第17話②「癒しと気づきの山登り」
キャンプ場のシャワールームで汗を流したあと。
ユカとレンは、
朝食の準備に取りかかった。
昨日の鍋の残りに味噌を溶けば、
野菜たっぷりの味噌汁。
残っていたご飯は、
大きなおにぎりへ姿を変えていく。
鍋から立ち上る湯気と一緒に、
味噌の香りが朝の空気へ広がった。
「今日も、いい天気だね」
ユカが空を見上げる。
雲ひとつない快晴。
昨夜の焚き火も、
今朝の悪夢も。
全部、
ずっと昔のことみたいだった。
「いただきます!」
おにぎりを一口。
「ん~っ!」
おいしい。
具材だって、
特別なものではない。
なのに。
湖を眺めながら食べるだけで、
いつもの三割増しくらい幸せに感じる。
「外で食べるご飯って、
なんでこんなにおいしいんだろ」
「腹が減ってるからじゃないか?」
「それだけじゃないよ!」
味噌汁をすすりながら、
レンが笑う。
「だったら今日は、
もっと腹を減らすか」
「へ?」
「山に登ろう」
「山?」
レンは、
遠くに連なる峰を指さした。
「セラフィム・アルプスの
アークレイ山」
その中の一峰が、
青空へ突き出している。
「標高は二千メートルくらい。
頂上からの景色は、
ほんとに最高だぞ」
「登山かぁ……」
ユカは山を見上げた。
今まで、
まともに登ったことはない。
少し考えて。
すぐに笑う。
「それ、初めてだから――」
立ち上がる。
「楽しみ!」
朝の光の中で、
その表情はもうすっかり晴れていた。
***
――数時間後。
「はぁ……っ!
はぁ……っ!」
楽しみ!
と言った自分を、
ちょっとだけ問い詰めたい。
登山道は、
序盤から容赦のない急斜面だった。
一歩踏み出すたびに、
太ももが重くなる。
「思ってたより……
きつい……!」
その横を、
ピコが軽快に飛んでいる。
「この傾斜、
まるで人生みたいですね~」
「……は?」
「登ったと思ったら、
さらに上があるという」
「うるさい……ピコ……」
ユカが、
息を切らしながら睨む。
「今しゃべられると……
余計、疲れる……!」
「おっと。
これは失礼しました」
ピコは高度を上げ、
逃げるように前へ飛んでいった。
「待てぇ……」
「追いかけたら余計疲れるぞ」
前を歩くレンが笑う。
けれど。
歩き続けているうちに、
少しずつ何かが変わっていった。
岩肌を流れ落ちる、
細い滝。
飛んできたしぶきが、
熱くなった頬を冷やしてくれる。
風が木々を揺らす。
さわさわと重なる葉音が、
呼吸のリズムと重なっていく。
奇妙な形の岩。
苔に覆われた倒木。
木漏れ日の中で咲く、
名前も知らない小さな花。
「あ……」
ユカが足を止めた。
「どうした?」
「ううん」
足元の花を見る。
「かわいいなって思って」
そして、
また歩き始める。
いつの間にか。
苦しい。
疲れた。
まだ頂上じゃないの?
そんなことばかり考えていた頭が、
周囲の景色を見るようになっていた。
仕事のことも。
報告書のことも。
赤い修正コメントも。
今は、
どこにもなかった。
***
山頂に近い岩場で、
休憩することになった。
ユカが腰を下ろし、
水を飲んでいると。
「……ん?」
岩陰から、
白い何かが現れた。
ちょこ。
ちょこちょこ。
丸い。
ふわふわ。
雪のように真っ白な身体。
背中には小さな羽があるのに、
飛ぼうとはしない。
「あっ!」
ピコが、
ものすごい勢いで近寄る。
「セラ・バード!」
「これが?」
「うわぁ~!
生で見るの初めてです!」
ピコが興奮して、
ぐるぐる飛び回る。
「ピコのほうが珍しい生き物みたいに
なってるよ」
ユカは笑いながら、
セラ・バードへ目を戻した。
警戒する様子もない。
ちょこちょこ。
ユカの足元までやってくる。
「…………」
思わず、
声を小さくする。
「かわいい……」
丸い身体が、
ぴょこんと動く。
「なんか……
見てるだけで癒されるね」
セラ・バードは
しばらく三人の近くを歩き回ると、
満足したのか。
再び、
ちょこちょこと岩陰へ消えていった。
ユカはその後ろ姿を、
見えなくなるまで眺めていた。
***
そして――昼前。
「もう少しだ!」
レンの声。
最後の坂を越える。
次の瞬間。
視界が、
一気に開けた。
「――わあ……」
ユカの足が止まる。
山頂。
どこまでも続く、
澄み切った青空。
眼下には、
巨大なクレーターのように広がる
セラフィム・シティ。
古代遺跡。
塔。
湖。
小さく見える街並み。
そして、
その外縁を包み込むように連なる
セラフィム・アルプスの山々。
さっきまで歩いていた森さえ、
緑色の小さな塊に見える。
世界が、
一気に広がった。
レンが、
少し得意そうに笑う。
「……来てよかっただろ?」
「……うん」
ユカは、
ゆっくり息を吐いた。
風が吹く。
汗ばんだ額を撫で、
髪を揺らしていく。
「すごい……」
眼下の世界を見つめる。
「世界って、
こんなに広くて――」
もう一度、
遠くを見る。
「こんなに、
きれいだったんだね」
そのとき。
ふいに、
ある言葉が胸へ浮かんだ。
宙曜日。
セラ博士の古民家で、
お茶を飲みながら聞いた言葉。
《仕事ってね、
“忘れる場”も必要なんだよ》
「……博士」
「ん?」
レンが見る。
ユカは、
小さく笑った。
「こういうことを、
言ってたんだね」
仕事を忘れよう。
そう思っていたわけじゃない。
ただ走って。
登って。
景色を見て。
鳥を見て。
風を感じて。
気がついたら――
忘れていた。
ピコが、
山頂を飛びながら言う。
「仕事を頑張るのも大事ですが、
デジタルデトックスも大事ですよね~」
「うん」
ユカは、
街よりもずっと遠くを見る。
「休むってさ」
少し考えて。
「何もしないことだと思ってた」
山を吹き抜ける風を、
胸いっぱいに吸い込む。
「でも違うんだね」
頭の中には、
もう赤い修正コメントはない。
あるのは、
青い空と。
広い世界と。
心地よい疲れだけ。
「休むことも――」
ユカは笑った。
「仕事の一部なのかもしれないね」
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※シリーズ第一弾『フラグメンツ・オブ・トゥルース〜最後の投擲』はこちら。
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