第14話③進化の兆候
健一は、閉じられた資料を見つめながら尋ねた。
『元に戻す方法は?』
その問いに、研究者はすぐには答えなかった。
先ほどまで迷いなく説明していた彼女が、ほんの少し言葉を選ぶように間を置いたことで、健一には答えを聞く前から察せられるものがあった。
『……今のところ、ない』
『治療薬も?』
『確認されてない』
研究者は机の上に置かれていた端末を操作し、感染者の脳画像を表示した。
健一たちには細かな違いまでは分からなかったが、研究者は前頭部にあたる箇所を指し示した。
『感染者では前頭葉の萎縮が確認されてる。それと、脳では慢性的な炎症反応も起きている』
健一は画面を見た。
『ウイルスが脳を壊してる?』
『分からない』
思わぬ答えに、健一は研究者を見る。
『分からない?』
『炎症反応と前頭葉の萎縮に関係がある可能性はある。でも因果関係はまだ証明されてない。そもそも、どうして前頭葉が萎縮するのかも分かってない』
研究者は断定を避けた。
感染者の脳で何が起きているか、その一部は観察できている。
しかし、観察された異常がどのような順番で起き、何が原因となっているのかまでは解明されていない。
なおみは少し考えたあと、納得できないように口を開いた。
『でもあいつら、もう人間ちゃうやろ』
研究者の表情がわずかに変わった。
『……そう簡単でもないの』
『どういうこと?』
『感染者は、ある瞬間に全部の人間性を失うわけじゃない』
なおみは眉をひそめる。
研究者は続けた。
『言葉、記憶、感情、攻撃性、罪悪感。それぞれ別々の速度で変化する』
健一は思わず聞き返した。
『記憶が残ってる?』
『人物や場所に関する記憶は、言語能力より長く残ることがある』
達也が椅子へ座り直した。
『じゃあ……知り合いのこと覚えてる感染者もいるってことか?』
『可能性はある』
『それでも襲う?』
健一の問いに、研究者は頷いた。
『攻撃性が先に強くなればね』
記憶が残っていることと、以前と同じ行動ができることは別だった。
目の前にいる相手を知っている。
どこかで一緒に暮らしたことも覚えている。
それでも、攻撃性を抑えられなくなっていれば襲う可能性がある。
研究者はさらに言った。
『初期には、自分が何をしているのか理解して罪悪感を持つ感染者もいる。でも進行すると、それも失われていく』
達也の表情から、いつもの軽さが消えた。
『……じゃあよ』
『?』
『今まで俺たちが殺してきた中にも……襲いながら、心ん中じゃ「殺さないでくれ」って思ってたやつがいたかもしれねぇってことか?』
研究者はすぐには答えなかった。
資料へ視線を落とし、それから静かに言う。
『……否定はできないわ』
健一は何も言えなかった。
これまで倒してきた感染者の姿が、次々と頭に浮かぶ。
襲ってきたから倒した。
そうしなければ自分たちが殺されていた。
その判断が間違っていたとは思わない。
それでも、相手の中に人間だった頃の記憶や感情が残っていた可能性を知ってしまうと、同じ出来事の見え方が変わってしまう。
なおみが処置された腕へ目を落とした。
『……それ、知らん方が楽やったかもしれんな』
誰も返事をしなかった。
重くなった空気を破ったのは、達也だった。
『そういや……最初に見た奴らより、最近の奴の方が動き速くねえか?』
健一もすぐに頷く。
『俺も思ってた』
なおみも顔を上げた。
『力も強なってる気する』
その言葉を聞いた瞬間、研究者の表情が変わった。
健一はその反応を見逃さなかった。
『何かあるんですか?』
研究者は三人を見回した。
『……やっぱり、そう感じる?』
『はい』
研究者は机の上にある資料を手元へ引き寄せた。
『アメリカ側のデータでも、東アジア系、とくに日本人では変異が速く進むことは確認されていた。でも、国内で見えている変化には、それだけじゃ説明しきれないものがある』
達也が尋ねる。
『どう違う?』
『速い』
研究者は資料の数字を確認しながら説明を続けた。
『日本人はRh-FM受容体の発現密度が高い個体が多い。アメリカ側のデータでも、東アジア系、とくに日本人では変異が速く進むことは確認されていた』
健一はここ数日の感染者を思い返した。
最初に遭遇した頃は、ふらつきながら歩く個体が多かった。
それが今では、人間を追って走る個体が珍しくなくなり、自分の身体を傷つけることさえ構わず動くものまで現れている。
研究者が続ける。
『欧米系感染者と比べて、平均で約2倍。一部ではさらに速い』
日本人感染者では、身体の変異や精神面の変化が欧米系感染者より平均して約二倍、一部の高発現個体では最大で約四倍の速度で進行する例まで確認されているという。
健一の表情が硬くなった。
『じゃあ、これからもっと……』
『可能性はある』
なおみが尋ねた。
『どんなふうになるん?』
研究者は首を横に振った。
『……それを調べてる』
『分からへんの?』
『分からないから研究してるのよ』
言い方こそいつも通り淡々としていたが、研究者自身もその先を見通せているわけではなかった。
だからこそ、彼女は健一たちが実際に遭遇した感染者について詳しく聞き始めた。
『走った個体は、いつ頃から見た?』
健一たちは記憶を辿りながら答える。
走って追ってきた感染者。
以前より明らかに力が強かった個体。
罠に掛かっても、自分の足を傷つけながら拘束を破った感染者。
発症してからどれほど経過していたと思われるのか。
どのような場所にいて、どんな行動を取ったのか。
研究者は一つずつ確認し、細かく記録していった。
健一たちにとっては、生き延びるために遭遇してきた出来事だった。
だが研究者にとって、その一つ一つが日本国内の感染者に起きている変化を知るための情報でもあった。
聞き取りを終えると、研究者は記録へ目を通しながら呟いた。
『実際の感染者を、もっと詳しく調べる必要がある』




