臨時放送。そして街へ。
◇8月5日 15:00 市立病院
病院の非常用倉庫。
夏帆は倉庫の中を見回していた。
『何か……使える物はないかな』
万が一に備え、武器になりそうな物を探していた。
棚を一つずつ確認する。
段ボール。
保存食。
飲料水。
毛布。
どれも身を守る道具にはならない。
ようやく見つかったのは、小さな荷ほどき用のハサミだけだった。
夏帆はそれを手に取る。
『これしかないのね……』
刃は短く、とても頼りない。
唯は不安そうに見つめていた。
『それで戦えるの?』
夏帆は静かに首を横へ振る。
『無理ね』
『これで感染者と戦いながら脱出するのは難しいわ』
その言葉に唯は黙り込んだ。
二人は扉へ耳を澄ませる。
ヒタ……
ヒタ……
扉の向こうから、感染者の足音が聞こえてきた。
一人ではない。
時間がたつにつれ、その足音は少しずつ増えているようだった。
『アァ……』
『ウゥ……』
低いうめき声が倉庫の外から響く。
夏帆はハサミを握る手へ力を込めた。
その時。
ガタ……
小さな余震が起きた。
棚がわずかに揺れる。
次の瞬間。
ガッシャーン!!
棚の上へ置かれていた防災ヘルメットが床へ落ちた。
倉庫の中へ、大きな音が響き渡る。
夏帆と唯は同時に息を呑んだ。
外の足音が止まる。
一瞬の静寂。
そして――。
バンッ!!
バンバンッ!!
扉が激しく叩かれた。
感染者たちが音へ反応したのだ。
棚で押さえた鉄扉が、衝撃を受けるたびにわずかに揺れる。
夏帆は荷ほどき用のハサミを強く握り締めた。
『最悪の時は……これで何とかするしかないわね』
唯は震えながら夏帆の腕をつかむ。
二人は息を殺し、感染者たちの興味が薄れることだけを祈り続けた。
『お兄ちゃん……来てくれるかな……』
唯の小さなつぶやきが暗い倉庫へ溶けていく。
夏帆は不安を胸の奥へ押し込み、静かに微笑んだ。
『約束したんでしょう?』
『なら、きっと来るわ』
その言葉だけを支えに。
二人は扉の向こうから響く音が止むのを、ただじっと待ち続けた。
◇20:00
権蔵の軽トラックが山小屋の前で止まった。
エンジンを切ると、山の静けさが戻ってくる。
健一は助手席から降りると、大きく息を吐いた。
林道も駄目。
軽トラックもパンク。
街へ向かう方法を探し続けたが、状況は何一つ好転していなかった。
権蔵は荷台から交換したパンクタイヤを降ろしながら言った。
『今日はもう終わりじゃ』
健一は黙ってうなずく。
頭では分かっていた。
暗くなった山道を無理に進めば、落石や崩落に巻き込まれる危険がある。
それでも心だけは街へ向かっていた。
唯は病院で待っている。
そう思うたび、胸が締め付けられた。
権蔵は山小屋の扉を開けた。
『明日じゃ』
健一が顔を上げる。
『明日、もう一度橋の様子を見に行こう』
『水が引いとれば、渡れるようになっとるかもしれん』
その一言に、健一の表情がわずかに変わる。
『……はい』
希望はまだ残っている。
そう信じるしかなかった。
二人は山小屋へ入る。
テーブルへ向かい合って腰を下ろした。
疲労は限界だったが、眠る気にはなれない。
権蔵は棚の上に置いてあった小型ラジオへ手を伸ばした。
『情報だけでも入ればええんじゃが』
スイッチを入れる。
ザーッ……
激しい雑音だけが流れる。
つまみをゆっくり回す。
ザー……
ザー……
しばらくすると、途切れ途切れに人の声が聞こえ始めた。
『……こちら、臨時放送です』
健一と権蔵は顔を見合わせた。
ラジオの音量を少し上げる。
『政府は……FMウイルスが国内で確認されたと発表しました』
健一の表情が固まる。
『現在、各地で感染者による襲撃が相次いでおり……』
ザーッ……
雑音が混じる。
『不要不急の外出を……』
『……安全な場所で待機してください』
再び雑音が大きくなる。
それでも二人には十分だった。
日本にも、ついにFMウイルスが侵入した。
海外で見続けてきた惨状が、もう他人事ではなくなったのだ。
