閉ざされた道。
◇8月4日 05:00
健一は運転席で目を開けた。
結局、一睡もできなかった。
夜の間も何度となく余震が続き、そのたびに車体が小さく揺れた。
フロントガラスの向こうでは、東の空がゆっくりと白み始めている。
『……行こう』
エンジンをかける。
慎重にアクセルを踏み込み、落石だらけの山道を進み始めた。
道路脇には崩れた斜面。
倒木。
割れたアスファルト。
地震の凄まじさを物語る光景が続く。
健一は何度もブレーキを踏みながら車を進めた。
頭の中にあるのは、ただ一つ。
唯。
病院へ。
一秒でも早く迎えに行かなければ。
しかし、その時。
『……いや』
健一はハンドルを握る手に力を込めた。
『まず権蔵さんだ』
もし権蔵が負傷していたら。
山道を知り尽くしている権蔵の力が必要になる。
それに、怪我をしているなら病院まで乗せて行かなければならない。
健一は進路を変え、山小屋へ向かった。
◇07:00
山小屋。
軽トラックの横で薪を片付けていた権蔵が、近づいてくるジムニーへ気づいた。
『おお!』
健一が車を降りる。
『権蔵さん!』
『無事じゃったか』
二人は互いの無事を確認し、安堵の表情を浮かべた。
山小屋の外観は大きな損傷は受けていない。
権蔵に山小屋の中に案内され健一は見回した。
部屋の中は地震の爪痕がまだ色濃く残っている。
割れた茶碗や湯呑みは隅へ掃き集められ、倒れた家具も起こされていたが、それだけだった。
『命に関わる所だけ片付けた。』
権蔵は肩をすくめる。
『こんな時に家を綺麗にする余裕はないからの。』
権蔵は苦笑した。
健一はすぐに尋ねた。
『街の様子はどうなんですか!?唯が入院してる病院は!?』
権蔵は静かに首を横へ振る。
『分からん』
『携帯も圏外じゃ』
健一も確認のためスマートフォンを取り出す。
画面には「圏外」の文字。
何度か発信を試みても、まったくつながらない。
スマートフォンをゆっくり下ろした。
『唯……』
胸騒ぎだけが大きくなる。
権蔵は健一の表情を見ると、小さく息を吐いた。
『行くか』
『え?』
『病院じゃ』
健一は顔を上げる。
『一人より二人の方がええ』
『山道はわしの方が詳しい』
『ありがとうございます』
健一は深く頭を下げた。
◇08:00
二人は権蔵の軽トラックへ乗り込んだ。
山道を十分ほど走ったところで軽トラックが止まる。
『……やっぱりか』
橋だった。
昨日まで激しい雨が降り続いていた川は、巨大地震の影響も重なり、濁流となって橋全体を飲み込んでいる。
茶色く濁った水が猛烈な勢いで流れていた。
橋そのものは見えない。
『渡れん……』
健一は唇を噛む。
『この橋は冠水しやすい』
権蔵は静かに言った。
『昨日も話したじゃろ』
『時間がたてば水は引くかもしれん』
『じゃが、今は無理じゃ』
健一は拳を強く握った。
あと少しなのに。
唯が待っているのに。
何もできない。
その無力感だけが胸へ突き刺さる。
『別の道を使おう』
権蔵が地図を広げた。
『かなり遠回りになるが、山を抜ける道が一本ある』
『行きましょう』
二人はすぐに車を方向転換した。
◇15:00
『……くそ』
道路を完全に塞ぐように、一台のダンプカーが横転していた。
運転席は大きく潰れている。
二人は車を降りた。
健一が運転席を覗き込む。
『……』
返事はない。
シートベルトを締めたまま、運転手は動かなかった。
大量の血が乾き始めている。
すでに息を引き取っていた。
健一は静かに目を閉じた。
『……』
権蔵も帽子を取り、小さく黙礼する。
念のためもう一度携帯電話を取り出した。
『警察に……』
しかし、画面は変わらない。
圏外。
もう一度。
もう一度試す。
結果は同じだった。
『駄目か……』
誰にも知らせることができない。
二人はしばらく立ち尽くした。
山の中は、不気味なほど静かだった。
鳥の声さえ聞こえない。
『戻ろう』
権蔵が静かに言った。
健一は悔しそうにダンプカーを見つめる。
それでも、どうすることもできなかった。
『さらに遠回りになるが、林道を一本知っとる。そこを行ってみるか』
権蔵が案内したのは、地元の猟師や山菜取りの老人しか知らないような細い林道だった。
知っていてもほぼ使われないそんな道だった。
枝がフロントガラスをこする音を立てながら、軽トラックは進んでいく。
その道を進んでいた軽トラックが、突然停止する。
『この道もダメじゃったかぁ』
目の前には大きな岩が道を塞いでいた。
『クソッ!』
『今日は無理じゃ。帰ろう』
やるせない気持ちを抱きながら山小屋へ引き返した。
