第1話③巨大地震
◇08月03日 09時台/山小屋/健一、権蔵
前日までの大雨が嘘のように、空は晴れていた。
健一のジムニーは、濡れた山道をゆっくりと進んでいく。
路肩にはまだ水が溜まり、木々の葉からは時折、大きな雫が落ちていた。
舗装路を外れてからは特に慎重に速度を落とす。
やがて木々の間に権蔵の山小屋が見えてきた。
車を停めると、権蔵が小屋から姿を現した。
『来たか』
『おはようございます』
健一は車を降り、権蔵の隣で地図を広げる。
『防空壕はこの辺じゃ』
太い指が、山中の一点を示す。
健一は身を乗り出した。
『ここですか』
『そうじゃ。ただ、車で直接は行けん。ここに山道の入口があるから、車を置いて歩くことになる』
権蔵は地図に印を付ける。
続けて、別の場所にも印を書き込んだ。
『こっちが前に話しとった神社じゃ。山小屋からもそう遠くない』
健一は防空壕と神社の位置を見比べた。
防空壕は避難先として使えるかもしれない。
神社は山の中で現在地を確認する目印にもなる。
どちらも場所を覚えておいて損はなかった。
『まず、防空壕を見てきます』
『そうしろ。ただし、長居はするなよ。昨日あれだけ降っとる。橋の水がまた増えたら戻れんようになる』
『分かりました』
地図を受け取り、健一は山小屋を出た。
防空壕の場所を確認するだけなら一人で十分だったため、権蔵は同行しなかった。
◇08月03日 11時台/防空壕/健一
地図を頼りに進むと、やがて山道の入口へ着いた。
そこから先は車では入れない。
健一は道路脇へジムニーを停め、必要な物だけを持って歩き始めた。
山道は狭かった。
左右から草木が迫っているが、完全に荒れ果てているわけではない。
誰かが通ったような跡も残っていた。
『地元の猟師でも使ってるのかな』
独り言を呟きながら進む。
大雨の後だけあって、土は水を含んで柔らかかった。
靴底が沈み、湿った土の匂いが強く鼻に入る。
枝を避けながらさらに奥へ進む。
しばらくすると、斜面の一部に人工物が見えた。
『……あれか』
近づいてみると、山肌に埋め込まれるように古びた金属製の扉があった。
表面は赤茶色に錆び、ところどころ塗装も剥がれている。
その近くには看板が立っていた。
『立ち入り禁止』
健一は周囲に管理している人間がいないことを確かめ、扉の隙間から中を覗き込んだ。
中は暗く、スマートフォンのライトを点けて照らすと、思っていたより広い空間が見えた。
長期間使われていないことは一目で分かるが、完全に崩壊しているわけでもない。
『これなら……』
避難場所として使える可能性はある。
少なくともテントだけで山中にいるよりは、雨風をしのげる。
健一は防空壕の周囲も歩いて確認した。
少し離れたところから、水の流れる音が聞こえる。
音を頼りに進むと、小さな沢があった。
水量もある。
健一はしゃがみ込み、その流れを眺めた。
飲用するなら処理は必要だろう。
それでも、水源が近くにあるというだけで大きい。
防空壕へ戻った健一は、錆びた扉の前で改めて周囲を見回した。
人里から離れていて水源もある。街で生活できなくなるほどの事態になれば、避難先の候補にはなる。
『万が一の時はここに避難しよう。万が一が来なければ良いのだが……』
その時だった。
足の裏に、かすかな振動を感じた。
『ん?』
木の葉が揺れる。
防空壕の古い扉が、カタカタと小さな音を立て始めた。
◇08月03日 12時台/防空壕/健一
地震。
健一はその場で姿勢を低くした。
揺れはそれほど強くない。
だが、止まらなかった。
十秒。
十五秒。
二十秒ほど経った頃――。
突然、地面の奥から低い音が響いた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ――。
『なっ……』
次の瞬間、山全体が跳ねたように揺れた。
立っていられない。
健一は地面へ手をつく。
木々が激しくしなり、枝同士がぶつかり合う。
斜面から土と石が崩れ落ち、山中に轟音が響いた。
さらに別の場所からも、何かが砕ける音がする。
地面そのものが波打っているようだった。
『うわっ!』
健一は這うようにして、崩れてくる斜面から離れた。
頭上から枝が落ちる。
すぐ近くへ石が転がってくる。
防空壕の扉が激しく震え、金属音が山中へ響いた。
どれほど続いたのか分からなかった。
時間の感覚すらなくなる。
ただ、揺れが弱まり始めた時には、周囲の景色が変わっていた。
健一は荒い息を吐きながら立ち上がった。
『……なんだ、今の……』
遠くから、まだ岩の崩れる音が聞こえる。
耳を澄ます必要もなかった。
山のあちこちが崩れている。
健一はすぐに来た道へ向かった。
山道は途中で消えていた。
正確には、斜面ごと崩れていた。
健一は崩落地点の手前で立ち止まる。
大量の土砂と倒木が谷側へ落ち、今まで歩いてきた道が完全に寸断されている。
『嘘だろ……』
ジムニーは、この先だ。
迂回できないか周囲を探す。
だが斜面は急で、土も緩んでいる。
無理に進めば、自分まで滑り落ちる。
その時、小さな揺れが来た。
健一は反射的に近くの木へ手をつく。
直後、崩落地点の向こうで石が転がり落ちていった。
『……ここは駄目だ』
引き返す。
同じ道では戻れない。
地形を確認しながら、反対側の山道へ抜けるしかなかった。
地図を開く。
山を登り、尾根側を回って別の道へ出れば、ジムニーのところへ戻れる可能性がある。
簡単な距離ではない。
それでも、他に選択肢はなかった。
健一は地図を畳み、山を登り始めた。
◇08月03日 21時台/山中/健一
完全に日が落ちた山中を、健一は重い足を引きずるように歩いていた。
何度も余震があり、そのたびに立ち止まって周囲を確認した。
岩が崩れ、倒木が道を塞ぎ、予定していた場所を通れず引き返したことも一度ではない。
スマートフォンのライトの光が、ようやく見覚えのある道路を照らした。
その先に、ジムニーが見えた。
『……あった』
力が抜けそうになる。
防空壕を出てから、九時間近く経っていた。
健一は車へ辿り着き、運転席のドアを開けた。
座席へ身体を沈める。
全身が痛かった。
しばらく動けない。
それでも、ここで止まっているわけにはいかない。
エンジンをかける。
ヘッドライトが暗い山道を照らした。
だが少し進んだところで、健一はブレーキを踏んだ。
道路上に石が散乱している。
その先にも崩れた土砂が見えた。
夜では、どこまで道が壊れているのか判断できない。
さらに余震が来れば、走行中に落石を受ける危険もある。
健一はハンドルを握ったまま迷った。
《今動く方が危ない》
健一は唇を噛んだ。
唯のことが頭に浮かぶ。病院がどうなっているのか、地震の被害はどれほどなのかも分からない。
スマートフォンを確認しても、まともにつながらなかった。
『……くそ』
健一はエンジンを切った。
今夜は車内で休むしかない。
シートを倒し、身体を横にする。
目を閉じても、眠気はなかなか来なかった。
暗い山の中で、ときおり地面が小さく揺れた。
そのたびに健一は目を開けた。




