大国の王太子⑦
リリアンヌ視点
「…もう、四時ですか」
窓の外から聞こえた鐘の音に、ルイージが、はっと顔を上げた。
「今日は、ここまでにしましょう」
「ルイージ宰相、今日もありがとうございました」
リリアンヌはすぐにソファから立ち上がり、いつものようにお辞儀した。
「いいえ。長い時間、お疲れ様でした。ブライアン殿下、今日はご協力いただきありがとうございました。明日は、九時にこちらへ来ていただけますね?」
「ええ、問題ありません」
ブライアンは座ったまま、ルイージに頷いて答えた。
「…え」
「私は、先に失礼させていただきます。お二人とも、また明日」
呆然とするリリアンヌを残し、ルイージは速やかに扉から出ていった。
「…ブライアン様、本当に明日も来ていただけるのですか?」
リリアンヌはブライアンの横に立ち、申し訳なさそうに言った。
「僕は今日から、城に一週間滞在する。その間は、午前中だけ協力しよう」
「でも…また今日みたいに体力を使わせてしまいます」
「だから、これくらい問題ない」
ブライアンは小さく微笑むと、ゆっくりソファから立ち上がった。
「…ブライアン様、今日は本当に――」
「…行こうか」
「ありがとうござ…え?」
リリアンヌは、きょとんと顔を上げた。
「…久々に、裏門にある花畑へ行かないか」
ブライアンは、優しい笑みを向けていた。
「君が三歳になるまでよく行っていたが…さすがに覚えていないか」
「…いいえ。覚えています」
よく覚えてはいるけれど…
「ええと…これから?」
「この時間なら、裏門まで誰にも会わず行けるだろう。それに、花畑なら王家以外の者は来ない」
「でも…つい先ほど、ルイージ宰相から、ここから出るなと言われたばかりです」
「それは、君ひとりでだろう?必ずこの部屋へ送るから、安心してくれ。…それとも、僕と出かけるのは嫌か?」
「…!」
思いきり首を振った。
嫌だなんて、あり得ない。
「それなら、行こう」
ブライアンはそのまま扉へ向かい、少しだけ開いて外を覗いた。
「……」
リリアンヌは戸惑いながらも、その後に続いた。
「…そうだな、一時間ほどで戻ってくる」
「かしこまりました」
「よし…リリアンヌ、行こう」
使用人との話を終えたブライアンが、振り返って手を差し出した。
「…はい、ありがとうございます」
リリアンヌは、自然とその手を握った。
ブライアンに手を引かれながら、ちらりと後ろに目を向けた。
シャルとムロバンが、静かについてきてくれている。
だけど、それ以外は誰もいない。
「…ブライアン様は、いつも王城をひとりで歩かれているのですか?」
護衛がつくのは国王だけと聞いていたけれど、従者もいないのだろうか。
「普段は、ひとりだ」
ブライアンは短く答えた。
「普段は?」
「公務や行事があれば、僕にも警護がつく」
「玉座の間にもいらっしゃいましたね」
「従者は城にいるが…ほとんど部屋に置いてきている」
「置いてきている…?」
そんなこと、できるのだろうか。
「普段くらい…独りにさせてほしいからな」
静かな言葉が、耳に届いた。
「…!」
「…大広間を突っ切って行くか」
「…はい」
リリアンヌは何も言わず、階段を進むブライアンに続いた。
二人で手を繋いだまま、大広間を通って裏門を目指した。
ブライアンが一言告げると、門番たちはあっさりと裏門を通した。
門から続く大通りを進み、途中で左へ折れて木立を抜けた。
「…わぁ…!」
「…相変わらず、ここは綺麗だな」
二人の目の前に、辺り一面に広がる花畑が現れた。
紫と桃色と白の花が、どこまでも広がっている。
埋め尽くされた花の中央には大きな樹があり、そこだけ緑が映えていた。
「…遠くへは行かない。そこで待機してくれるか」
「はっ」
シャルとムロバンが、花畑の手前で足を止めた。
「あの大樹の下まで行こう」
ブライアンはリリアンヌの手を引いて、さらに奥へ進んだ。
「すごい…でも、踏んじゃいそう」
花が、細い通り道にまで溢れ出している。
足元を確かめながら進まなければ、せっかくの綺麗な花を潰してしまいそうだ。
「今は、ビューベラとアポマを植えているのか」
ブライアンも、同じように足元を見ながら歩いていた。
「色を揃えていて、とても綺麗ですね」
丸く広がる鮮やかな花と、薄い花びらを揺らす繊細な花が入り混じっている。
対照的な花なのに、驚くほど馴染んでいた。
ブライアンは大樹の根元で足を止め、手を離した。
「リリアンヌ、ほら。ここからなら、君も見えるだろう」
「あっ…」
リリアンヌは、はっと顔を上げた。
崖下に広がる湖が、視界いっぱいに映った。
広大で、どこまでも青く澄んでいる。
「綺麗…」
王都で暮らす人々にとっては、欠かすことのできないレイセント湖。
まだ、遠くから眺めることしかできない。
いつかは、直接この手で、あの湖に触れられるのだろうか。
「前は、抱えてもらわないと見えなかったのに」
三歳の時は、乳母に抱えてもらうことで、ようやく湖を見ることができた。
「成長した証だな」
ブライアンは張り出た根の上に跨ぎ、腰を下ろした。
「すまない…君が座るための敷き物を、何も持っていない」
「大丈夫です」
リリアンヌはハンカチを取り出すと、ブライアンの傍らの地面に敷いた。




