大国の王太子⑧
リリアンヌ視点
「涼しくて、気持ちいいですね」
座ると、樹の日陰でひんやりと涼しい風が顔に吹いた。
王都は年中、汗ばむ程度に暖かい。
寒い日はないし、雨もほとんど降らない。
「…そうだな」
ブライアンは樹の幹に背を預け、湖の方へじっと目を向けていた。
「…あの、ブライアン様」
「なんだ?」
「その…お仕事が大変なのですか?」
「…それは、どっちのことだ?」
「ええと…騎士としてのお仕事の方です」
なんとなく、王家としての仕事の話を避けてしまった。
「フォセ隊長という方のもとで――あ…確か、レイセント湖で訓練されていらっしゃるのですよね?」
確かそう、父が話していたはずだ。
「フォセ隊長は、レイセント湖を管轄する水上特別隊の指揮官だ。
その方のもとで毎日湖で訓練し、警備と警戒をしている」
ブライアンは、湖へ目を向けたまま答えた。
「その藍色の軍服は、水上特別隊の方のものなのですね?」
「そうだ。今この瞬間も、湖のどこかで隊の者が見回りと訓練をしているだろうな」
「そうなのですね」
ここからでは、その様子は見えない。
「騎士の仕事は、厳しくて大変だよ…だが、何も考えずに打ち込める訓練は好きだ」
「…訓練は、どんなことをするのでしょうか?」
リリアンヌは、さりげなく尋ねた。
「船上での連携訓練が多いかな。あとは、湖を潜って訓練している」
「本当に、水上に特化している訓練なのですね」
「剣や槍の訓練も、もちろんある。別の隊と模擬戦をすることもあるな」
「それにも、ブライアン様も参加されていらっしゃるのですか?」
「もちろんだ」
「……」
王子が、騎士や兵士に交ざって訓練しているってどういう感じなのだろう。
「体が疲れきっている時に見るレイセント湖は、格別なんだ」
「…格別?」
リリアンヌは、不思議そうにブライアンへ目を向けた。
「僕は…穏やかで綺麗な景色が、好きだ」
ブライアンの目は、まだ湖に向けられたままだった。
「こうやって、何も考えずに景色を見ている時間が、好きだ」
その視線は、さらに遠くへ向けられている気がした。
気付いたら――
手を伸ばしていた。
「…!」
ブライアンは、はっと膝に視線を落とした。
「…おつらいのですか?」
リリアンヌは、ブライアンの手をぎゅっと両手で握りしめた。
「何か、あったのですか?」
「…すまない。弱音を吐くつもりはなかった」
「どうして謝るのですか?」
「どうして…?」
ブライアンは、困惑したように眉を寄せた。
「王太子である僕が、そんなものを見せては駄目だ」
「ではブライアン様は、いつ弱音を言うのですか?」
その言葉で、分かってしまった。
「いつ、誰に、本音を言うのですか?」
ブライアンは、無理をしている。
自分なんかよりずっと、いろいろなものを背負い込んでいる。
「君は…本当に変わらないな」
ブライアンは、ふっと笑みをこぼした。
「突然そうやって、まっすぐな目を向けてくるんだ」
「…ごめんなさい。失礼なことを言いました」
そっと、ブライアンの手を離した。
また、やってしまった。
何も知らないのに。
何もできないのに。
「…その君のまっすぐな性格が、心配だ」
囁くような声が、ぽつりと落ちた。
「…まっすぐ、ですか?」
リリアンヌは、ゆっくりと顔を上げた。
「君は、思ったことをそのまま口にする。疑問を感じれば、どんなことでも尋ねる」
ブライアンは、小さく眉を寄せていた。
「…ごめんなさい」
「僕は、何も気にしていない。ルイージ宰相も、気にしていないだろうな」
「…何が心配なのですか?」
「何かに…巻き込まれないか」
「…何かって?」
「…すまない。こんな話をするために、ここへ来たわけではない」
ブライアンは苦笑すると、再び湖の方へ目を向けた。
「リリアンヌ…頼みがあるんだ」
「頼み…?何でしょうか」
自然と、体が前に傾いた。
何か、自分にも役に立てるようなことがあるのだろうか。
「また…歌ってくれないか」
「…へっ?」
予想外の言葉に、素の声が漏れた。
「ここに来た時、よく歌っていただろう?君が作ったものだ」
「…私が作ったもの?それは、私が三歳の時の話ですよね?」
「なんだっけ…旅人よ、とか、紡ぎ人よ、とか」
「…あ」
それは――
“セスランディア王国物語”の、始まりの歌だ。
「…でも、あの、そんなに覚えていないです」
リリアンヌは座り直すと、誤魔化すように下を向いた。
本当は、はっきりと覚えている。
何度も聴いてきたのだから。
だけど、そんなものを堂々と歌ってもいいものなのだろうか。
「君の歌声も、あの歌も、好きなんだ」
ブライアンは、寂しそうな笑みを向けた。
「リリアンヌ、頼むよ…」
「…わ、分かりました」
そんな顔をされたら、もう断れない。
それに、ブライアンが少しでも元気になってくれるのなら。
なんだって、やってあげたい。
「……」
リリアンヌは湖に視線を向け、すぅ…と大きく息を吸い込んだ。
――遠くで誰かが 呼んでいる
さよなら告げて 振り返らない
旅人よ
不安の影が 押し寄せても
それでも今日は 歩き出せ
小さな勇気が 胸に灯り
重ねた日々が 君を強くして
ひとすじの光が 背中を押す
旅人よ
心にひとつ 約束抱き
新しい世界へ 走り出せ
待ち受けるは 気高き大地
祈り 歌い 夢をみろ
名もなき声が 降り注ぐ
紡ぎ人よ
勇気を胸に 迷わず進め
君の物語を――
「ホ~…!」
「!」
歌い終わると同時に、スノウが肩から離れ、樹の上へ飛んでいった。
「…スノウも、喜んでいるんだな」
ブライアンは幹に背をつけ、静かにスノウを目で追った。
「…?スノウも?」
「本当は…君の気分を変えるために、ここへ連れ出したんだが」
「はい。ありがとうございます」
それは、なんとなく分かっていた。
「知らず…僕も疲れていたんだな」
「その…少しでもブライアン様が元気になられたのなら、良かったです…」
とても恥ずかしかったけれど。
離れたところに立つ護衛たちにも、聞こえてしまっただろう。
「他に、何か作っていないのか?」
「…えっ」
「リリアンヌ。他にも歌ってくれないか」
ブライアンは幹から背を離し、期待に満ちた目を向けた。
「…ほ、他に…」
「もう一曲歌ってくれたら、一週間、君に張りきって付き合えそうだ」
「…ぅ、う」
それは、ずるい。
「ごめん…こんな我儘を言ったのは、久しぶりだ」
ブライアンは、ははっ…と楽しそうに笑った。
「…っ」
その表情に、ぎゅっと胸が締めつけられた。
「…じゃあ、あと、一曲」
リリアンヌは、恥ずかしそうに頷いた。
どこまでも広がる花畑と、湖と、黄金色の髪をなびかせる王子様――
その幻想的な景色に。
ぴったりな歌が、頭に思い浮かんだ。




