↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/78

第1話⑤扉の向こう側

◇08月03日 16時台/病院・搬送口/救急隊員たち


救急車と、それに随伴する緊急車両が病院へ向かっていた。

その進行方向に、文字盤がダーツボード柄になった腕時計をつけた男が歩いている。

救急車は男を避けるように進路をずらし、そのまま搬送口へ滑り込んだ。


挿絵(By みてみん)


扉が開く。

救急隊員たちが重傷者を乗せたストレッチャーを引き出し、慌ただしく院内へ運んでいく。

別の緊急車両からも負傷した外国人たちが降ろされていった。

病院はすでに、地震による負傷者で溢れ返っていた。





◇08月03日 16時台/病院内/夏帆


『次の人、こっちお願いします!』


夏帆は声を上げながら廊下を走った。

地震発生から四時間。


病院内の混乱は収まるどころか、さらにひどくなっていた。

救急搬送は途切れない。

処置を待つ患者は増え続け、医師も看護師も休む暇がない。


そんな中――。


搬送口の方から、突然、大きな悲鳴が響いた。


『患者が人を襲ってるぞーーーー!!』

『人が噛みついてる! 逃げろーーーー!!』

『ウイルスの感染者だぁーーーー!!』


挿絵(By みてみん)


夏帆の足が止まる。

続けて怒号が聞こえた。


『逃げろ!』


『早く外に出せ!』


『押すな!』


何が起きたのか理解するより早く、人々が廊下へ雪崩れ込んできた。


『うわっ!』


誰かが転ぶ。

その横を別の男が無理やり通り抜ける。


『邪魔だ! どけ!』


『押さないでください!』


看護師の制止など誰も聞いていない。


泣いている者。

怒鳴っている者。

後ろを何度も振り返りながら逃げる者。

夏帆は、そのうちの一人を捕まえた。


『何があったんですか!?』


男は青ざめた顔で夏帆を見る。


『緊急搬送されてきた患者が、突然人を襲い始めたんだ!』


『患者が……?』


『噛みついてる! 1階がもう滅茶苦茶だ! 早く逃げろ!』


男は夏帆の手を振りほどき、そのまま駆けていった。

また悲鳴が上がる。

出入り口の方向では、人々が外へ出ようと殺到していた。


『押すな!』


『先に行かせろ!』


『どけって言ってんだろ!』


物が壊れる音。

誰かが殴られる鈍い音。

興奮した男同士が掴み合い、そのまま殴り合いを始めている。


止めようとした人間まで突き飛ばされた。

床へ倒れた人を踏み越え、我先にと出口へ向かう者もいる。


《何なの……これ……》


夏帆はすぐには近づかなかった。

廊下の壁際へ寄り、人が逃げてくる方向を確認する。


看護師として、何が起きているのか分からないまま患者を放置することもできない。

だが、騒ぎの中心へ飛び込むつもりもなかった。


廊下の角から、そっと騒ぎの方を覗く。


そして――。


夏帆は息を呑んだ。

一人の人間が、床に倒れた人間へ覆い被さっていた。


挿絵(By みてみん)


