第1話③「善とは?正義とは?」
アストラシティ郊外。
静かな住宅地の一角に、二階建ての小さな家がある。
遠くには、街の中心部にそびえる高層ビル群。
その家の入口には、一枚の看板が掲げられていた。
“Kai Seiran : AI Troubleshooting & Innovation”
――《カイ・セイランのAI問題何でも屋》。
一階が仕事場。
二階が、ユカとカイの生活スペースだ。
カイ・セイラン。
ある事件をきっかけに、孤児だったユカを引き取り、育ててくれた人。
今では法律上も、れっきとした家族だ。
だからユカの正式な名前は――
ユカ・セイラン。
この家が建つ土地の持ち主は、族長セラ。
仮想と現実を操るセラ一族の族長であり、世界最高峰の科学者。
そして――亡きユナの母でもある。
ユカは、普段から彼女を《セラ博士》と呼んでいる。
セラもまた、ユカを本当の孫のように可愛がってくれていた。
カイと、セラ博士。
この二人に育てられたことを、ユカは心から誇りに思っている。
実の母親の記憶は、ほとんどない。
残っているのは、雑多な街の食堂。
そして――
綺麗な服を着た女性が、明るい部屋で絵本を読んでくれた記憶。
どんな物語だったのか。
どんな声だったのか。
今では、もう思い出せない。
そんなことを考えながら、ユカは玄関の扉を開けた。
「カイ、ただいまー!」
買い物袋を掲げる。
「今夜はビリヤニだよーっ!」
返事はない。
「……あれ?」
家の中は、妙に静かだった。
ピコも辺りを見回す。
「人の気配がありませんね」
「仕事中かな?」
「一階にも反応はありません」
ユカは首を傾げながらリビングへ入る。
そのとき――
テーブルの上に置かれたものが目に入った。
ひとつの指輪。
そして、その隣に一枚の紙。
「……?」
ユカは買い物袋を置き、紙を手に取る。
そこには、カイの字で短く書かれていた。
《ユカへ
急に出かけることになった。
誕生日なのに、すまない》
「えぇ〜……」
肩を落とす。
楽しみにしていたケーキは、どうやらお預けらしい。
何気なく紙を裏返す。
そこにも、文字があった。
「善とは? 正義とは?」
「……なんだ、これ?」
ユカが眉をひそめる。
ピコも横からのぞき込んだ。
「哲学的すぎて、ピコにはさっぱりですね」
「カイ……どこ行っちゃったんだろ」
とはいえ。
こういうことは、実は初めてではなかった。
カイは時々、ふらっと家を空ける。
《AI問題何でも屋》の仕事だけではない。
アランから、表沙汰にはできない厄介な依頼が舞い込むこともあるからだ。
「忙しい人ですし、そのうち戻ってくるでしょう」
「……そうだね」
ユカは、もう一度メモを見る。
「善とは? 正義とは? か……」
考えてみる。
三秒。
「……わかんない」
「早いですね」
「だって急にこんなこと言われても!」
メモをテーブルへ戻す。
そして、大きくため息をついた。
「はぁ〜。ケーキは延期かぁ……」
それが一番残念だった。
ピコが買い物袋を見る。
「では、ビリヤニはどうしましょう?」
ユカの目が変わる。
拳をぎゅっと握った。
「それは――」
買ってきた材料を見る。
「作る……!」
「そこは迷わないんですね」
「当たり前でしょ!」
ユカは着替えに、自室へ向かった。
そのときはまだ――
テーブルの上に残された問いが、
自分の旅の始まりになるなんて、
少しも思っていなかった。
※作者の活動報告に各話の設定や裏話などのコメントを書いています。
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※シリーズ第一弾『フラグメンツ・オブ・トゥルース〜最後の投擲』はこちら。
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