孤独の裏側②
知られることのない視点
エラドリオール邸の屋根に――突如、黒い影が現れた。
「…!」
近くに現れた黒い影に、男は、ぴくりと身じろぎした。
…あの小さな影は。
あの、肩で光るものは――
例の少女だ。
彼女は、こちらに一切気付いていないようだ。
屈み込み、下の様子を確認している。
「…よし、行こうか」
少女は頭からマントをかぶると、
躊躇いなく屋根から飛び降りた。
「なっ…!」
男は咄嗟に駆け、屋根から地上を覗き込んだ。
真下には、誰もいなかった。
――カシャンッ…
「!」
微かな音に、はっと視線をずらした。
少女が柵の上から飛び降り、屋敷の外へ着地するところだった。
「……」
男は音も立てず、静かに後を追った。
少女は、迷うことなく暗い森の中を進んでいった。
巡回する衛兵を器用に避け、静かに暗闇に紛れ込んでいる。
あの黒いマントは、厄介だ。
目視では、彼女を簡単に見失ってしまう。
彼女の隠せていない気配だけが頼りだ。
その気配が――
風に乗って、ふっと消えた。
「…!?」
まずい。
見失ってしまう。
「…っ」
男は素早く樹の上へ駆け登り、辺りを見渡した。
そのまましばらく、耳を澄ました。
――いない。
草藪が風で揺れるばかりで、彼女の微かな動きも見当たらない。
侮った。
まさか、気配まで消せるとは。
「…くそっ」
なんたる失態。
だが、悔やんでいる場合ではない。
どうするか――
ここからなら、第二城壁内のどこかへ向かったと考えるのが自然だ。
だが、王都にはいくつか抜け道が存在する。
その抜け道のひとつを、もし彼女が知ってしまっていたら…?
しかも、あの跳躍力――
あれは、何かしらのちからだ。
彼女は、そのちからのことを隠していた。
あれさえあれば、もしかしたら城壁も越えてしまえるかもしれない。
いや…そもそもこの時間に屋敷を抜け出しただけで、異常事態だ。
これはもう――今すぐ報告に行くしかない。
男は樹から下りると、一気に暗闇へ駆け出した。
茂みを掠める音がわずかに響いたが、気に留めなかった。
王の影の一員として、毎日、彼女を見張っていた。
何を学び、何を知りたがっているのか。
エラドリオール邸で何をして、大聖堂では何を手伝わされているのか。
常に国王へ報告を入れていた。
与えられた任務に、意味を考えてはいけない。
だが正直、王族の令嬢を見張り、何の意味があるのか。
そう思っていたが――
特注の旅支度に、地図の準備…
彼女は、王都から抜け出そうとしているのか…?
国王は、これを心配していたのか…?
何日か前に、彼女は、国王に来週から協力すると話していたはずだ。
どうせいなくなるから、適当に約束してしまえばいいと思ったのか。
だが…まさか、無理だ。
あの跳躍があれば城壁を越えられるかもしれないが、その先ひとりで何ができるという。
「…ふん」
思わず、苦笑いがこぼれた。
自分らしくもない。
王の影として、余計な詮索は厳禁だというのに。
任務対象に、ここまで気を取られるとは。
「――やっと見つけたぜぇ」
「…!?」
ルプスの体が――びくりと不自然に固まった。
「姫さんに、見えない護衛がついているのは分かっていたんだけどよ。なかなか尻尾を捕まえられなくて、大変だったぞ」
「なんだ…!?」
体が、動かない。
駆けた状態のまま、指一本すら動かせない。
「油断したな。気配がだだ漏れだったぜ」
暗闇から、ひとりの男が現れた。
「!?その格好…!」
「まぁ落ち着けって、護衛さんよ。あんまり大声出すと、同僚たちが来ちまうからさ」
「お前っ…まさか」
「だから、静かにしてくれって。瞬きしたら解けちまうんだから、集中させてくれよ」
「どうやって潜り込んだ…!」
ルプスは、構わずに叫んだ。
「…ちっ、うるせぇな」
男は煩わしそうに舌打ちすると、ひらりと左手を振った。
「姫さんに用があって潜り込んだに決まってんだろ」
「彼女に、何をっ――」
ルプスの声が、ぷつりと途切れた。
その胸には、深々と剣が突き刺さっていた。
「…お前に言う必要はねぇな」
倒れていくルプスに、男は、にぃっと下卑た笑みを浮かべた。
「死体を隠しておけ。明日まで見つからなければ、それでいい」
「あいよ、親分」
剣を刺した男が、倒れたルプスを草藪の中へ転がした。
「特別業務だ。高くつくぜ」
親分と呼ばれた男は、ふぁぁ…と眠そうに欠伸を漏らした。
「…たっぷり金を貰ったら、セスランディアからもオサラバだ」
首元まで詰まる襟を緩め、コキコキと首を鳴らした。
「ったく…兵士のふりだけは、二度と勘弁だな」
男は、濃灰の軍服をなびかせ――
再び暗闇へ溶けていった。




