アランフォースのせいじゃない。
何も言えない自分に、悔しさを感じただけだ。
…寂しさを、感じただけ。
「…左肩の件も、知りませんでした」
「…左肩の件?」
「精霊王が、話していたでしょう」
アランフォースは、自分の左肩をとんと指さした。
「異形の存在に負わされた傷が…消えていないのですね?」
「……」
隠していたつもりは、なかった。
でも、敢えて言わなかった。
「…痛むのでしょうか」
「…いいえ。痛みはありません」
リリアンヌは目を伏せ、小さく首を振った。
「なぜ、傷が消えていないのでしょうか」
「…分かりません」
なんとなくは、分かっている。
「オーリア様にその件について聞きたかったのですが…先に、伯父上へ何かお話があるみたいです」
『君に…一生の枷を、負わせてしまった』
王都に戻ったら、一生の枷が何なのかも、聞かなくてはいけない。
村で、楽しい時間を過ごしてきて――
このまま、忘れていたかった。
「村が山賊に襲われる可能性があることは、どうやって知ったのでしょう」
「…え?」
また、話が変わった。
「……」
アランフォースの目は、まだ櫂に向けられていた。
「ええと…ですから、お父様に山賊の話を聞いて――」
「あなたの御父上も兄上も、あなたが不安になるようなことは決して言わないでしょう」
「……」
山賊という言葉は、どちらからも聞いていない。
「…教えてはくれないのですか」
「…その」
オーリアやレックスのように、予知夢を見たことにしても…
アランフォースには、なぜか信じてもらえない気がする。
それに、今――誤魔化すことが、すごく嫌だ。
けれど、“物語”をうまく伝えられる気もしない。
また…何も言えない。
でも、黙ったままじゃ駄目だ。
どうしよう…
早く、何か――
「仲間などと言って…何の力にもなれない」
ふっと、自嘲するような笑いが耳をかすめた。
「結局、何も変わらない」
その言葉が――ずんと胸に落ちた。
辺りに、静寂が広がっていく。
櫂を漕ぐ音が、やけに響いて聞こえた。
「…申し訳ありません」
やがて、アランフォースは再び口を開いた。
「私が、こんなことを言う資格など――」
「…違う!」
「…!」
アランフォースは、すぐに言葉を止めた。
「どうしてっ…変わらないなんてっ…」
リリアンヌは膝を抱えたまま、舟底に向かって声を絞り出した。
どうして、分かってくれないのだろう。
「私がっ…アランフォースと一緒にいられて、どれほど嬉しいか…っ」
自分の知っていることを、話すことができなくても。
物語の仲間とか関係なく、
目の前の優しい騎士が傍にいてくれることが、
何度も、心を温めた。
何度も、勇気をくれた。
「どれほど安心したか…知らないくせに…っ!」
一番届いてほしい言葉だけが、届かない。
一番届いてほしい人に――届かない。
「…殿下」
「…ごめんなさい」
上を向けない。
こんなにひどい顔を、見せられない。
どうしてこうなってしまったのだろう。
泣くつもりなんてなかったのに。
自分が、情けない――
「…リリアンヌ。私を、見てください」
「…!」
はっと、顔を上げた。
触れてしまいそうな距離に、アランフォースの顔があった。
「…結局、あなたを泣かせてしまった」
大きな手が、目の下に触れた。
「これはっ…アランフォースが」
「分かっています。私が、理解していなかった」
「傷ついてなんか――」
「もう、分かりましたから」
アランフォースの指先を、涙が濡らした。
「…あまり見ないでください」
暗くても、これだけ近かったらぼろぼろな顔が丸見えだ。
「…では、ひとりで泣くのはやめてください」
「泣きやむので…待ってください」
リリアンヌはふいっとアランフォースの手を避け、体を横に向けた。
ひくっ…と情けない嗚咽が漏れた。
「…そうではなく」
「えっ…」
ふいに体が持ち上げられ、舟が大きく揺れた。
「…!」
