第13話①安全ではなくなった
◇08月14日 20時台/山小屋/健一、唯、夏帆、権蔵、達也、なおみ、美樹
その日の夕食に、肉は出なかった。
昼間、山小屋の前で人間が焼ける臭いを嗅いだばかりでは、さすがに誰にも肉を食べる気にはなれなかった。
缶詰をいくつか開け、米と一緒に簡単に済ませる。
いつもなら食事中に何かしら話す達也も、今日は口数が少ない。
唯は夏帆の近くに座り、時折その顔を心配そうに見ていた。
夏帆の顔はまだひどく腫れている。
なおみに手当てを受けてはいるものの、殴られた痕は隠しようがなかった。
健一も何度か夏帆と唯へ目を向けた。
山小屋へ戻ってきた時、あと少し遅れていたらどうなっていたのか。
そう考えるたび、胸の奥に重いものが沈む。
ここへ来た当初、山の中にあるこの場所は街より安全だと思っていた。
感染者の数は少なく、人目につきにくい。
井戸もあり、周囲には狩猟や採集のできる山もある。
だが今日、二人の男はそこまで入り込んできた。
健一は箸を置いた。
『……ここも、安全とは言えなくなってきたな』
皆の視線が集まる。
『街から離れてるから、感染者には見つかりにくい。でも、人間まで来ないわけじゃない』
権蔵が静かに頷いた。
ここ数日で、感染していない人間が街を避けて山へ入ってきている可能性が高かった。
なおみが見つけた焚き火の跡もあり、今日の二人も川沿いからここまで辿り着いている。
健一は山小屋の外を思い浮かべながら続けた。
『壁を造るのはどうだろう? 山小屋の周囲を囲んで、簡単には入ってこられないようにする』
達也が顔を上げる。
『柵じゃなくて、ちゃんと壁にするってことか?』
『できるだけ越えにくいものにしたい。少なくとも、今日みたいに知らない奴がそのまま小屋の前まで来られる状態はまずい』
なおみもすぐに頷いた。
『それはやった方がええと思う。感染者だけやなくて、人間も警戒せなあかんって分かったしな』
今日の出来事を経験したあとでは、反対する者はいなかった。
健一はさらに言った。
『それと、勝手に壁を越えてきた人間は撃つ。それくらい決めておいた方がいいと思う』
唯が少し緊張した表情で健一を見る。
以前なら、そこまで強いルールを決めることに抵抗を感じたかもしれない。
だが今は、善意を前提に相手を迎え入れることの危険を全員が知っている。
権蔵が低い声で答えた。
『警告しても越えてくるなら、敵意があると判断してええじゃろう』
美樹は何も言わなかったが、反対もしなかった。
夏帆も腫れた頬を庇うようにしながら、小さく頷いた。
『私は賛成よ』
その言葉のあと、夏帆は権蔵へ視線を向けた。
『権蔵さん。空気銃が一つ残ってたわよね?』
権蔵が夏帆を見る。
『ああ』
『私に教えてくれないかしら?』
健一は思わず夏帆へ顔を向けた。
今日まで、夏帆が武器を使う時は剣ナタが中心だった。
しかし、あの二人に押さえ込まれた時、近距離まで入られてからでは力の差を覆すのが難しかった。
夏帆自身も、それを嫌というほど理解したのだろう。
権蔵はしばらく夏帆の顔を見たあと、頷いた。
『それがいいじゃろう。明日から美樹と一緒に特訓じゃな』
夏帆は真剣な表情で答えた。
『お願いするわ』
美樹も夏帆を見たが、余計なことは言わなかった。
食事を終える頃、20:00を過ぎていた。
健一は特殊無線機へ目を向ける。
この時間になれば、ここ数日は研究所からの通信が入っていた。
しかし今日は、何度待っても雑音すら変化しない。
『今日は来ないな……』
達也も無線機を確認した。
『昨日、街の電気が全部落ちたからかもな』
研究所の設備まで止まったのか、それとも別の理由があるのかは分からない。
健一はしばらく無線機を見ていたが、結局その夜、研究所からの呼びかけが聞こえることはなかった。
◇08月14日 21時台/天然温泉/唯、夏帆、なおみ、美樹
夕食を片づけたあと、唯、夏帆、なおみ、美樹の四人は着替えとタオルを持って天然温泉へ向かった。
夜の山道を慎重に進み、周囲に異常がないことを確認してから身体を洗う。
昼間の汗や汚れを落とし、四人が温かな湯へ浸かると、張り詰めていた空気がようやく少し緩んだ。
なおみは肩まで湯に沈み、大きく息を吐いた。
『はぁ~……やっぱ風呂はええなぁ。こんな世界になっても、これだけはやめられへんわ』
美樹が隣で笑う。
『2日前も入ったばっかりだけどね』
『風呂なんか毎日入ってもええやろ。むしろ毎日入りたいわ』
夏帆も湯へ身体を預けながら頷いた。
『分かる。病院で働いてた頃は、家に帰ってお風呂入るのが当たり前だったのにね』
『今考えると、蛇口ひねったらお湯が出るってすごいことだったんだね』
美樹の言葉に、三人とも少し考え込む。
以前なら当たり前だったことが、今では贅沢になっている。
唯がぽつりと言った。
『私は……お風呂上がりにアイス食べるの好きでした』
なおみがすぐに反応した。
『ええなぁ、それ。めっちゃ食いたなってきた』
『冷たいの、食べたいですね』
『こんな話したら余計ほしくなるやん』
四人の間に小さな笑いが起きた。
しばらくは、以前の生活について話した。
仕事が終われば家へ帰り、風呂へ入り、冷蔵庫を開ければ冷たい飲み物がある。
店へ行けば食べたいものを買え、スマートフォンを使えば遠くにいる人ともすぐ連絡が取れた。
あまりにも普通だったから、失って初めてどれほど恵まれていたのかが分かる。
やがて話の流れが家族へ移り、なおみが夏帆に尋ねた。
『そういや夏帆、家族はどうしてるん?』
夏帆は少しだけ視線を落とした。
『うちはお母さんだけ。父親はいないから』
『お母さんは?』
『……分からない。地震が起きる前から旅行に行ってて、家にいなかったの』
美樹が夏帆を見る。
『旅行?』
『うん。どこに行くとか詳しく聞いてなくて……地震が起きてからは電話も繋がらないし』
夏帆は湯の表面へ目を向けたまま、少し間を置いた。
『無事だといいんだけどね』
隣にいた唯が、静かに口を開いた。
『……きっと大丈夫です』
夏帆が顔を上げる。
『唯ちゃん……』
『私のお母さんも、仕事で東北に行ったまま連絡が取れないんです。だから……夏帆さんのお母さんも、私のお母さんも、きっとどこかで無事にいます』
夏帆は唯の顔を見つめ、やがて柔らかく笑った。
『……うん。そうだね』
『せや。まだ何も分からへんのに、悪い方に決めつけてもしゃあない』
美樹も何も言わず頷いた。
それ以上、家族の話を重く引きずることはしなかった。
なおみが別の話題を振ると、美樹もそれに乗り、唯も少しずつ笑顔を取り戻す。
夏帆も腫れた顔に響かない程度に笑いながら、他愛のない会話へ戻っていった。
しばらく身体を温めたあと、四人は温泉から上がった。
着替えを済ませ、夜の山道を通って山小屋へ戻る。
今日一日で傷ついた身体も、不安も、すべて消えたわけではない。
それでも温かな湯に浸かり、誰かと話している間だけは、ほんの少しだけ以前の生活に戻れたような気がしていた。




