籠城(ろうじょう)
◇8月3日 16:00
夏帆は一階に響き渡る悲鳴に足を止めた。
『何……?』
さっきまで救急対応で飛び回っていた病院が、別の場所のようだった。
怒鳴り声。
悲鳴。
何かが倒れる音。
嫌な予感が胸を締め付ける。
夏帆は廊下を駆け、悲鳴のする方向へ向かった。
そして、その光景に息をのんだ。
『……嘘』
人が、人を噛んでいる。
床には血が広がり、患者も職員も入り乱れて逃げ惑っていた。
その中心で倒れていたのは、さっきまで隔離を指示していた医師だった。
感染者が首元へ噛みつき、動かなくなった身体をなおも貪っている。
『先生……』
感染者がゆっくり顔を上げた。
真っ赤に充血した瞳。
夏帆と目が合う。
『っ!』
反射的に走り出した。
後ろから、ゆっくりとした足音が追ってくる。
ヒタ……
ヒタ……
『もう、この病院は……』
助からない。
その言葉を喉の奥で飲み込んだ。
今すぐにでも逃げ出したかった。
しかし、幼い頃から付き合いのある唯は、夏帆にとって妹のような存在だった。
置いて逃げることだけは、どうしてもできない。
夏帆は二階のナースステーションへ駆け込む。
『鎮静剤は……どこ!?』
引き出しを開け、薬品棚を必死に探し回る。
『あった……!』
唯の薬だった。
落ち着いている暇はない。
震える指で薬をつかむ。
薬をバッグへ押し込むと、そのまま唯の病室へ駆け出した。
『唯ちゃん!』
ベッドから立ち上がった唯が驚いたように振り向く。
『夏帆さん?』
『よく聞いて』
夏帆は肩で息をしながら言った。
『病院でFMウイルスと思われる患者が出たわ。一階はもう危険よ』
唯の表情が強張る。
『……え』
『私についてきて』
唯は黙ってうなずいた。
夏帆は唯の手を握り、病室を飛び出す。
廊下では、避難できずに残っていた患者たちが不安そうな顔を向けてきた。
『看護師さん!』
高齢の男性が声をかける。
『ウイルスが出たって本当なんか? わしらはどうしたらええ?』
夏帆は立ち止まる。
答えは分かっていた。
この病院に残れば、いずれ感染する。
『すぐに病室に戻って下さい。救出が来るまで絶対にドアを開けないでください。』
『ウイルス感染者がいるのにここにとどまれ言うんか?!』
そう言うと老人は夏帆に歩み寄る。
『私に近づかないでください。私は感染者の近くにいました』
患者たちは戸惑った。
静まり返る廊下。
自分の近くへ来れば衣服についたウイルスを吸い込む可能性がある。
彼らは特殊赤血球保有者ではない。
誰も動けない。
それでも、一人。
また一人と病室に戻り始めた。
夏帆は唇を噛む。
大災害と異常な感染力のあるウイルスが同時に発生。
これが意味するところは特殊赤血球保有者以外は助かる可能性は極めて低い。
ウイルスが広がった場合、そこへ救助は来ない。
来るのは銃を持った兵隊だけだ。
海外のニュースを見て皆が知っていることだ。
それを夏帆は理解していた。
病棟へ残って感染者に捕食されるか自身が感染者になるか、銃で撃たれるか。
3択しか残されていない。
それを悟った患者たちは、非常階段へ向かって走り出した。
夏帆の制止も聞かず彼らは走り出す。
『待ちなさい!』
非常階段の下は感染者のいる搬送口に続いている。
階段を駆け下りる足音が遠くなる。
すぐに足音は悲鳴に変わった。
『ぎゃー!!』
これ以上は看護師としてやれることは何もなかった。
『行こう、唯ちゃん』
二人は人目を避けるように廊下を進んだ。
◇17:00
二人は病院2階の非常用倉庫へたどり着いた。
重い鉄の扉を閉める。
ガチャン、と鍵を回した。
さらに棚を押して入口を塞ぐ。
『これで……少しは安心かな』
夏帆は大きく息を吐いた。
唯も壁へ寄りかかる。
倉庫の中には災害備蓄用の保存食や飲料水が整然と積まれていた。
段ボールの山。
毛布。
簡易トイレ。
懐中電灯。
そして赤い救急医療バッグを見た。
『トラウマバッグ……』
夏帆は中身を確認する。
包帯。
消毒液。
痛み止め。
応急処置用品。
使えそうな物を次々と唯のバッグへ移した。
さらにナースステーションから持ってきた薬も入れる。
『これで当分は大丈夫』
唯は小さくうなずいた。
『ありがとう』
『まだ安心しちゃだめ』
夏帆は耳を澄ませる。
外では悲鳴が響いていた。
誰かが助けを求めている。
『来ないでぇーーー!いやぁあ!』
『ぐごぼごおぐおお。』
断末魔のような叫び声が聞こえた。
ゴリ……
ゴリ……
骨までかみ砕いているのか、ゴリゴリという音だけがはっきりと響いていた。
◇18:00
病院は静まり返っていた。
あの惨劇が嘘だったかのように。
暴動は収まったように思えた。
病室に残った者は、息をひそめているのだろうか?
感染者はもうどこかに行ったのか?
夏帆が非常用倉庫のドアをゆっくり開けて外の様子を確認しようとした。
静かにドアを開けたつもりだったが、金属製の重いドアは音を立ててしまった。
キィー……
隙間から外の様子を確認しようと覗き込んだ。
感染者と目が合ってしまった。
急いでドアを閉め鍵をかけた。
ドン……
ドン……
二人は息を潜めた。
暴動が治まるまでここで待機、隙を見て逃げるつもりだった。
しかし目論見が外れた。
感染者がドアの前に居座ってしまったのだ。
唯は震えながら夏帆を見た。
『……お兄ちゃん、来てくれるかな』
夏帆は一瞬だけ目を閉じた。
健一は約束した。何があっても迎えに行く、と。
『約束したんでしょう?』
『何があっても迎えに行くって』
『だから、信じましょう』
夏帆は静かに微笑んだ。
唯も小さく笑った。
その笑顔は不安でいっぱいだった。
それでも二人は、信じるしかなかった。
倉庫の灯りを消し、暗闇の中で肩を寄せ合った。
病院の中で、生き残っている者はあと何人いるのだろうか。




