第6話⑥「メリオラ」
次の展示室へ入ったところで、ユカの足が止まった。
「……あ」
壁に掛けられた一枚の絵。
その題名だけで、目を奪われる。
《メリオラ》
「……メリオラ」
ユカは、ゆっくりと読み上げた。
絵の大半は深い影に沈んでいる。
夕焼け色の大地。
遠くでは黒煙を上げる戦地。
そこへ向かう旅人たちの姿も、暗がりの中にぼんやりと浮かんでいた。
けれど画面の中央だけに、
温かな金色の光が落ちている。
地面に膝をつき、
土を掘る白衣の人物。
その手は泥に汚れ、
指は節くれ立っている。
周囲には、空になった器を抱えた老人。
痩せた子ども。
疲れ切った母親。
誰ひとり、美しく整えられてはいない。
皺も。
汗も。
土埃も。
そのまま描かれている。
なのに、不思議と目が離せなかった。
「これ……どういう場面?」
レンが解説パネルを見る。
「作者はラウル派宗教画の巨匠、レンブリア・ファンデル」
「レンブリア・ファンデル……」
「光と影、それから人間の表情を描くことで有名な画家だ」
ピコが絵を解析する。
「特徴的ですね。画面の多くを暗く沈めながら、人物の顔と手に柔らかな光を集めています」
ユカも目を凝らした。
確かに。
聖人らしき人物の顔。
土を掘る手。
水を待つ子どもの頬。
弟子たちの困惑した表情。
そこだけが、闇の中からゆっくり浮かび上がっている。
「さっきのカラヴァン・ミケルとは、また違うね」
「そうだな」
レンが頷く。
「向こうは光がバーンって入ってきて、何かが始まる感じだったけど……」
《メリオラ》を見上げる。
「こっちは、暗いところから人間そのものが浮かんでくる感じがする」
「人間そのもの……」
「ほら」
レンが指さす。
「後ろの弟子」
そこには、焦った顔で戦地を指さす若者がいた。
急がなければならない。
こんなところで時間を使っている場合ではない。
そんな感情が、口を開いていないのに伝わってくる。
隣の老人は、
井戸を掘る人物を信じたいような、
でも本当に水が出るのか疑っているような顔。
さらに奥では、
母親が眠る子どもを抱きしめている。
「……みんな、顔が違う」
「そこがレンブリア・ファンデルのすごいところです」
ピコが答える。
「群像を描いても、ひとりひとりに異なる感情がある。英雄だけではなく、その場にいる普通の人間まで物語の一部として描くことで知られています」
「へえ……」
ユカは中央の人物を見る。
「この人が、ノヴァ?」
「はい。ラウル・シティに伝わる聖人ノヴァです」
ピコが伝承を表示する。
「戦争を止めるため戦地へ向かう途中、日照りに苦しむ村へ立ち寄りました。弟子たちは先を急ぐよう進言しましたが、ノヴァはただひと言――」
ホログラムに文字が浮かぶ。
《Meliora》
「そう告げて、井戸を掘り始めたとされています」
「メリオラって、どういう意味?」
「古い言語で、“より良いもの”、あるいは“より良い方向へ”です」
「より良い方向へ……」
その言葉が、ユカの中に引っかかった。
ハリドとナディア。
規律と最適化。
全体と個人。
どちらも間違っているようには見えなかった。
だからこそ、答えが出なかった。
レンが絵を見ながら言う。
「この絵、面白いよな」
「どこが?」
「ノヴァは、“戦争を止める”っていう大きな目的を捨てたわけじゃない」
「うん」
「でも、その途中に水もなくて困ってる人たちがいた」
レンは、泥だらけのノヴァの手を見る。
「だから今は、先へ急ぐより、ここで井戸を掘るほうが“より良い”って選んだ」
ピコも続ける。
「絶対解と、その時、その場所での
"最適解"。そのバランスを取る思想が《メリオラ》には込められているのでしょう」
ユカは絵の前から動けなくなっていた。
聖人なのに、後光はない。
豪華な衣装もない。
奇跡を起こして水を出しているわけでもない。
ただ、泥まみれになって、
村人と一緒に穴を掘っている。
しかも、その顔は――
少し笑っていた。
「……そっか」
ユカがつぶやく。
「“善いこと”って、最初からひとつの形で完成してるわけじゃないんだ」
レンがユカを見る。
「誰かを助けることも、全体を考えることも……どっちかを切ればいいわけじゃなくて」
まだ上手く言葉にならない。
それでも、ユカは続けた。
「その時、その場所で……もっと良い方を選び続ける」
もう一度、《メリオラ》を見る。
「それが……私にとっての“善”なのかな」
***
最後の展示室。
三人は、一枚の絵の前で同時に足を止めた。
《封印》
黒い渦。
砕ける光。
円環のような紋様。
その中心に、白い衣をまとった女性が立っている。
顔ははっきりしない。
手にしているものが杖なのか、
光そのものなのかも分からない。
背後に広がる闇は、
巨大な生き物にも、
荒れ狂う自然現象にも見えた。
「……これ」
ユカの声が小さくなる。
「作者不明です」
ピコが情報を表示した。
「内容についても諸説あります。有力なのは、セラフィムの里に伝わる指導者――賢妃セラが、“闇なるもの”を封印した場面とする説です」
レンも解説を見る。
「《封印》って題名も、後世につけられたものなんだな」
そして絵を見上げる。
「ちゃんと描いてあるのに……なんか、輪郭がつかめない」
「複数時代の顔料と、複数地域の構図法が混在しています」
「そんなことあるの?」
「通常は考えにくいです」
ピコが拡大表示する。
「まるで、一枚の絵に別々の時代の記憶が重なっているような状態です」
ユカは息をのんだ。
闇を押さえ込む白い姿。
何をしているのかは分からない。
なのに――
なぜか目を逸らせない。
「……賢妃セラって、どんな人だったの?」
「セラ博士の祖先にあたる人物です」
レンが補足する。
「ただ、実在したかどうか、今でも論争が続いてる。伝説と歴史の境目にいるような人物らしい」
「そっか……」
ユカは自分の左手を見る。
指輪。
それから、振り返った。
向こうの展示室にある《メリオラ》。
――より良い方向へ。
誰かひとりのためだけでもない。
全体の数字だけでもない。
自分が倒れるまで無茶をすることでもない。
その場で悩んで。
間違って。
また考えて。
それでも、少しでも良い方へ。
次へ進める方へ。
人が生きていける方へ。
「……メリオラ」
今度は、はっきりと口にした。
レンが笑う。
「気に入ったか?」
「うん」
ユカも小さく笑った。
「たぶん、今の私が探してるものって、“完璧な正しさ”じゃないんだと思う」
「じゃあ、何だ?」
「“もっと良い方”」
まだ少し照れくさい。
でも、その言葉はちゃんと自分の中から出てきた。
「まだ全然、うまく説明できないけどね」
すかさずピコが答える。
「それでも、先ほどまでの“勘です”より大幅な進歩です」
「ひどっ!」
「言語化成功率、上昇中ですね」
「その評価いる!?」
レンが吹き出した。
ユカもつられて笑う。
高い天井の下に、
三人の声が柔らかく広がっていった。
絵の前で立ち止まることは、
旅を止めることではない。
まだ言葉になっていなかったものに、
輪郭を与えること。
そして――
また歩き出すために、
自分がどちらへ進みたいのかを見つけること。
ユカは、それを少しだけ分かった気がした。
※作者の活動報告に各話の設定や裏話などのコメントを書いています。
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※シリーズ第一弾『フラグメンツ・オブ・トゥルース〜最後の投擲』はこちら。
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