最初は何をしているのか分からなかった。

だが、その頭が動くたび、湿った音がする。


赤いものが床に広がっている。

覆い被さっている人間が顔を上げた。

口の周りが血で濡れていた。


『……うそ』


食べている。

人が、人を。


下敷きになっている顔が見えた。

夏帆の背中が凍りつく。


『先生……?』


知っている医師だった。

何度も話した。

一緒に患者の対応をしたこともある。

その医師が、目の前で人間に食べられている。


夏帆は一歩後ずさった。



──その時。


感染者と思われる人物の顔が動いた。

充血した目が、まっすぐ夏帆へ向く。


目が合った。


『……っ!』


夏帆は踵を返した。

走る。


背後から何かが動く気配がした。

振り返る余裕はない。


それでも一瞬だけ後ろを見る。

そいつが追ってきていた。


速くはない。

身体をふらつかせながら、のろのろと歩いてくる。

だが確実に、夏帆を追っている。


《もうここはだめかもしれない》


夏帆は走りながら周囲を見る。


逃げる患者。

転倒している人。

誰かを制止しようとして逆に突き飛ばされる職員。


一階はすでに統制が取れていなかった。


《この状態じゃ、患者をまとめて避難させるのは無理……》


その時、二階の病室にいる患者たちが頭に浮かんだ。


自力で動けない者もいる。

状況を知らず、まだ病室に残っている者もいる。


そして――唯。

昨日から体調を崩し、薬も必要としている。


『唯ちゃん……!』


二階へ向かう途中、ナースステーションの前を通りかかった。

夏帆はそのまま通り過ぎかけて、足を止めた。


《待って》


唯をどこか安全な部屋へ移したとしても、この騒ぎがすぐ収まる保証はない。

一度立て籠もれば、薬を取りに戻れるとも限らない。


昨日、健一と交わした言葉が蘇る。


《私の方でも唯ちゃんの薬は何とかしてみる》

《持っていけるものは、今持っていかないと》


夏帆はナースステーションへ入り、唯のために確保されていた薬を探した。

あった。だが、量は多くない。


《それでも、ないよりはいい》


夏帆は残っていた分をすべて掴み、すぐに二階へ続く通路へ向かった。


《この階段を上がれば唯の病室へ行ける》


しかし反対へ進めば、外へ逃げることもできる。


夏帆は一瞬だけ出口の方向を見る。


怖くないわけではない。

このまま病院から逃げてしまいたいという気持ちもあった。


それでも足は二階へ向いた。


唯を置いていくという選択肢だけは、どうしても選べなかった。

唯はただの患者ではない。


幼い頃からずっと一緒だった。

健一と三人で遊び、成長してきた。


夏帆にとっても妹のような存在だった。

薬を握りしめ、階段を駆け上がる。


そして唯の病室へ飛び込んだ。


『唯ちゃん!』


『夏帆さん?』


唯が驚いて顔を上げる。


『唯ちゃん。よく聞いて。緊急搬送されてきた患者が、突然人を襲い始めたの。感染者かもしれない。1階はパニックで危険よ』


唯の顔から血の気が引いた。


『感染者……?』


『病室より鍵もドアもしっかりした部屋があるの。そこに移動しましょ』


『安全な部屋?』


『非常時の物資が保管されてる倉庫よ。鍵もかかるし、病室よりは守りやすいわ』


『他の人たちは?』


夏帆は一瞬言葉に詰まった。


『今みんなを廊下に出したら、かえって危険よ。動ける人には近くの部屋へ避難してもらう。唯ちゃんは体調も悪いし、私が一緒にいるからこっちへ来て』


夏帆は唯の手を取った。


『急ごう』


唯はベッド脇に置いてあったバッグを手に取り、夏帆とともに病室を出た。


廊下には、何が起きたのか分からず不安そうにしている患者たちがいた。

一人の老人が夏帆に声をかける。


『ウイルス感染が発生したと騒いどるが、わしらはどうなるんじゃ?』


夏帆は立ち止まった。


『1階側には、人を襲った患者がいます! メイン階段の下も混乱していて危険です! 今は廊下を移動しないで、近くの病室や部屋に入って扉を閉めてください!』


患者たちがざわつく。


『出来るなら扉の前に家具を置いて、その人物が入れないようにしてください! マスクやタオル、なんでもいいから口と鼻を覆ってください! 一人で動けない人がいたら、近くの人で助けてあげてください!』


その時。

階段の方から物音がした。


夏帆が振り向く。

階段の下から、一人の人間がゆっくり上がってくる。


挿絵(By みてみん)


血に濡れた口。

充血した目。

先ほど夏帆を追ってきた人物だった。


『さっきの人が来る! はやく! 病室に戻って!』


患者たちが一斉に動いた。


扉が次々と閉まっていく。

夏帆は唯の手を強く握った。


『唯ちゃん、行くよ!』


『う、うん!』


二人は非常用倉庫へ向かって走った。


挿絵(By みてみん)



◇08月03日 17時台/病院・非常用倉庫/唯、夏帆


非常用倉庫へ入り扉を閉める。

鍵をかける。


『唯ちゃん、こっち押して!』


『うん……!』


二人で棚を動かし、入口の前へ押しつけた。

重い棚が床を擦る。


ようやく扉を塞ぐと、夏帆はその場で息を吐いた。

外には、さっき人を襲っていた者がいる。


まだ安全とは言えない。

だが、少なくとも簡単には入ってこられないはずだった。


夏帆は非常用倉庫の中を見回した。


災害時に備えた保存食や、大量のペットボトル入り飲料水が置かれている。

しばらく過ごすには十分な量だった。


『ここなら、しばらくは大丈夫……』


夏帆は棚を探り、一つのバッグを見つけた。

救急用の医療バッグ(トラウマバッグ)だった。


中身を確認する。

痛み止めなどの医薬品が入っている。

夏帆は必要になりそうな物を取り出し、先ほど回収した唯の薬と一緒に唯のバッグへ入れた。


次に探したのは、武器になる物だった。

もし扉を破られたら。


何も持たずに唯を守ることはできない。

だが、倉庫の中を探しても使えそうな物はほとんどなかった。


ようやく見つけたのは、荷ほどきに使うハサミだけだった。

夏帆はそれを手に取る。


小さい。

これで戦えば、自分まで襲われる可能性が高い。


夏帆は塞いだ扉を見る。


さっきの人物が危険なのは分かっている。

海外のニュースで何度も見た感染者と、あまりにもよく似ていた。


こちらへ押し入ってきて自分たちを襲うなら、戦うしかない。

だが、今は鍵がかかっている。

棚でも扉を塞いだ。


自分から外へ出て、危険な相手と戦う理由はない。


夏帆はハサミを手元に置いた。


『……ここで待とう』


夏帆が言った。


唯が見る。


『ここにいるの?』


『そうよ。この中には食べ物も水もあるし、救助が来るかもしれないから』


『それでも誰も来なかったら、その時に逃げる方法を考えましょ?』


唯は静かに頷いた。

そしてスマートフォンを取り出し、画面を確かめる。


健一からの着信も、メッセージもない。

ずっと圏外のままだ。


唯は何も言わずに画面を消した。

それでもスマートフォンはしまわず、手元に置いた。


二人は、塞いだ扉から離れた。





◇08月03日 18時台/病院・非常用倉庫/唯、夏帆


いつの間にか、外の怒号は聞こえなくなっていた。

暴動が収まったのかどうかは分からない。


時折、遠くで悲鳴がする。

そのたびに唯の肩が小さく震えた。


夏帆にも、どうすることもできない。

病院の中には、さっきの人物がいるはずだ。


バン。


扉が叩かれる。


唯の肩が跳ねた。

夏帆も息を止める。


《ここまで来た……》


バン。


また。

棚がわずかに震える。

夏帆は黙ってハサミへ手を伸ばした。


バン。

バン。


扉を叩く音は、しばらく続いていた。


挿絵(By みてみん)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。