第15話③再検査
◇08月16日 18時台/研究所の廊下/達也、研究員
研究所内を歩いていた達也は、廊下の向こうから名前を呼ばれて足を止めた。
『達也さん、ちょっといい?』
振り返ると、昼間に採血などの検査を担当していた研究員が立っている。手には何枚かの資料を持っていた。
『ん? どうした?』
研究員は資料へ一度目を落としてから、確かめるように尋ねた。
『健一君と唯ちゃんって……家族なんだよね?』
『そうだけど? 兄妹だぞ』
『血の繋がった?』
達也は質問の意図が分からず、少し眉を寄せた。
『そう聞いてるけど。それがどうかしたのか?』
研究員はすぐには答えず、手元の資料を見ながら少し考え込んだ。
『……ううん。ありがとう。確認したかっただけ』
『なんなんだ……?』
健一と唯が兄妹であることなど、本人たちへ聞けばすぐに分かる話だ。
それをわざわざ自分に確認しに来た理由が、達也には分からなかった。
研究員は立ち去ろうとしたものの、数歩進んだところで思い出したように振り返った。
『あ、それと達也さん』
『ん?』
『尿検査、もう一回ね』
達也の顔が露骨に曇った。
『なんで!?』
研究員は呆れを隠そうともせず答える。
『検体に精液がかなり混じってたんだけど。ふざけてるの?』
『違うって! 小便しようとしたら一緒に出ちゃったんだよ!』
『……普通に採って』
『だから事故だって!』
どれだけ説明しても、研究員の表情から疑いは消えなかった。
『準備が出来たらまた呼びに来るわ』
『なんで俺だけやり直しなんだよ……』
研究員はため息をつくように達也へ背を向け、そのまま廊下を歩いていく。
達也は納得できない顔で見送っていたが、離れていく研究員は手元の資料を確認しながら、小さな声で何かを呟いていた。
『……健一君と……唯ちゃんね……』
その声は達也には届かなかった。
達也は一人残された廊下で頭を掻く。
検査をやり直す羽目になったことも気まずいが、何より研究員に真顔で注意されたことが妙に恥ずかしかった。
『……タバコ吸お』
気を紛らわせるため、達也は研究所の外へ向かった。
同じ頃。
唯と夏帆は、割り当てられた個室で荷物を整理していた。
山小屋から持ってきた着替えや身の回りの物を、それぞれ使いやすい場所へ置いていく。
研究所で何日過ごすことになるのかはまだ分からないが、最低限寝起きしやすい程度には整えておきたかった。
夏帆が荷物を棚へ入れていると、部屋の扉がノックされた。
『はい』
扉を開けると、先ほど採血を担当していた研究員が立っていた。
『夏帆さん、ちょっといい?』
『どうしました?』
『あとでもう一度、血液検査をさせてもらえないかな』
夏帆は少し意外そうに研究員を見る。
『私だけ再検査ですか?』
『いえ。達也君もよ。そっちの方は尿検査だけどね』
『達也さんも?』
研究員は何とも言えない顔になった。
『尿検査の検体に精子がかなり混じってて……正確に検査できなかったの』
夏帆は黙った。
研究員も数秒沈黙したあと、素朴な疑問をそのまま口にする。
『採尿の時に何してたの、あの人……』
『……分かりました』
夏帆は余計な想像をしないことにした。
『ありがとう。準備ができたら呼びに来るね』
研究員はそれだけ告げて部屋を出ていく。
扉が閉まると、唯がベッドのそばからぽつりと言った。
『達也さん……』
夏帆も扉を見たまま答える。
『あの人、何考えてるんだろうね?』
二人は顔を見合わせ、堪えきれずにくすくすと笑った。
研究所へ来てから検査や説明ばかり続いていたこともあり、くだらない出来事が妙に可笑しく感じられた。
しかし笑いが収まったところで、唯の表情が少し曇った。
『でも夏帆さんは? 悪い結果とかじゃないですよね……?』
夏帆は不安そうな唯へ振り返り、安心させるように笑う。
『大丈夫よ。確認したいだけって言ってたでしょ』
『……うん』
夏帆自身も、なぜ自分だけ血液の再検査が必要なのかは分かっていない。
