第14話④知るほど分からない
研究者が記録を閉じたところで、健一は別の疑問を口にした。
『政府は、このことをどこまで知ってたんです?』
『少なくとも、国内で感染が広がる前から特殊赤血球保有者の存在は把握しようとしていた』
その答えを聞いて、健一は病院にいた頃の出来事を思い出した。
『病院から血液型の情報を集めてたやつですか』
『そう。海外から、特殊赤血球保有者がFMウイルスへ強い耐性を持つという報告が入って、日本でも対象者の把握が始まった』
あの時は、なぜ政府が突然そこまで詳細な血液情報を集めようとしているのか分からなかった。
だが今なら理由が分かる。感染が国内へ広がった場合でも生き残る可能性が高い人間を、事前に把握しようとしていたのだ。
達也が椅子の背にもたれた。
『俺達を集めるつもりだったのか?』
研究者は少し考えてから答えた。
『保護対象、研究対象。両方でしょうね』
『研究対象って言い方怖いわ』
なおみが露骨に嫌そうな顔をする。
研究者は気にした様子もなく肩をすくめた。
『今さらでしょう』
『いや、研究してる側に言われたら余計怖いやろ』
達也が小さく笑ったが、健一は笑えなかった。
特殊赤血球を持っているという理由で政府から把握され、生き残った後には研究対象になる。
感染しないことは幸運だったはずなのに、それが別の意味を持ち始めているようにも感じられた。
それでも今は、もっと重要なことがある。
健一は研究者へ尋ねた。
『それで、政府は今どうなってるんです?』
研究者の返事が初めて遅れた。
視線がわずかに机へ落ちる。
『……分からない』
健一は聞き返した。
『分からない?』
『連絡が取れないの』
部屋の空気が変わった。
研究者は、感染拡大後の通信状況について説明した。政府、自衛隊、他の研究施設、医療機関。
初期には連絡が取れていた場所でも、時間が経つにつれて一つ、また一つと応答が途絶えていったという。
『最後に受け取った情報が、今も正しい保証すらない』
達也の表情から、わずかに残っていた軽さが消えた。
『じゃあ助けは?』
研究者は即答しなかった。
その沈黙だけでも、答えは十分伝わっていた。
『来るとは言えない』
健一は何も返せなかった。
これまで心のどこかでは、国そのものまで完全に失われたとは思っていなかった。
今は混乱している。
通信も交通も壊れている。
それでも、どこかでは政府が機能し、自衛隊が動き、感染を抑える方法を探している。
自分たちはそれまで生き延びればいい。
明確に口へ出したことはなくても、そんな前提がどこかに残っていた。
だが、目の前にいる研究者ですら政府の現状を知らない。
この研究所も無線で生存者を探している側なのだ。
待っていれば、いつか誰かが状況を立て直して迎えに来る。
それを当然の未来として考えることは、もうできなかった。
しばらく誰も話さなかった。
なおみは処置された腕を見つめ、達也は欠けた耳の辺りへ無意識に手を伸ばしかけて止める。
健一は、机の上に積まれた資料へ目を向けた。
これだけ調べている人間がいても、分からないことばかりだ。
『……一つだけ聞いていいですか』
研究者が顔を上げる。
『何?』
『このウイルスについて、どれくらい分かってるんです?』
研究者は少し考えた。
それから机の上の資料を一枚ずつ見るように視線を動かした。
『感染経路は分かった。体内でどう増えるかも分かってきた。耐性を持つ人間がいることも分かった』
ここまで聞いてきた内容だけなら、相当なところまで研究が進んでいるようにも思える。
だが研究者は続けた。
『でも、なぜ感染者の前頭葉が萎縮するのか分からない。なぜ人を噛もうとするのかも分からない。なぜ視力が落ちていくのかも分からない』
健一は黙って聞いていた。
『感染者の身体が、この先どこまで変化するのかも分からない。……分からないことの方が多い』
研究者の声に弱さはなかった。
だからこそ、その言葉は健一に重く響いた。
未知の病気だから何も分からないのではない。
多くのことを調べ、仕組みの一部を突き止め、それでも核心には届いていない。
健一は資料を見る。
『…………』
研究者はそんな健一の視線を追い、静かに言った。
『だから調べるのよ』
アメリカから送られてきた資料と、日本国内で集められた記録が机の上へ並べられる。
同じFMウイルス。
同じ感染者。
それなのに、数字が噛み合わない。
研究者は両方の記録を見比べながら眉を寄せた。
『特に日本の感染者は……何かがおかしい』
達也が研究者を見る。
『さっき言ってた、変化が速いって話か?』
『それもある』
研究者は資料から顔を上げた。
『……それと、もう一つ気になることがある』
健一が尋ねる。
『何ですか?』
『FMウイルスの発祥地とされている場所。アメリカのフォートマッコイ軍事キャンプよ』
達也は聞き覚えがないらしく首を傾げた。
『そこがどうしたんだ?』
研究者は答えた。
『フォートマッコイは第二次世界大戦中、日系人が多く収容されていた施設でもある』
健一は思わず聞き返した。
『……日系人?』
『ええ』
三人は顔を見合わせた。
研究者が何か結論を口にしたわけではない。
ただ、これまで聞いてきた情報が健一の頭の中で並んだ。
日本人はFMウイルスとの親和性が高い。
感染した後の身体や精神の変化も、欧米系感染者より速く進む。
そして、そのFMウイルスの発祥地とされている場所には、かつて多くの日系人が収容されていた。
達也も同じことを考えたらしく、研究者へ視線を戻した。
『……それ、関係あんのか?』
研究者は首を横に振った。
『分からない』
なおみが小さく息を吐く。
『またそれかいな』
『証拠がないものを、あるとは言えないわ』
研究者は資料を閉じた。
偶然なのか。
それとも、何か意味があるのか。
現時点で答えを持つ者はいなかった。
健一は閉じられた資料を見つめた。
研究所へ来れば、感染者について何か分かると思っていた。
実際、多くのことを知ることができた。
噛まれても感染しないこと。
自分たちが生き残った理由。
感染者が死者ではないこと。
そして、日本で起きている変化が海外の記録より速いこと。
だが知れば知るほど、FMウイルスの全体像は遠ざかっていくようにも感じられた。




