第1話④崩れた日常
◇08月03日 12時台/病院・病室/唯
──健一が山中で巨大地震に見舞われていた頃、病院では。
不動唯は、病室のベッドに座っていた。
窓の外は昨日までの雨が嘘のように晴れている。
突然、ベッドが小さく揺れた。
『……地震?』
窓ガラスがカタカタと鳴る。
最初は、それだけだった。
唯はベッドの上で周囲を見回した。
揺れは止まらない。
むしろ少しずつ強くなっている。
棚の上に置かれていた物が震え始めた。
『長い……』
その瞬間だった。
床が突き上げられた。
『きゃあっ!』
ベッドが激しく跳ねる。
壁が軋み、天井から凄まじい音が響いた。
窓ガラスが砕けた。
破片が病室へ飛び散る。
唯は反射的に布団を頭から被った。
次の瞬間、天井の一部が落ち、蛍光灯が床へ叩きつけられた。
棚が倒れる。
椅子が転がる。
病室全体が壊されているようだった。
『怖い……!』
唯はベッドの柵へしがみついた。
逃げようにも立てない。
揺れが強すぎる。
身体が左右へ振られ、ベッドそのものまで床の上をずれていく。
どこか遠くで悲鳴が聞こえた。
何かが割れる音。
倒れる音。
人が叫ぶ声。
それらすべてが激しい地鳴りに飲み込まれていた。
やがて、あれほど激しかった揺れが少しずつ弱くなっていった。
唯はすぐには布団から顔を出せなかった。
心臓が激しく脈打っている。
まだ身体が揺れているような感覚が残っている。
恐る恐る顔を上げる。
病室は変わり果てていた。
割れたガラス。
倒れた家具。
床へ落ちた蛍光灯。
『……夏帆さん』
その時、廊下を走る足音が近づいた。
扉が勢いよく開く。
『唯ちゃん大丈夫!?』
夏帆だった。
息を切らしながら病室へ飛び込み、真っ先に唯のところへ来る。
『へ……平気だよ……』
『怪我は?』
夏帆が唯の身体を素早く確認する。
幸い、目立った傷はない。
夏帆自身にも怪我はなかった。
『よかった……』
安堵したのも束の間、廊下から誰かを呼ぶ声が響いた。
夏帆は振り返る。
『避難することになったら患者衣じゃ動きにくいから着替えておいた方がいいかも』
夏帆は廊下へ目を向ける。
『それじゃまた後でね!』
『え?避難するって病院から――』
唯が聞き返すより早く、夏帆は病室を飛び出していった。
扉の向こうでは、看護師や医師が慌ただしく走り回っている。
ただ、不安だけが残る。
唯は言われた通り、ゆっくりと服を着替え始めた。
その間にも、外からサイレンが聞こえてくる。
一台ではない。
何台もの救急車の音が、次々と病院へ近づいていた。
◇08月03日 13時台/病院内/夏帆
病院内は、すでに混乱の中にあった。
次々と負傷者が運び込まれる。
血を流す者。
腕を押さえて呻く者。
意識のない者。
家族の名前を叫び続ける者。
『こっちお願いします!』
『担架通ります!』
『先生! この人、呼吸が――!』
声が飛び交う。
夏帆もその中を走っていた。
負傷者の右手首には、赤、黄、緑のテープが巻かれていく。
赤は、直ちに処置が必要な患者。
黄は、治療を待てる患者。
緑は、軽傷。
限られた人員と設備で、より多くの命を救うための選別だった。
夏帆は床に横たわる一人の患者のそばへ膝をついた。
『聞こえますか?』
返事はない。
首元へ指を当てる。
脈を探す。
もう一度。
場所を変えて確かめる。
それでも、何も感じない。
夏帆の指が止まった。
患者の目は開いたままだった。
夏帆は黒いテープを手に取った。
指先がわずかに震える。
黒。
助けることができないと判断された者。
夏帆はその手首へテープを巻いた。
患者の開いた目を見つめる。
恐怖を残したまま固まっていた。
そっと瞼を閉じる。
『ごめんなさい』
それ以上、そこにいることはできなかった。
すぐ近くから声が飛ぶ。
『看護師さん! こっち!』
夏帆は立ち上がった。
考えている時間はない。
助けられる人が、まだ大勢いる。
胸の奥に重いものを抱えたまま、次の患者へ走った。
◇08月03日 11時台/日本海/避難船の人々、海上保安官
――地震の起こる少し前。日本海――
日本海を、五隻の船が日本へ向かって進んでいた。
感染が拡大している大陸側から来た船だった。
海上保安庁の巡視船が進路を塞ぐ。
拡声器から警告が響いた。
『停船してください! 直ちに停船してください!』
船団のうち数隻が速度を落とす。
しかし、一隻だけがそのまま進み続けた。
再び警告が飛ぶ。
『停船命令です! 直ちに停船してください!』
それでも止まらない。
日本へ向かって進んでくる。
海上保安庁の巡視船から威嚇が行われた。
それでも船は進路を変えなかった。
そして――銃声が海上へ響いた。