咄嗟に、目の前のものにしがみついた。
アランフォースの肩だった。
「え…あ、あの…」
膝の上に、座らされている。
「もっと、近くなったのですが…」
混乱しすぎて、何を言っているかも分からない。
「私の肩を使ってください」
アランフォースはそっとリリアンヌの頭に触れると、優しく肩へ引き寄せた。
「…っ」
泣くどころじゃない。
心臓が、早鐘を打っている。
「初めは、単純にあなたの力になりたかった」
アランフォースは気にせず、静かに続けた。
「……」
初めとは、いつだろう。
出会った時か、それとも専属護衛となった時の話だろうか。
「ただ笑っていてくれるだけで、嬉しかった」
「…!」
『殿下が笑えば、私も嬉しい』
『あなたが笑えば、心が温まる』
精霊祭で、アランフォースがくれた言葉――
「あなたが眠りについた時…このままでは駄目だと思った」
耳元に、かすれるような声が落ちた。
「二度と無理してほしくなかった。二度と、何かに耐えるような顔をさせたくなかった」
『我慢した結果、あなたが一番ちからを使い、一番気に病んでいる』
「…っ」
ぽたりと、涙が落ちた。
胸が苦しくて、痛い。
「…これは、私の我儘です。本当は…私には、あなたを止める権利などない」
「…!」
肩に頭を預けたまま、小さく首を振った。
「せめて背負うものを分けてほしいと願っても、あなたは決して、それを人に渡さない」
「…ごめんなさい」
「…本当に、うまくいかない」
寂しげな声が、耳に残った。
本当に…うまくいかない。
ここまで、私を思ってくれているのに。
自分が背負っているものは、決して、渡してはいけないものだから。
「…傍に、いてくれたら」
縋るように、ぎゅっとアランフォースの服を握りしめた。
「アランフォースが傍にいてくれるだけで、頑張れるから…」
「……」
アランフォースは背中を優しくさすると、ゆっくりと櫂を動かした。
再び、辺りが静寂に包まれた。
どうしてアランフォースは、こんなに優しいのだろう。
初めて出会った時から、ずっと。
いつも優しくて、いつでも護ってくれた。
それなのに。
どうして私は、悲しませるようなことしかできないのだろう。
困らせて、怒らせて。
私だって、アランフォースの助けになりたいと思っている。
…何もできていないけれど。
お互い相手の力になりたいと思っているのに、
どうして、こんなにも胸が苦しいのだろう――
「…着きました」
「…あっ」
はっと顔を上げ、手を離した。
「お、降ります…」
腰を浮かすと、ぐらりと舟が揺れた。
「気を付けてください」
アランフォースも立ち上がり、片足を岸に下ろした。
「…ランタンは、要らなそうですね」
「え…わっ、すごい」
昨日より遅い時間だからか、森はすっかり暗くなっている。
それなのに、聖樹の周囲だけは明るく照らされていた。
昨日、村の子供たちと歩いた道を、アランフォースとふたりで進んでいった。
スノウが、先に聖樹のもとへ飛んでいった。
聖樹は変わらず、そこに高くそびえ立っていた。
近づくと、青い葉が微かに揺れた。
「…触れてもいい?」
リリアンヌは、ちらりと振り向いた。
「…私も、触れてもいいでしょうか」
アランフォースが遠慮がちに近づいてきた。
「え…はい、もちろん。聖樹も、喜びます」
聖樹も精霊と同じように、人のことが大好きだ。
幹に手を触れると、アランフォースがそっと手を重ねた。
「…!」
そんな触れ方とは。
不意打ちすぎる。
「…明日、帰ります」
どぎまぎしながら、小さく呟いた。
「また…必ず、会いに来ます」
ふたりの触れる指先に、聖樹の光が集まった。
まるで、白のちからを待っているかのようだ。
「…精霊たちと会わせてくれて、ありがとう」
いつも通り、白のちからをたっぷりと送った。
辺り一帯が光り、聖樹の葉が嬉しそうに揺れた。
その瞬間――
頭の中に、自分のものではない記憶が流れ込んだ。