ラジオはなおも何かを伝えようとしていたが、雑音にかき消されて聞き取れない。
やがて放送は完全に途切れた。
山小屋には静寂が戻る。
健一はテーブルの上で拳を握り締めた。
『唯……』
約束は変わらない。
どれほど危険でも、必ず迎えに行く。
その決意だけが、胸の中で静かに燃え続けていた。
権蔵はそんな健一を見つめ、小さくうなずいた。
明日の朝。
もう一度、橋へ向かう。
二人はそう心に決め、それぞれ静かに翌日の支度を始めた。
◇8月6日 05:00
まだ夜明け前。
山小屋の外は薄暗く、空気はひんやりとしていた。
健一は疲労から深く眠っている。
その様子を確認すると、権蔵は音を立てないよう静かに外へ出た。
軽トラックの荷台を開ける。
納屋から細長い布に包まれた散弾銃を持ってくると、誰にも見られないよう荷台の奥へそっと積み込んだ。
さらに弾も一緒に荷物の陰へ隠す。
『……使わんで済めば、それが一番じゃ』
小さくつぶやき、荷台を閉める。
銃刀法の関係で、正当な理由もなく持ち歩くことはできない。
だから健一にも話していなかった。
万が一のため。
ただ、それだけだった。
◇08:00
山小屋の前。
出発の準備を終えた健一が軽トラックへ向かう。
権蔵の腰には大きな剣ナタが収まっていた。
やがて納屋から薪割り斧と、年季の入った剣ナタを持って現れる。
『持っとけ』
権蔵は剣ナタを健一の腰へ差し、続けて薪割り斧を差し出した。
『これを……?』
『もしものためじゃ』
健一は黙って斧を受け取る。
『行くぞ』
健一は力強くうなずく。
『はい』
二人は軽トラックへ乗り込んだ。
唯との約束を果たすため。
街への道を、再び走り始めた。
◇09:00
二人はゆっくりと橋へ近づいていく。
健一は思わず身を乗り出した。
昨日まで茶色い濁流に飲み込まれていた橋が、朝日に照らされて姿を現している。
『権蔵さん……!』
権蔵は車を止めると、橋の様子を慎重に確認した。
橋の上には泥や流木が残っている。
しかし、水は完全に引いていた。
『渡れるな』
その一言に、健一は大きく息を吐いた。
ようやく街へ向かえる。
唯との約束を果たせる。
軽トラックはゆっくりと橋を渡り始めた。
橋を渡り切ると、権蔵は静かにアクセルを踏み込む。
車は久しぶりに山を離れ、街へ続く道路を走り始めた。
◇10:00
街へ続く道路沿いにあるコンビニの前で、権蔵は軽トラックを止めた。
建物は見る影もなかった。
自動ドアは割れ、窓ガラスも砕け散っている。
乾きかけた血痕が店の入口や壁へ飛び散り、店内には商品が一つも残っていなかった。
『誰かおるかもしれん』
権蔵はそう言うと、剣ナタを手に軽トラックを降りた。
健一も薪割り斧を握り、その後へ続く。
店内は地震の影響で棚が倒れ、床には商品棚の破片やガラスが散乱していた。
『……』
健一は店内を見回す。
人の気配はない。
助けを求める声も聞こえなかった。
『誰もおらんようじゃな』
権蔵が静かにつぶやく。
健一は棚の奥まで確認したが、生存者の姿は見当たらない。
『行きましょう』
二人は店を出て軽トラックへ戻る。
エンジンがかかり、軽トラックは再び街へ向けて走り出した。
その姿が見えなくなった頃だった。
道路脇の深い茂みが、小さく揺れた。
一人の男が姿を現す。
作業服を着た男だった。
泥だらけの顔で、必死に軽トラックを見つめる。
『ま、待ってくれ……』
声を出そうとした。
しかし恐怖で喉が震え、かすれた声しか出ない。
その声は、走り去る軽トラックまでは届かなかった。
男は呆然と立ち尽くす。
その背後。
茂みの奥から、五体の感染者がのろのろと姿を現した。
赤く充血した目。
ゆっくりと男へ向かって歩いてくる。
『……っ!』
男は振り返ると、一目散に走り出した。
感染者たちは、その後を追うように歩き続ける。
軽トラックの中にいる健一と権蔵は、その出来事に気付くことなく、街へ向かって走り続けていた。