激しい機銃射撃。
船体へ次々と弾丸が撃ち込まれる。
甲板の一部が砕けた。
やがて火の手が上がる。
黒煙が噴き出し、船は大きく傾いた。
船体が裂ける。
燃えながら海面へ沈んでいった。
残された船へ、再び警告が行われる。
日本へ入ることは許されない。
引き返せ。
従わなければ攻撃する。
船は海上で止まった。
◇08月03日 12時台/日本海/避難船の人々、海上保安官
その時だった。
船体が大きく軋んだ。
海上保安庁の巡視船でも警報が鳴り、無線が慌ただしく飛び交い始める。
日本列島沿岸で巨大地震が発生していた。
巡視船は停船させていた船への対応を中断する。
『津波のおそれあり! 沿岸から離れろ! 沖へ退避しろ!』
巡視船自身も安全な海域を目指して進路を変える。
周辺の船舶にも繰り返し退避を呼びかけた。
だが、すべての船がその指示に従える状態ではなかった。
長期間の航海で燃料を失っている船。
機関に異常を抱えた船。
船をまともに操れる者すら残っていない船。
沿岸へ近づいていた何隻かは、沖へ逃げ切ることができなかった。
やがて海の流れが異常なほど速くなる。
船体が横へ流され、隣の船へぶつかった。
一隻が回転する。
別の船がその横腹へ衝突する。
そして津波が沿岸部へ押し寄せた。
港に残されていた船や、退避できなかった船舶が濁流に巻き込まれる。
船同士が衝突し、岸壁へ叩きつけられ、さらに陸側へ押し流されていった。
家々が砕かれる。
車が流される。
船が建物へ突っ込む。
日本近海の警戒網は、巨大地震と津波への緊急対応によって一気に寸断された。
津波の第一波が去ったあと、各地の巡視船から海上保安庁の本部へ緊急報告が相次いだ。
『こちら巡視船。複数の避難船が津波によって陸地まで押し流された。感染者が乗船している可能性あり。繰り返す。感染者が乗船している可能性あり!』
同様の報告は日本各地から寄せられ、政府へ直ちに伝えられた。
政府は感染拡大を防ぐため、自衛隊に緊急出動を命じた。
防護服を着用した自衛隊員が現場へ急行し、海上保安官とともに周辺の封鎖や船内の確認に当たった。
しかし、避難船が押し流された場所は広範囲に及んでいた。
さらに、巨大地震と津波によって道路も寸断され、自衛隊がすべての現場に対応することは不可能だった。
やがて、感染者の国内侵入を警戒する情報がテレビやラジオを通じて全国へ広がり始めた。
巨大地震と津波によって混乱する日本が、さらなる大パニックに陥るまで、そう時間はかからなかった。
◇08月03日 14時台/海岸近くの山間部/密入国者の八人
海岸から少し内陸へ入った山間部。
泥と瓦礫に覆われた斜面に、一隻の船が乗り上げていた。
船体は大きく損傷している。
その中から、八人の男女が姿を現した。
全員、ひどく咳き込んでいた。
目は赤く充血している。
足取りもおぼつかない。
近くの道路では、一人の男が負傷した老人を車へ乗せようとしていた。
『爺ちゃん、もう少しだからな。病院行くぞ』
八人のうち一人が、その車に気づいた。
何かを叫ぶ。
『****! ******!』
男が振り返った。
『……何だ?』
八人が近づいてくる。
見知らぬ言葉を口にし、目は異様に赤く、呼吸も荒い。男は警戒しながら老人を支えた。
『悪いけど、今それどころじゃ――』
突然、腕を掴まれた。
『おい! 何すんだ!』
男が振り払おうとする。
別の者が加わった。
老人も車から引きずり出される。
『やめろ! 爺ちゃんに触るな!』
男が抵抗した。
その瞬間、殴られた。
一人ではない。
何人もの手が伸びる。
男は地面へ倒された。
八人は二人を車から遠ざけると、そのまま乗り込んだ。
エンジンがかかる。
車はふらつきながら道路へ飛び出し、その場から走り去った。
◇08月03日 15時台/街へ向かう道路/密入国者の八人
八人を乗せた車は、蛇行しながら道路を走っていた。
運転している男の目は赤く、何度も頭が前へ落ちる。
意識が途切れかけていた。
車は何度も車線を越えては戻り、ふらつくように走り続けた。
そして、健一たちの街にある病院の近くで――。
車は制御を失った。
激しい衝突音が響いた。
八人のうち二人は重傷。
通報を受けた救急隊が現場へ到着した。
地震の発生以降、各地から救急要請が殺到している。
救急隊員たちは負傷者の状態を確認し、搬送の準備を急いだ。
八人がウイルスに感染しているとは、誰も気づかなかった。
目の充血や意識の異常も、事故による負傷や混乱の中に紛れていた。
救急隊は重傷者二人を救急車へ収容した。
残る六人も別の緊急車両へ乗せられる。
八人を乗せた車両は、そのまま病院へ向かった。