それでも、まだ何とも言えないという研究員の言葉以上のことを考えても仕方がなかった。
研究員が部屋を出てからしばらくすると、唯は荷物の整理をやめてベッドへ横になった。
『疲れた?』
『うん……ちょっと』
ここ数日を考えれば無理もないと夏帆は思った。
山小屋を襲われたばかりで、今日は朝から研究所への移動や検査が続いている。
身体の弱い唯にとっては、それだけでも十分疲れるはずだった。
夏帆は残っていた荷物を片づけながら、ときどき唯の方を確認する。
しばらくして、違和感に気づいた。
唯が何度も寝返りを打っている。
楽な姿勢を探しているように身体の向きを変え、やがて小さく息を吐いた。
夏帆は作業を止めた。
『どうしたの?』
唯は少し迷ってから答える。
『なんか……身体が痛くて』
夏帆の表情が変わった。
すぐにベッドのそばへ行き、唯の顔を見る。
『どこ?』
『どこっていうか……全身。身体の中というか、節々が痛い感じ……』
夏帆は唯のそばへ腰を下ろした。
顔色や呼吸の様子を確認しながら尋ねる。
『いつから?』
『さっきから……。昨日から色々あったし、疲れたのかな』
唯自身は大したことではないように言おうとしていたが、身体の向きを変える時には僅かに顔をしかめている。
夏帆はその反応を見逃さなかった。
『無理に起きなくていいから、そのまま横になってて』
『大丈夫ですよ。ちょっと痛いだけだから』
『大丈夫かどうかは私が見るから』
いつもの柔らかな声だったが、そこには看護師としての強さが混じっていた。
唯は逆らわず、小さく頷く。
『……はい』
夏帆は布団を整え、唯をそのまま休ませた。
疲労が重なっただけかもしれない。
だが、唯が訴えたのは一カ所の痛みではなく、身体の中や節々を含む全身の痛みだった。
夏帆はそれが気に掛かり、荷物の整理へ戻ってからも唯の様子を注意して見ることにした。
■唯のサバイバルメモ
・今日のテーマ:サバイバルと性欲
皆さんこんにちは。唯です。
今回のお題は『サバイバルと性欲』についてです。
……なんで私がこんな話をすることになったんだろう。
達也さんのせいです。
◇世界が大変になったら性欲はなくなる?
毎日命の危険があって、食べ物を探して、感染者から逃げて……
そんな生活になったら、『恋愛とかエッチなことなんて考えなくなるんじゃない?』って思いますよね。
強いストレスが長く続くと、性欲が落ちることは本当にあるそうです。
でも、人間の性欲そのものが全員なくなるわけではありません。
実際、戦争中の軍隊でも性行為による感染症は大きな問題でした。
◇兵士の性欲を薬で抑えていた?
昔のイギリス軍には、『兵士の紅茶にブロマイドを入れて性欲を抑えていた』という有名な噂があります。
ブロマイドには大量に使うと眠気などを起こす作用があるので、『性欲もなくなるんじゃない?』と考えられたみたいです。
でも、本当に軍隊が性欲を抑えるため紅茶へ入れていたという証拠は見つかっていません。
それに……性欲をなくすために兵士まで眠くなったら、戦えないよね?
◇本物の軍隊はどうしたの?
第二次世界大戦の頃の米軍では、性欲を薬で消すのではなく、コンドームや性感染症の予防に力を入れていました。
つまり軍隊も、『兵士は絶対エッチなことしません!』ではなくて、『する人はいるから病気を防ごう』と考えたわけですね。
……なんだかすごく現実的です。
◇尿から精子が出ることもある
ちなみに、射精したあとに排尿すると、尿道に残っていた精子が尿と一緒に出てくることがあります。
だから尿から精子が見つかっただけなら、必ずしも身体がおかしいという意味ではありません。
でも……『検査用の尿にかなり混じってました』と研究員さんに真顔で言われるのは、私だったら耐えられません。
達也さん。
何をしてたのか知らないけど、次はちゃんと採ってください。
……というか、私は何の解説をさせられてるんですか!?
では今日はここまで。
またね。




