第1話⑩約束の場所
◇08月06日 11時台/病院前/健一、権蔵
病院の建物が見えた。
健一は助手席から身を乗り出した。
『あった……』
四日前に唯を見舞った場所。
外壁には地震による亀裂が走り、一部の窓ガラスが割れている。
病院前の道路にも瓦礫が散乱していた。
そして入口付近には、数人の人影がいた。
歩き方がおかしい。
『感染者じゃな』
病院の敷地内には多くの車が乱雑に放置されていた。
権蔵が病院の正門入口の前に軽トラックを停める。
健一は斧を手にする。
『行きます』
ドアを開け、外へ出た。
権蔵も運転席から降りる。
軽トラックの荷台から何かを取り出す。
その手には――。
散弾銃があった。
健一は思わず目を見開いた。
『権蔵さん、それ……』
『念のため持ってきた』
『いつの間に』
『朝じゃ。じゃが、できるだけ銃は使わん』
権蔵は散弾銃を肩に掛けた。
もう片方の手には剣ナタ。
『銃声を聞いて、あいつらが寄ってこんとも限らん。使うのは、どうにもならん時だけじゃ』
健一は黙って頷いた。
二人は病院の敷地内へ向かう。
一人の感染者がこちらに気づいた。
身体を揺らしながら、ゆっくり歩いてくる。
健一は斧を両手で握った。
『……』
頭を狙え。
権蔵から言われた言葉は覚えている。
分かっている。
それなのに身体が動かなかった。
近づいてくる感染者は、化け物には見えなかった。
衣服を着ている。
靴も履いている。
顔も人間だ。
違うのは、異常に赤い目と血に汚れた口元くらいだった。
――四日前までなら、この街のどこかで普通に暮らしていた人間なのかもしれない。
感染者との距離が詰まる。
健一は斧を構えたまま動けない。
『健一!』
感染者が突然、腕を伸ばした。
口を大きく開く。
『っ!』
健一が反応するより早く、権蔵が前へ出た。
伸びてきた腕を半歩横へずれてかわし、そのまま剣ナタを顎の下へ突き上げる。
刃が頭部まで深く入り、感染者の身体から力が抜けた。
権蔵が剣ナタを引き抜くと、そのまま地面へ崩れ落ちた。
健一は倒れた感染者を見つめた。
『しっかりせぇ』
権蔵の声に顔を上げる。
『妹さんを助けるんじゃろ?』
『……はい』
もう一人が近づいてきた。
今度は逃げない。
健一は前へ出た。
感染者が掴みかかってくる。
『うおっ!』
腹を蹴る。
感染者がよろめいた。
健一は斧を振り上げた。
頭へ。
分かっている。
それでも、無意識に力が緩んだ。
ゴッ。
鈍い音。
刃は頭に当たったが、深くは入らない。
感染者が倒れる。
『……やったか?』
感染者の腕が地面を掻いた。
起き上がろうとしている。
充血した目が健一を捉えた。
健一は歯を食いしばった。
『うあああっ!』
今度は力を緩めず、斧を振り下ろした。
グシャッ。
湿った音がした。
感染者の身体が動かなくなる。
健一の両手が震えていた。
斧の柄が汗で滑りそうになる。
目の前に倒れているものは、人間の姿をしている。
自分が斧を振り下ろした。
自分が――。
『今は考えるな』
権蔵が言った。
健一は息を整える。
『唯ちゃんを助けることだけ考えろ』
『……はい』
健一は病院の建物へ視線を向けた。
◇08月06日 11時台/病院・非常用倉庫/唯、夏帆
────非常用倉庫内────
非常用倉庫の窓から外を見ていた唯は、二人の男が病院へ向かってくることに気づいた。
一人はしっかりとした足取りの老人。
そしてもう一人。
見間違えるはずがなかった。
『……お兄ちゃん』
唯は地震で割れた窓へ駆け寄った。
胸の奥が一気に熱くなる。
『本当に……来てくれた』
その瞬間。
ドンッ!
背後の扉が激しく揺れた。
唯が振り返る。
ドン!
