第1話②雨の中の約束
◇08月02日 09時台/健一の自宅/健一
朝から、雨は激しく降り続いていた。
健一は自宅の窓から外を見た。
道路には絶え間なく雨粒が叩きつけられ、側溝を流れる水の量も増えている。
スマートフォンを手に取り、登録された名前から佐藤権蔵を選ぶ。
権蔵もまた特殊な血液の保有者だった。
数回の呼び出し音のあと、低い声が聞こえた。
『もしもし』
『権蔵さん、健一です』
『おう、どうした?』
『前に話してた防空壕のことなんですけど、場所を教えてもらえませんか?』
電話の向こうで、わずかに間があった。
『戦争の時に使われとったやつか』
『はい。それと、前に言ってた山の神社も。一応、場所だけ確認しておこうと思って』
海外では感染者が増え続けていた。
もし日本でも感染が広がり、街での生活が危険になれば、人の少ない山へ避難することも考えなければならない。
そのため、健一は以前から権蔵に聞いていた防空壕の場所と、山の中で目印になる神社の位置を、今のうちに確認しておきたかった。
『分かった。ただ、あそこは道も載っとらん。電話で説明するより、地図を見ながら話した方が早いの』
『じゃあ、そっちに行きます』
『今日は街の家にはおらんぞ』
『え?』
『市の環境課から害獣駆除の依頼が来とってな。今は山の小屋じゃ』
権蔵が猟のために使っている山小屋だ。
『じゃあ、山小屋まで行きます』
『構わんが、この雨じゃ。無理はするなよ』
『はい』
『土地が安かったから、山ごと買えたような場所じゃ。安かったのには理由があってな。入口の橋が、大雨になるとすぐ水に浸かる』
健一は窓の外へ目を向けたが、雨脚は弱まる気配すらなかった。
『そんなにですか?』
『川の水が増えとるようなら引き返せ。渡れたとしても、帰りに渡れんようになったら面倒じゃからな』
『分かりました』
『それと、かなり遠回りにはなるが、新しくできたキャンプ場の方から回ってくる道もある。橋が駄目なら、そっちを使う手もあるぞ』
電話を切った健一は、しばらくスマートフォンを見つめたあと、今日は山へ向かうのをやめた。
この雨の中で無理をする必要はない。
明日、天候が回復してから行けばいい。
今日は、その前に行く場所があった。
◇08月02日 10時台/病院・病室/健一、唯、夏帆
雨の中を走ってきたジムニーを駐車場へ停め、健一は病院へ入った。
妹の唯が入院している病院だった。
病室の扉を開けると、ベッドにいた唯がすぐに顔を上げた。
『お兄ちゃん』
その声が少し明るくなる。
『よう』
健一は片手を上げ、持っていた袋を見せた。
ベッドのそばには夏帆もいた。
健一とは同級生で、幼い頃からの付き合いだ。
家も近く、子供の頃は健一と夏帆、そして少し年下の唯まで一緒になって遊んでいた。
大人になってからも関係は続いている。
そして偶然にも、今は夏帆が唯の担当看護師だった。
『今日は何持ってきたの?』
夏帆が袋を見る。
『唯への差し入れ』
健一が中から箱を取り出すと、唯の顔がぱっと明るくなった。
『あ、カロリーメイト』
メイプル味だった。
『昔から好きだよな、それ』
『うん。メイプル味が一番好き』
唯は嬉しそうに箱を受け取った。
それだけのことで笑顔になる妹を見て、健一も少し表情を緩める。
『母さんは?』
唯が聞いた。
『仕事でしばらく帰れないってさ』
『そっか……』
返事はいつも通りだったが、その顔にほんの少し寂しさが浮かんだ。
健一が何か言おうとしたところで、夏帆が口を開く。
『うちのお母さんも今いないのよ』
『仕事か?』
『旅行』
健一は思わず夏帆を見た。
『旅行? こんな時期に?』
『そうなのよ。海外じゃ感染者が増え続けてるし、日本だっていつどうなるか分からないのに。私も今行く必要ある?って聞いたんだけど』
『それでも行ったのか?』
『うん。どうしても今じゃないと駄目なんだって。何しに行くのか聞いても、ちゃんと教えてくれなかったし』
健一は眉を寄せた。
『……なんか変だな』
『でしょ? まあ、お母さんがそう言うなら何か理由があるんだろうけど』
夏帆は肩をすくめた。
『じゃあ、夏帆も今は一人か』
『まあね。でも子供じゃないんだから平気よ』