◇21:00
山小屋。
軽トラックが戻ってくる。
健一は山小屋の椅子へ腰を下ろしたまま動かなかった。
唯との約束。
『何があっても迎えに行く』
その言葉だけが何度も頭をよぎる。
『約束したのに……』
小さくつぶやく。
権蔵は湯飲みにお茶を注ぎ、健一の前へ置いた。
『焦る気持ちは分かる』
『じゃが、焦って死ねば元も子もない』
健一は黙ったままだった。
『道は必ずある』
健一は小さくうなずき、湯飲みのお茶を飲み干した。
権蔵が倉庫から寝袋を取り出し健一に渡した。
『今日はもう寝ろ。明日また考えればええ』
『……はい』
健一は寝袋を受け取り、静かに床へ広げた。
◇8月5日 08:00
朝日が山の木々を照らし始めていた。
権蔵の軽トラックは道路をゆっくりと進んでいく。
街とは正反対のキャンプ地へ向かう山道。
キャンプシーズン中に何台か車が通るくらい人の気配がない道だった。
かなりの遠回りになるが街へ続く残された道はあと数本しかない。
助手席の健一は何度も前方へ目を向ける。
少しでも街へ抜けられる道があるなら進みたい。
その思いだけだった。
『この道なら……』
健一がつぶやく。
権蔵は慎重にハンドルを切りながら答えた。
『まだ分からん』
『あの地震じゃからな。どうなっているか予測できん。』
軽トラックはゆっくり進んでいく。
しかし、数百メートル先で二人は言葉を失った。
道路が崩れていた。
山肌ごと崩れ落ちた土砂が道を完全に埋め尽くしている。
『……』
『ここもダメか…。』
健一は車を降りた。
崩れた道へ近づく。
足元には大小さまざまな岩が転がり、折れた木々が何本も重なっていた。
『回れそうですか』
健一が尋ねる。
権蔵は周囲を見渡し、ゆっくり首を横に振った。
向こう側へ渡れるような状況ではない。
『無理じゃ』
『この地盤が車の重さに耐えられるか分からん。』
その言葉と同時に、小さな余震が起きた。
ガタ……
地面がかすかに震える。
パラパラ……
崩れた斜面から小石が転がり落ちてきた。
続いて、拳ほどの石が道路へ転がり落ちる。
ゴトッ。
転がった石が軽トラックのタイヤにぶつかる。
権蔵はすぐに健一の肩をつかんだ。
『下がれ』
二人は素早く車の方へ戻る。
しばらく様子を見ていたが、崩落は止まらない。
余震が来るたび、山は少しずつ形を変えていた。
『危険じゃな』
権蔵が静かに言う。
『無理に進めば、がけ下に落ちる』
健一は悔しそうに崩れた道を見つめる。
唯との約束が頭をよぎる。
何があっても迎えに行く。
そう約束した。
それなのに、たどり着くことすらできない。
拳を強く握る。
『……すみません』
『何を謝る』
権蔵は穏やかな声だった。
『自然には勝てん』
『今は生き残ることを考えろ』
健一はゆっくりとうなずいた。
二人は軽トラックへ乗り込み、山小屋へ引き返すことにした。
林道を戻る途中も、あちこちで落石が続いていた。
道路へ転がった石を避けながら、慎重に車を進める。
『ここまでじゃ。飯にするぞ』
権蔵が前を見たまま言う。
『無理をしても何も始まらん』
健一は窓の外を見つめる。
木々の向こうには街がある。
その街で、唯は今も待っているはずだった。
◇15:00
山小屋へ戻り昼食を済ませた二人は、余震が落ち着くのを待って再び山道へ出ていた。
『午前中よりは落ち着いたかもしれん』
権蔵がそう言って軽トラックを走らせる。
健一も辺りを警戒していた。
山道には、まだ新しい落石がいくつも転がっている。
慎重に避けながら進んでいた、その時だった。
ゴンッ。
車体が小さく跳ねた。
『ん?』
権蔵がすぐに車を止めた。
外へ降りて確認すると、右後輪が大きく沈んでいる。
『やれやれ……』
権蔵はしゃがみ込み、タイヤを見た。
鋭く尖った落石がタイヤへ深く刺さっていた。
『パンクじゃ、まだスペアがある』
健一も隣へしゃがみ込む。
『交換しましょう』
権蔵は荷台から工具箱を降ろした。
ジャッキを取り出し、車体をゆっくり持ち上げていく。
健一は外したナットを一つずつ受け取り、失くさないよう工具箱のふたの上へ並べた。
汗が額を流れる。
夏の日差しは容赦がなかった。
それでも二人は黙々と作業を続ける。
やがてスペアタイヤへの交換が終わる。
権蔵は最後にナットを締め直し、大きく息を吐いた。
『これで大丈夫じゃ』
健一も軽く息をつく。
『ことごとく道を塞がれますね』
権蔵は苦笑した。
『地震の後じゃ。こんなもんじゃろ』
二人は工具を荷台へ戻し、再び軽トラックへ乗り込んだ。
街へ向かう道は、まだ遠かった。