入口を塞いだ棚が動いた。
夏帆も立ち上がる。
『まずい……』
感染者が扉を叩いている。
それも一人ではない。
唯は窓へ向き直った。
『お兄ちゃん!』
声の限り叫ぶ。
『お兄ちゃん、扉の前に感染者がいるの!』
夏帆も窓の外を見て叫んだ。
『健一! 私たちも出ようとしたけど、扉の前から感染者が離れないの!』
『分かった! 今行く! そこで待ってろ!』
『非常階段は向こうよ。でもそこにも感染者がいるかもしれない』
夏帆が指さした先には、2階へと続く外付け階段があった。
その時、また扉が大きく揺れた。
棚が少しずつ押されている。
『唯……!』
◇08月06日 11時台/病院敷地内/健一、権蔵
────病院敷地内────
健一は走った。
非常階段へ向かう。
だが階段の前に、一人の感染者がいた。
健一を見るなり、感染者が近づいてくる。
健一は頭部を狙って踏み込んだ。
『どけ!』
だが、斧が届く直前、感染者が腕を上げた。
刃を腕で受け止められる。
『なっ――』
感染者は倒れない。
映画で見るような動く死体ではない。
生きている。
攻撃されれば反射的に身を守る。
そのまま健一へ掴みかかってきた。
『くっ!』
健一は身体を押し返し、腹を蹴る。
感染者がよろめき、上げていた腕が下がった。
今だ。
健一は空いた頭部へ斧を振り下ろした。
刃が食い込み、感染者が崩れ落ちる。
『行くぞ!』
権蔵の声。
二人は階段を駆け上がった。
二階へ到着し、非常口と書かれた扉を開ける。
廊下の先に、四人の感染者が集まっていた。
扉を叩いている。
ドン!
ドン!
棚が押される音が中から響く。
『唯!』
健一は走った。
一番近い感染者へ踏み込む。
だが攻撃に移るより早く、伸びてきた手が斧の柄を掴んだ。
『なっ!』
予想外の力だった。
健一が引き戻しても、感染者は離さない。
激しく引かれた拍子に斧が手から抜け、床を滑って遠くへ転がった。
『くそっ!』
感染者が迫る。
その横から権蔵が入り、片手で髪を掴んで頭を強引に反らせた。
空いた顎の下へ剣ナタを突き上げる。
刃が深く入った。
感染者の身体が震え、そのまま力を失った。
権蔵が刃を抜く。
『健一! お前にも剣ナタを渡したじゃろ!』
『……そうだ!』
健一は腰の剣ナタを抜いた。
別の感染者が来る。
健一の脳裏に、今しがた権蔵が見せた動きが浮かんだ。
伸びてきた腕の外へ身体をずらし、低く踏み込む。
顎の下が開いた。
健一はそこへ剣ナタを突き上げた。
刃が深く入り、感染者の身体から力が抜ける。
『……倒せた』
息をつく暇もなかった。
三体目が迫る。
健一は、もう一度同じ狙いで仕留めようとした。
伸びてきた腕をかわし、顎の下へ刃を入れようと踏み込む。
だが今度は、感染者が身体を捻った。
狙いが外れる。
剣ナタは顎ではなく、首へ深く突き刺さった。
『ぐっ……!』
抜こうとする。
抜けない。
それでも感染者は止まらない。
剣ナタを首に食い込ませたまま、身体がこちらへ倒れてくる。
健一は剣ナタから手を離し、後ろへ退いた。
感染者は床へ倒れた。
しばらくもがき続けた後、ようやく動かなくなる。
剣ナタは首に刺さったままだった。
残る一体へ、権蔵が前へ出た。
伸びてきた腕を外へかわし、一歩で間合いを詰める。
剣ナタの一撃で仕留めると、ようやく廊下が静かになった。
健一はすぐに転がっていた斧を拾った。
『唯!』
扉へ駆け寄る。
『唯! 俺だ!』
中から声がした。
『お兄ちゃん!』
夏帆と唯が扉を塞いでいた棚を移動させる。
内側から扉をゆっくり開ける。
少しずつ隙間が広がる。
そして――。
唯の顔が見えた。
『唯……!』
『お兄ちゃん!』
扉が開く。
唯が健一へ飛びついた。
健一は妹を抱き締める。
生きている。
怪我も見当たらない。
それを確かめるように、強く抱き締めた。
唯の目から涙が溢れた。
『……本当に来てくれた』
健一は唯の背中へ手を回したまま答える。
『約束しただろ。何があっても迎えに行くって』
『うん……』
健一は顔を上げた。
倉庫の中に夏帆がいる。
『夏帆』
『健一……』
『唯を守ってくれてありがとう』
夏帆は疲れた顔で笑った。
『お礼はここを出てからにして』
夏帆は床に置かれていた唯の薬が入ったバッグを拾い上げた。
その時。
廊下の奥から音がした。
複数の足音。
ゆっくりと近づいてくる。
権蔵が廊下を見る。
『……来るぞ』
健一はすぐに唯を自分の後ろへ下がらせる。
『唯、俺から離れるな』
斧を両手で握る。
廊下の向こうから、呻き声が近づいてきた。




