命の選別を。
◇8月3日 21:00
暗い山道を、健一は一歩ずつ進んでいた。
懐中電灯はない。
沈みかけた月だけが、木々の隙間から淡い光を落とし、濡れた岩肌をぼんやりと照らしている。
この状況で山を歩けば、遭難する危険は高い。
そんなことは健一も分かっていた。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
余震が襲うたび、彼は足を止める。
ゴゴ……
低い地鳴り。
頭上から小石が転がり落ちてくる。
『まだ続くのか……』
九時間。
それだけの時間をかけて、健一はようやくジムニーを停めた場所へたどり着いた。
ボンネットには枝が落ち、車体は泥だらけだったが、大きな損傷はない。
健一は運転席へ腰を下ろした。
シートへ身体を預けた瞬間、全身の力が抜ける。
ようやく帰れる。
そう思った。
だが、ヘッドライトに照らされた道路には、大量の落石が散乱していた。
昼間なら避けられる。
しかし、この暗闇で走れば、崩れた道路へ突っ込む危険もある。
健一はエンジンを止めた。
『……朝まで待とう』
目を閉じる。
しかし眠ることはできなかった。
余震が来るたび車体が揺れ、そのたびに唯の顔が頭へ浮かんできた。
――大丈夫だろうか。
その問いだけが何度も胸の中を巡り続けた。
◇地震発生時の病院。
市立病院。
唯は病室のベッドで本を読んでいた。
最初に感じたのは、小さな揺れだった。
コト……
コト……
『地震?』
ベッドがかすかに揺れる。
病室のカーテンが小さく揺れた。
その揺れは徐々に強くなっていく。
ガタガタガタ……
『あれ……?』
次の瞬間だった。
ドォォォォォン!!
『きゃあっ!!』
世界がひっくり返った。
病室全体が激しく上下し、窓ガラスが一斉に砕け散る。
ガシャァァァン!!
無数の破片が床へ飛び散った。
天井の照明が激しく揺れ、蛍光灯が落下する。
家具が滑り、本棚が倒れ、点滴スタンドが床へ転がった。
ベッドごと身体が跳ね上がる。
唯は必死に柵へしがみついた。
『いやっ……!』
耳を塞ぎたくなるほどの轟音。
病院中から悲鳴が響く。
揺れが終わるまで、永遠のような時間だった。
やがて少しずつ静けさが戻る。
唯は震える身体を起こした。
病室の扉が勢いよく開く。
『唯ちゃん!!』
夏帆だった。
息を切らしながら駆け寄る。
『大丈夫!?』
『へ……平気……』
夏帆は全身を素早く確認した。
幸い、大きな怪我はない。
『良かった……』
夏帆は胸をなで下ろした。
しかし廊下では医師や看護師が走り回っている。
次々に救急搬送の連絡が入り始めていた。
『唯ちゃん』
夏帆は真剣な表情になる。
『もしもの時に備えて、着替えておいた方がいいかもしれない』
『もしもの時?』
『あとで説明するから』
それだけ言うと、再び病室を飛び出していった。
唯は一人残される。
もしもの時。
その言葉だけが心に引っかかった。
遠くから救急車のサイレンが何台も聞こえてくる。
窓の外では、救急車が次々と病院へ入って来ていた。
◇13:00
病院は戦場になっていた。
ストレッチャーが次々と運び込まれる。
『こちら重症です!』
『酸素を!』
『手術室を空けて!』
怒号が飛び交う。
夏帆は汗だくになりながら患者の前を走り回っていた。
一人一人の右手首へ色付きのテープを巻いていく。
赤。
黄色。
緑。
命の優先順位。
助けられる命から助けるためのトリアージだった。
『このテープは何なんだ!!』
中年の男性が怒鳴っている。
『大丈夫です! 落ち着いてください!』
『早く治療しろ!!』
別の女性が泣き叫ぶ。
『主人が苦しんでるのよ!!』
夏帆は返事をする暇もなかった。
目の前にはさらに重傷者が運ばれてくる。
彼女は脈を測る。
呼吸。
瞳孔。
反応。
そして静かに黒いテープを取り出した。
右手首へ巻く。
『……ごめんなさい』
恐怖で見開かれたままの瞳へ、そっと手を添える。
まぶたを閉じた。
その患者は、もう息をしていなかった。
立ち止まる時間はない。
次の患者が運ばれてくる。
夏帆は走った。
泣いている暇もなかった。
◇13:00頃 日本海沿岸
巨大な津波によって押し流された一隻の船が、山間部の丘へ乗り上げていた。
船体は大きく壊れている。
ギィ……
船室の扉がゆっくり開いた。
中から男女八人が姿を現す。
全員の目は真っ赤に充血し、絶え間なく咳をしていた。
『ゴホッ……ゴホッ……』
顔色は異様に青白い。
何日も高熱に苦しんでいる者のようだった。
男が叫ぶ。
『※Ж△$%#@……◇&!?』
それは日本語ではなかった。
しばらく歩いた先。
道路脇では、一人の青年が血を流した祖父を車へ乗せようとしていた。
『じいちゃん、もう少しだから!』
そこへ八人組が近づく。
車を指差しながら何か叫んだ。
『#%Ж△@! ※◇$&@%――ッ!!』
青年は意味が分からず首を振る。
『何を言って――』
その瞬間だった。
男に殴り飛ばされた。
『ぐっ!?』
祖父も車から引きずり下ろされる。
八人は二人を地面へ放り投げると、そのまま車へ乗り込んだ。
エンジンがかかる。
車は勢いよく走り去った。
青年は血を流しながら、その姿を呆然と見送ることしかできなかった。
◇午後三時。
奪われた車は道路を蛇行し始めていた。
運転席の男は激しく咳き込み、視界も定まっていない。
助手席の女は熱に浮かされたようにうめき続ける。
『ゴホッ……』
『アァ……』
ハンドル操作が遅れる。
車は大きく対向車線へはみ出した。
慌ててハンドルを切る。
だが、もう制御は利かない。
車は歩道へ乗り上げ、そのまま電柱へ――
ドォォォン!!
激しい衝突音が周囲に響いた。
車の前方は無残に潰れ、フロントガラスは粉々に砕け散っていた。
重傷者二名。軽傷者六名。
事故現場は、唯が入院する市立病院の近くだった。
それを目撃した住民が病院へ駆け込み、救助を求めた。
救急隊員たちは一刻を争うように現場へ急行し、負傷者を収容して病院へ搬送した。
誰も知らなかった。
彼らがFMウイルスの保有者であったことを。