『そりゃそうだけど』
健一は苦笑し、ベッドの唯へ目を戻した。
少し考えてから口を開いた。
『唯』
『なに?』
『もし、本当に日本でも感染が広がるようなことがあったら……街を離れるかもしれない』
唯が目を瞬いた。
『街を?』
『山の方にな。避難できそうな場所を探してる』
唯は自分の身体へ目を落とした。
『でも私……』
声が小さくなる。
『身体弱いし。一緒に逃げても、足手まといになるんじゃないかな』
『ならない』
健一は即座に答えた。
唯が顔を上げる。
『でも――』
『何があっても迎えに行く。約束する』
迷いのない声だった。
唯は兄の顔をじっと見つめた。
『いっぱい感染者がいるかもしれないよ? 連絡も付かないかもしれないよ? それでも来てくれるの?』
『もちろんだ』
唯の表情が少しだけ緩んだ。
その横で聞いていた夏帆が、ふっと笑う。
『健一はいつもそうよね。変な所で強情なんだから。ふふっ』
『なんだよ、それ』
『そのままの意味』
唯も小さく笑った。
健一は不満そうな顔をしたものの、それ以上は何も言わなかった。
病室の外では雨音が続いている。
しばらく三人で話したあと、健一が帰ろうと立ち上がると、夏帆も一緒に病室を出た。
扉を閉めた直後、夏帆の表情が変わった。
『健一』
声も、さっきまでとは違っていた。
健一は足を止める。
『どうした?』
夏帆は病室の扉を一度振り返った。
唯に聞こえないことを確かめるようにしてから、声を落とした。
『もし本当に唯ちゃんを連れて逃げることになったら……薬はどうするつもり?』
健一は答えに詰まった。
『……まだ、そこまでは準備できてない』
『やっぱり』
夏帆は短く息を吐いた。
『病院は表向きには平静を装ってるけど、薬がかなり足りなくなってきてるの』
『唯の薬も?』
『院長が必死で確保しようとしてる。でも、このまま状況が悪くなればどうなるか分からない』
健一の顔から先ほどまでの穏やかさが消えた。
『それと、もう一つある』
夏帆がさらに声を潜める。
『これは誰にも言わないで』
『何だ?』
『院長と副院長が話してるのを偶然聞いたの。病院はもう、特殊赤血球保有者の名簿を政府に提出してる』
健一は目を細めた。
『本人の同意なしで?』
『うん』
『唯も入ってるのか』
『入ってる。私も。健一も』
雨の音だけが、廊下の窓を叩いていた。
『政府は何するつもりなんだ?』
『分からない』
夏帆は首を振る。
『さすがに実験動物みたいな扱いをするとは思わないけど……もし本当に感染が広がったら、保護って名目で特殊赤血球保有者をどこかに集めるくらいはあるかもしれない』
健一は黙り込んだ。
ニュースで聞いた政府の情報収集が、急に自分たちのすぐそばまで近づいてきた気がした。
『唯ちゃんの薬は、私もできるだけ確保してみる』
夏帆が言った。
『でも期待はしないで。今後どうなるか、本当に分からないから』
『……助かる』
健一は深く息を吐いた。
『夏帆、ありがとう』
『何言ってるのよ』
夏帆は少しだけ笑った。
『唯ちゃんとは小さい頃からずっと一緒だったでしょ。私にとっても妹みたいなものなんだから』
『それでもだよ。何回礼を言っても足りない』
夏帆は何も返さず、病室の扉へ視線を向けた。
◇08月02日 11時台/スーパー/健一
病院を出た健一は、その足で近くのスーパーへ向かった。
店内へ入った瞬間、健一は想像以上の光景に足を止めた。
水や缶詰、米、レトルト食品など、普段なら商品で埋まっているはずの棚は、どれもほとんど空になっていた。
残っている商品へ客が殺到し、手を伸ばし合っていた。
『おひとり様1商品までです!』
店員の叫び声が飛ぶ。
それでも客たちは落ち着かず、籠を抱えて棚から棚へ急ぎ、険しい顔で店員に詰め寄る者までいた。
健一も残っていた水と食料を探したが、買えたのはほんのわずかだった。
会計を終え、軽すぎる袋を手に店を出ても、雨はまだ降り続いていた。
帰路を急ぐ人々は、誰もがどこか余裕のない顔をしていた。
健一はジムニーへ戻り、助手席に小さな袋を置いた。
《本当に、大丈夫なのか……》
エンジンをかける。
フロントガラスを叩く雨を、ワイパーが何度も払い続けていた。




