変えられないもの
ラガーグ視点
今年の奉納祭は、いつもより賑やかだ。
歌い人がいるから、余計にそう感じるのだろう。
先ほどまでリリアンヌの英雄譚を歌っていたが、今は陽気な曲を弾き、その周りで村人たちが楽しそうに踊っている。
ラガーグは樹に寄りかかって座り、その様子を眺めていた。
後ろでは、静かに湖が波打っている。
「…何も、変わらない」
隣でミホバが、ぽつりと呟いた。
「むしろ、いつもより楽しそう」
「そうだな」
ラガーグは、前を見たまま頷いた。
「聖樹も、変わらないわ」
「そうだな」
「あの時の…祈りを捧げた時のまま」
「…そうだな」
相槌しか、打てなかった。
十五年前――奴隷の解放が決まり、獣人族全員ですぐに王都を去った。
その時には、両親はとっくに死んでいた。
貴族に理不尽な暴力を受け、治療もしてもらえず、苦しんだ末に死んだ。
ミホバの親はもっとひどかった。
ただ老いたというだけで首を斬られ、広場に並べられた。
…思い出したくもない。
本当に、地獄の日々だった。
皆で、獣人族が多く住むドーガ国へ移るつもりだった。
だが、この村でルゴットに引き留められた。
――逃げることは、いつでもできる
――やられっぱなしで、いいのか
――傷を癒し、その時を待て
その時とは、何か。
復讐しろということか。
だが、疲れきった心に、やけにルゴットの言葉が沁みた。
言われるがまま、ここに留まった。
村の人族は大らかで気さくで、我々を歓迎した。
何よりこの聖樹が、我々の傷を癒した。
獣人族は皆、この不思議な樹が好きだった。
ここに住むと決めた初日、
獣人族で、聖樹に祈った。
どうかもう、虐げられることがないように。
これ以上、仲間が傷つかないように。
どうか…我々にも、平和を――
祈りが届いたのか、ずっと平和だった。
たまに山賊が襲ってくるが、相手にもならなかった。
むしろ、襲ってきた人族を仕留められることが…心を、満たした。
王族がこの村にやってくるとイライジャから聞いた時は、大いに反対した。
ビッケを餌にして、懐柔にでもしにくる気か。
それとも我々を脅して、言うことを聞かせる気か。
獣人族全員で抗議したが、イライジャもルゴットも、その意見を退けた。
結局、人族とは分かり合えないのだ。
ビッケが戻ってきたら、今度こそ家族でドーガへ行こう。
そう思っていたが――
『父ちゃんだって、リリアンヌを何も知らないだろ!』
『なんで知ろうともしないで、そんなことが言えるんだよ!』
まさか、息子に言い返されるとは…
ビッケは、良くも悪くも獣人族らしく、感情の起伏が少ない子だった。
私とミホバも感情が豊かな方ではないし、こんなものかと思っていた。
『お前が、オレを助けた』
『お前が、何も知らなかったオレを変えた』
だが、彼女のために泣き、怒った。
あれほど恨んでいた王族と息子が、笑い合っていた。
操られているわけでも、脅されているわけでもない。
どちらも、純粋に相手のことを好いていた。
…出会った時から、彼女は恨むべき相手ではないと分かっていた。
我々に何の差別感情も持っていなかったどころか、
襲われた村のことを、心から心配していた。
彼女は…何も知らない。
知らないから、まっすぐに踏み込もうとする。
きっと、獣人族に関われば傷つく。
だから、関わるなと言った。
それなのに、あっという間に村の女や子供たちと仲良くなってしまった。
それどころか、聖樹まで救おうとした。
死んだ聖樹をどうする気かと見に行けば、白のちからを使った。
聖樹に襲われてなお、送ることをやめなかった。
そして…すべてが、元通りになった。
あれほど桁違いのちからを持っているのに、
精霊王と話せるほど、特別な存在だというのに。
なぜ、彼女は――
「私は…リリアンヌ様が、好きだわ」
ミホバは、ぽつりと呟いた。
「…そうだろうな」
毎日弁当を作り、衣装まで貸した。
相手が高貴な方だという理由では、決してミホバは動かない。
「もう、それでいいじゃない」
「…それでいいとは?」
ラガーグは、ちらりと隣へ目を向けた。
「過去は過去。リリアンヌ様も、ビッケも。今の子たちには、何も関係ない」
ミホバの目は、遠くに向けられたままだった。
「…お前は、それでいいのか」
忘れたくても、忘れられるような過去ではない。
「私たちが覚えていれば、それでいいでしょう。次の世代に、“それ”を持っていく必要なんてない」
――それ。
恐れ、
怒り、
恨み、
憎しみ。
溢れるほどの、負の感情。
「今の子たちが自分で考えて、自分の道を選ぶべきだわ」
「……」
ラガーグは、そっと口を噤んだ。
妻も、この先のことを分かっているのだろう。
「…私たちはこの村で、見守りましょう」
ミホバは、ふっと目を細めた。
久しぶりに見る笑顔だ。
たった十日ほどで、妻の気持ちまで変えてみせた。
それほどのことをしておきながら、リリアンヌは。
『私は…何も、救えていないから…』
「…私のせいだな」
ラガーグは、深い溜息を漏らした。
「何の話?」
「リリアンヌ殿下の優しさを、私は踏みにじった」
『姫さんの優しさを踏みにじるような奴が、この世には多くいる』
私も、そのひとりだった。
「ああ…」
ミホバは、思い出したように頷いた。
「でもきっと、リリアンヌ様はもう気にしていないと思うけど」
「いや…」
ミホバは、彼女のあの悲痛な声を聞いていない。
あれは…正直、きつかった。
あの年頃の少女から出るような言葉ではない。
彼女は一体、何を抱えて生きてきたというのか。
「気になるなら、謝りに行けばいいじゃない」
「…謝罪はいらないと言われてしまっている」
「それは困ったわね」
ミホバは、くすっと笑った。
「…せめて、礼を言ってくる」
ラガーグは、ゆっくりと立ち上がった。
「ミホバ、お前はどうする」
「私は…もう、たくさん感謝を言い合っているから」
「…何だそれ」
「家に帰ってきたら、分かります」
「……」
それも、もはや意地だ。
家族の前で、いまさらどんな顔でリリアンヌと話せばいいか分からない。
「私は、アバマさんたちのところへ行ってくるわ」
ミホバは立ち上がると、そのまま振り返りもせず、村人の輪に戻っていった。
「……」
本当に、いつも通りだ。
妻は自分を慰めもしないし、怒りもしない。
先ほどは感情的だったが、普段は気高く、強い。
自慢の妻だ。
そして、妻の気質を色濃く受け継いでいるビッケもまた、自慢の息子だ。
大切な、家族だ。
その家族を護るためだからと…人を傷つけていいはずがない。
ましてや、それが家族を好いてくれている人ならば。
「……」
ラガーグは踏み出し、そっとひとつの輪の方へと向かっていった。




