第一章Ⅰ(はじめての冒険と出会い)①
リリアンヌ視点
「…それじゃあ、お嬢様。お昼まで、大人しくなさってくださいね」
寝間着と手拭いを抱えたニアが、扉の把手に手を掛けた。
「今日は、部屋で勉強しているから」
リリアンヌは椅子に座ったまま、振り向いて答えた。
「さすが、お嬢様です。ココアでもお持ちいたしますか?」
「えっ…いいえ…!集中したいから、できれば入ってこないでほしいな」
「分かりましたよ。ではまた、お昼に来ますからね」
ぱたんと、静かに扉が閉められた。
「…よし」
足音が聞こえなくなったことを確認すると、リリアンヌは急いでベッドまで駆けた。
時間は限られている。
静かに、素早く、見つからないように。
そのために、一か月もかけて準備をしたのだから。
リリアンヌはベッドの下に上半身を突っ込むと、大きな袋を両手で引っ張り出した。
素早く普段着のドレスを脱ぎ、袋の中から出した服に着替え直した。
衣装室からこっそり拝借したのは、兄が幼い頃に着ていた服だった。
麻の白い上衣に、肩紐の付いた膝丈の半ズボン。
靴は、恐らく乗馬用のものだろう。
少し大きいけれど、歩けないほどではない。
長い髪を頭の上で束ね、その上から、短いつばの付いた布の帽子をかぶった。
「…うん、いいね」
リリアンヌは鏡台を覗き込み、満足そうに頷いた。
ひと目には少年に見える。
この姿なら、町に溶け込むことができるだろう。
すぐに小窓に駆け寄り、軽く跳び上がって窓の縁に足を掛けた。
窓を開けると――リリアンヌは、躊躇いなく飛び降りた。
小窓の下は、エラドリオール邸の裏庭だ。
手入れの行き届いた生垣の向こう側を、背の高い鉄柵がぐるりと囲んでいる。
先の尖った装飾が並ぶその柵は、大人でも簡単には越えられない高さだった。
草の上に着地したリリアンヌは、すぐにちからを使い、高い柵の上まで跳躍した。
――カシャンッ…!
鉄柵の先端に靴が触れ、小さく金属音が響いた。
再び跳び移り、柵の外の道へと着地した。
道の奥には、生い茂った森がある。
あの森をまっすぐ進めば、城下町とエラドリオール邸を隔てる第二城壁に辿り着く。
城壁の周りには、見張りの兵士が巡回しているはずだ。
そこには、行かない。
「……」
リリアンヌは姿勢を屈め、静かに進んでいった。
柵の外でも、ここはまだエラドリオール家の敷地内だ。
衛兵たちが、定期的に巡回している。
生い茂る森の中へ入ると、城壁とは反対方向の東側へ進んだ。
“物語”の、初めの方に出てくる話――
エラドリオール家の主人となったリリアンヌは、敷地内にある抜け道の存在を知る。
大昔に、要人が避難するため造られた抜け道で、
第二城壁を越えることなく、町まで出ることができる。
「…あった」
予想していた場所に、目的の洞窟が姿を現した。
洞窟の入り口は、人の背丈を大きく越える鉄製の檻で塞がれている。
岩肌に沿うように組まれた黒い鉄格子は、
先端が鋭く尖り、容易には近づけない威圧感を放っていた。
中央の扉には、何重にも鎖が巻かれ、固く閉ざされている。
ここの存在を知っているのは、今の主人である父だけのはずだ。
もしかしたら、この鎖を解く鍵も持っているのかもしれない。
だけど、鍵はいらない。
檻の上部には、わずかに隙間がある。
これくらいの高さなら、跳躍のちからで十分に越えられる。
リリアンヌは一息に鉄格子を跳び越え、内側へと着地した。
洞窟の中は、薄暗かった。
まだ朝早い時間だというのに、まるで夜のようだ。
柔らかい土を踏みしめていたのに、
いつの間にか足元は、埋め込まれた石畳へと変わっていた。
暗い洞窟内が、少しずつ人工的な通路へ姿を変えていく。
壁も天井も滑らかに削られ、明らかに人の手で造られた痕跡があった。
なだらかな坂道を下るにつれ、
背後から差し込んでいた陽の光は完全に途絶えた。
「…暗いなぁ」
ランタンを持ってくれば良かった。
洞窟内を通ると分かっていたのに。
壁に手を添えながら、慎重に歩みを進めていった。
しばらくして、ようやく目が慣れ、ぼんやりと周囲の形が見えてきた。
等間隔に並ぶ石柱には古い彫刻が刻まれ、
あちこちに深いひびが走っている。
まるで遺跡のようだ。
この抜け道も、もしかしたら九百年前――王都が築かれた時代に造られたものなのかもしれない。
崩れないか、少し怖い。
だけど、ここで引き返すという選択はなかった。




