第1話⑨死んだ街
◇08月06日 08時台/病院・非常用倉庫/唯、夏帆
夏帆は何度目か分からないほど、扉へ耳を当てた。
ズ……。
すぐ向こうから足を引きずる音が聞こえる。
『まだ駄目ね』
『外に出られそう?』
『扉の前にいる。まともな武器を持っていれば強引に出る方法もあるけど、このハサミじゃ突破するのは難しいわ』
◇08月06日 09時台/市街地へ向かう道路/健一、権蔵
街へ近づくにつれ、道路の様子が変わっていった。
路肩には地震で落ちた瓦や枝が散らばり、ところどころ舗装がひび割れている。
健一は助手席から外を見続けていた。
人の姿がない。
普段なら車が行き交う時間だ。
それなのに、走っているのは権蔵の軽トラックだけだった。
やがて前方にコンビニが見えた。
健一が身を乗り出す。
『権蔵さん、ちょっと止めてもらえますか』
『どうした?』
『店の様子が……』
権蔵も気づいたらしい。
軽トラックが速度を落とし、店の前で停まった。
入口のガラスが割れていた。
地面一面に細かな破片が散らばっている。
その近くには、乾きかけた暗赤色の液体が飛び散っていた。
健一は斧を手に車を降りる。
権蔵も続いた。
『誰か怪我しとるかもしれんな』
『見てきます』
二人は割れた入口から中を覗いた。
店内はひどく荒れていた。
棚の商品はほとんど残っていない。
床には空になった包装や倒れた籠が散乱している。
地震の前に売り切れたのか。
それとも地震の後に持ち出されたのか。
今の健一には分からなかった。
『誰かいますか!』
声をかける。
返事はない。
もう一度呼ぶ。
静かな店内に声だけが響いた。
人の姿は見つからなかった。
『おらんようじゃな』
『……行きましょう』
二人は店を出た。
軽トラックへ戻り、再び走り出す。
────健一たちの乗った軽トラックが遠ざかったあと────
道路脇の茂みから、一人の男が姿を現した。
作業服は汚れ、顔には疲労が滲んでいる。
男は走り去る軽トラックを見た。
『待ってくれ……』
声は小さかった。
自分でも驚くほど小さい。
もっと大声を出さなければ届かない。
だが喉が固まり、声が出ない。
その背後で茂みが揺れ、男が振り返った。
木々の間から、充血した目をした人間たちが一人、また一人と姿を現す。
全部で五人だった。
男の顔が引きつった。
軽トラックはすでに遠い。
感染者たちは、ふらつきながらこちらへ歩いてくる。
『……っ』
男は踵を返した。
走る。
ただひたすら走った。
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◇08月06日 10時台/市街地/健一、権蔵
健一は言葉を失っていた。
街に入ってから、見慣れた景色は次々と消えていった。
壁が崩れた家。
傾いた電柱。
道路へ落ちた看板。
倒れた車。
瓦礫の隙間には、乾いた血の跡まで残っている。
『……こんなことになってたのか』
たった三日。
山へ入る前、この街は普通だった。
スーパーの商品が減り、人々が不安を感じてはいた。
それでも道路には車が走り、人は買い物をし、病院もいつもの場所にあった。
今は違う。
そして、壊れた街の中を歩いている者がいた。
健一が目を凝らす。
『あれ……』
一人の男が道路を横切っている。
足取りがおかしい。
ふらつき、身体を傾けながら歩いている。
顔がこちらへ向いた。
目が赤い。
健一は昨夜ラジオで聞いた言葉を思い出した。
『感染者……』
さらに先にもいる。
まだ大勢ではない。
だが、一人ではない。
『海外のニュースで見たのと同じじゃな』
『はい』
健一も何度も映像を見た。
感染者は増えていった。
海外では、最初は少数だった感染者が、やがて街中を埋めるほどに増えていった。
その光景が、この街でも始まっている。
権蔵が低い声で言った。
『もし襲われたら、迷うな。斧で頭を狙え。他の所では苦しめるだけだ』
膝の近くに置いた斧を見る。
薪を割るための道具だった。
昨日までなら、人へ向けるなど考えもしなかった。
『……分かりました』
軽トラックは瓦礫を避けながら進んだ。
三日前まで知っていた街が、まるで知らない場所のようになっていた。
◇08月06日 11時台/テレビ局付近の道路/健一、権蔵
テレビ局の近くまで来ると、道路には割れたガラスや瓦礫、車の部品がさらに増え、その中には血の跡まで残っていた。
権蔵は慎重にハンドルを切りながら進む。
『……多くなってきましたね』
健一の声が硬くなる。
道の両側に感染者がいた。
さっきまでより明らかに数が多い。
それでも軽トラックは進んだ。
角を曲がった瞬間――。
権蔵が急ブレーキを踏んだ。
『なんじゃ、これは……』
健一も息を呑んだ。
前方の道路が、人で埋まっていた。
数えられない。
感染者の群れだった。
ふらつく身体。
充血した目。
血の付いた衣服。
道路の幅いっぱいに広がり、ゆっくりと動いている。
その向こう側には、壁の一部が崩れた集合住宅が見えた。
さらにその近くには、大破したヘリコプターがあった。
機体には報道用の表示が残っている。
ローターは機体から離れ、道路上に横たわっていた。
その近くには、人の身体が倒れている。
『ヘリが落ちたのか……』
健一が呟いた。
エンジン音に反応した感染者が、こちらへ顔を向け始めていた。
一人。
また一人。
ゆっくりと軽トラックへ歩いてくる。
『まずいな』
権蔵がギアを入れる。
『このままでは奴らが邪魔で前に進めん』
軽トラックが後退する。
感染者たちが、音を追うように進んでくる。
健一は後ろを振り返った。
『別の道から病院へ回りましょう』
『そうじゃな』
権蔵は十分に距離を取ってから車体を切り返した。
テレビ局前の道を離れる。
健一は遠ざかっていく群れを見つめた。
病院までは、もう遠くない。
あと少しだった。
膝の横に置いた斧の柄を、健一は強く握り締めた。




