第17話①まだ人間かもしれない
◇08月17日 10時台/ガソリンスタンド付近/健一、権蔵、達也、なおみ、美樹
ガソリンスタンドの裏口から逃げ出した健一たちは、背後の足音とうめき声が十分に遠ざかるまで走り続けた。
建物をいくつか挟み、ようやく感染者に追いつかれる心配がなくなったところで足を止める。
全員が息を切らしていたが、怪我をした者はいなかった。
達也は膝へ手をつきながら後ろを振り返った。
『……撒いたか?』
なおみも呼吸を整えながら、遠くに見えるガソリンスタンドへ目を向ける。
『たぶんな。でも戻るんは無理やで。あの数や』
置き去りにした発電機は、まだ動き続けていた。
静まり返った街の中では低い駆動音が驚くほど遠くまで響き、その音に引き寄せられるように、周辺の道路から感染者が次々とガソリンスタンドへ集まっている。
美樹が目を凝らした。
『……増えてる』
『さっきより多いな……』
健一の顔が曇る。
あそこには小型トラックも発電機も残してある。
ようやく動かした給油機も、感染者の群れをどうにかしなければ使えない。
達也が息を吐いた。
『どうすんだよ。あそこに戻るのか?』
『無理やろ。50体でも逃げたんやで。まだ増えとるし』
なおみの言う通りだった。
正面から戻れば、今度こそ逃げ切れない可能性が高い。
それでも健一には、このまま研究所へ戻るという選択もできなかった。
『でも、ガソリンを諦めたら研究所の電気を戻せない』
研究所では発電機の燃料が尽き、照明も研究設備も止まっている。
唯の体調も悪化している。
ここまで来て、手ぶらで戻るわけにはいかなかった。
しばらくガソリンスタンドを見ていた権蔵が、周囲へ視線を巡らせた。
『正面から相手をする必要はないじゃろ』
少し離れた場所に、三階建てのアパートがある。
位置関係から考えれば、上階からガソリンスタンドを見下ろせそうだった。
権蔵がそこを指す。
『あそこからなら届くかもしれん』
『上から撃つのか?』
健一が尋ねると、権蔵は頷いた。
『全部倒せるとは思っとらん。じゃが、近づかずに数を減らすことはできる』
その間にも、別の道路から感染者が何体も現れ、発電機の音へ吸い寄せられていく。
達也は途中まで数えていたが、やがて諦めた。
『……もう100体近くいるんじゃねぇか?』
『これ、時間かけたらもっと増えるで』
権蔵はしばらく状況を見つめたあと、美樹へ手を差し出した。
『美樹。空気銃を貸してくれ』
『……どうするの?』
権蔵はもう一度アパートを見る。
『これしかないな……。まず、あそこから少しでも数を減らす』
五人はガソリンスタンドから約四十メートルほど離れたアパートへ向かった。
背後では、置き去りにした発電機が絶えず鳴り続けていた。
◇08月17日 10時台/アパートの三階/健一、権蔵、達也、なおみ、美樹
アパートの入口へ着くと、健一たちはすぐに階段を駆け上がるのではなく、まず一階の内部を確認した。
感染者の気配はない。
階段を上がる間も、踊り場や廊下の死角を一つずつ確かめたが、途中で遭遇することはなく、そのまま三階まで進むことができた。
ガソリンスタンド側にある部屋のドアへ健一が手を掛ける。
抵抗なく開いた。
『開いてる……』
中へ入る前に室内を確認する。
家具も生活用品も残されており、誰かが暮らしていた痕跡はそのままだったが、人間も感染者もいない。
『誰もいねぇな』
達也が室内を見回す。
『こっちは当たりやったな。感染者おったら面倒やったで』
念のため隣の部屋も確認したが、そこにも鍵は掛かっていなかった。
さらに別の部屋も同じだった。
達也がドアノブを握ったまま振り返る。
『……ここも開いてるぞ』
『全部?』
美樹が尋ねる。
『少なくとも確認した部屋は全部だな』
健一が答えた。
感染者に邪魔されず、狙撃に使える場所を確保できた。
健一たちがひとまず安心する中、権蔵だけは開いたドアを見つめたまま考え込んでいた。
『……いないのは逆に問題じゃな』
『爺さん。何が問題なんだよ?』
達也が聞く。
権蔵は廊下に並ぶ部屋へ視線を移した。
『中にいてくれれば、外に出られん。食う物がなくなれば自然と餓死するじゃろ?』
『まあ……そうだけど』
『じゃが、ここには1体もおらん。それに、どの部屋にも鍵がかかっとらん』
美樹が首を傾げる。
『避難した人が、鍵をかけなかっただけじゃないの?』
『かもしれん。誰かが後から開けたのかもしれん。……じゃがな』
権蔵は少し間を置いた。
『もし感染者自身がドアを開けて出て行ったんじゃとしたら……鍵や扉を扱う程度の知性は残っとるということじゃ』
達也が黙る。
数日前、研究所では感染者が死者ではなく、生きた人間であることを聞かされた。
記憶も感情も、すべてが一度に消えるわけではないという話まで聞いている。
権蔵は静かに続けた。
『わしらが殺してるのは……もしかしたら、まだ人間なのかもしれんな……』
誰もすぐには答えられなかった。
窓の外へ目を向ければ、感染者たちは今も発電機の音を追って集まり続けている。
健一が低い声で言った。
『……でも、襲ってくる』
『ああ』
権蔵はそれ以上何も言わず、美樹から借りた空気銃を手にした。
『しかし、やるしかない。やる以外の選択肢がないのも現実じゃ……』
マルチポンプ式の空気銃へ手動で空気を充填し、窓際へ移動する。
『ここならガソリンスタンドが見下ろせる。距離も40mほどじゃ。十分届く』
権蔵は窓から銃身を出し、感染者の位置とその周囲を確かめてから引き金を引いた。
バシュッ――。
ペレット弾を受けた感染者が倒れる。
発射音は発電機の駆動音に紛れ、周囲の感染者たちはアパートへ反応しなかった。
権蔵は空気を充填し直し、次の一体を狙う。
再び小さな発射音が響き、二体目が倒れた。
猟師として十年以上積み重ねてきた経験もあり、四十メートルほどの距離でも命中率は高い。
問題は、マルチポンプ式では一発撃つたびに手動で空気を充填し直さなければならないことだった。
権蔵は感染者の位置を見極め、撃ち、次弾の準備をして再び狙うという作業を繰り返した。
感染者の数は確実に減っていく。
しかし二十発ほど撃った頃には、何度もポンプを動かした腕へ疲労が溜まり始めていた。
権蔵は一度銃口を下ろし、美樹へ振り返った。
『……美樹。交代じゃ』
『うん』
美樹は空気銃を受け取ると、権蔵と入れ替わって窓際へ座った。
眼下のガソリンスタンドには、まだ大勢の感染者が残っている。
美樹は銃床を肩へ当て、ゆっくりと次の一体へ照準を合わせた。




