防衛線の崩壊。
◇8月3日 09:00
昨日まで空を覆っていた厚い雲は消え、山々の向こうには青空が広がっていた。雨上がりの澄んだ空気が木々の香りを運び、朝日に照らされた葉からは雫がゆっくりと落ちていく。
健一はジムニーを山道へ走らせていた。
舗装された道はやがて細くなり、両脇を深い森に囲まれる。鳥の鳴き声だけが静かな山に響いていた。
やがて木々の隙間から、小さな山小屋が姿を現した。
薪ストーブの煙突のある木造の建物。到着すると権蔵がドアを開け中から出て来た。
『よう来たな』
『おはようございます』
健一は軽く頭を下げた。
さっそく地図を広げ権蔵に見せる。
持っている地図へ権蔵は指さした。
『ここがお前さんの言っとった防空壕じゃ』
赤いペンで山中の一点を丸く囲む。
『戦争中に造られたもんじゃ。今は立ち入り禁止になっとるが、中はそこそこ広い』
さらに別の場所を指差した。
『こっちは昔、猟師が使っとった湧き水じゃ。昔はそのままでも飲めたが今は分からん。』
健一は位置を忘れないよう丁寧に書き写していく。
頭の中では、もしもの時の避難経路を何度も思い描いていた。
『ありがとうござ――』
『帰る時は早めに帰れ』
権蔵が言葉を遮った。
『昨日も言ったが、橋は冠水しやすい。雨は止んでも山の水はすぐには引かん』
『分かっています』
『無理だけはするな』
健一は地図をたたみ、大切そうにバッグへしまった。
『それじゃ、防空壕も見てきます』
『気をつけて行け』
権蔵は軽く手を上げ、再び害獣駆除の準備へ戻っていった。
◇11:00
ジムニーを防空壕へ続く山道入口へ停めた健一は、一人で歩き始めた。
想像していたような獣道ではない。
人一人が十分に歩ける幅があり、雑草も踏み固められている。
『猟師さんたちが今でも使ってるのかな』
誰に聞かせるでもなくつぶやきながら歩く。
湿った土を踏みしめる音だけが静かな森へ吸い込まれていった。
蝉の鳴き声が夏を感じさせる。
木漏れ日が足元をまだらに照らしていた。
しばらく歩くと、木々の奥に人工物が見えてきた。
錆びついた金属製の扉。
その前には古びた立て看板が立っている。
『立ち入り禁止』
文字は色あせていたが、まだ読むことはできた。
健一は扉の隙間から中を覗き込む。
ひんやりとした空気が流れ出てきた。
暗くて奥までは見えないが、思っていたより広い。
『これだけ広ければ……』
避難場所として十分使えるかもしれない。
そう思いながら周囲も確認する。
少し離れた場所から、水の流れる音が聞こえた。
沢だ。これをたどって行けば湧き水もある。
歩いて数分の距離なら、水の確保にも困らない。
森に囲まれ、人目にもつきにくい。
『万が一の時はここに避難しよう』
健一は静かにつぶやいた。
『万が一が来なければ良いのだが……』
その瞬間だった。
ガタガタガタ……
足元が小さく揺れ始めた。
木の枝がかすかに震え、小石が斜面を転がる。
『地震か?』
二十秒ほど、小さな揺れが続く。
健一は辺りを見回しながら身構えた。
次の瞬間。
ゴォォォォォォォン――――ッ!!
腹の底へ響くような地鳴りが山全体を震わせた。
『っ!?』
世界が突然、暴れ始める。
地面が波打つように上下し、立っていることすらできない。
健一は思わず地面へ手をついた。
木々が大きくしなり、岩肌から無数の石が転がり落ちてくる。
『うわっ!』
ドガァン!!
巨岩が目の前へ落下し、土煙が舞い上がる。
遠くでは山肌が崩れ、轟音を立てながら土砂が谷へ流れ落ちていく。
まるで山そのものが悲鳴を上げているようだった。
健一は必死に木へしがみつく。
揺れは終わらない。
何十秒続いたのか分からなかった。
ようやく大地が静かになった頃には、呼吸は乱れ、全身が汗で濡れていた。
『……なんて地震だ』
これほどの揺れは人生で経験したことがない。
嫌な予感が胸を締め付ける。
病院にいる唯。
街にいる人々。
『急いで戻らないと』
健一は立ち上がり、来た道を走り始めた。
しかし、数分も進まないうちに足が止まる。
山道が消えていた。
巨大な土砂崩れだった。
大量の岩と倒木が谷を埋め尽くし、道そのものを飲み込んでいる。
『そんな……』
乗ってきたジムニーのある方向へは進めない。
余震が再び襲う。
ゴゴゴ……
木々が揺れ、また石が落ちてくる。
『ここは危険だ』
健一は唇を噛んだ。
戻れないなら、反対側から山を越えるしかない。
大きく遠回りになる。
それでも生きて帰るためには、その道しか残されていなかった。
健一は深く息を吸うと、誰も通らない山道へ足を踏み入れた。
◇地震が起こる少し前。
日本海沿岸には大陸から数百隻の船が日本に入ろうとしていた。
巡視船に発見されるたび、船は日本から離れていった。
強引に領海へ侵入すれば、撃沈される。
そんな中、日本を目指し続ける五隻の船団があった。
船内には大勢の避難民。
そして、その中にはFMウイルスへ感染した者たちも紛れ込んでいた。
『停船せよ!』
海上保安庁の巡視船から警告が響く。
一隻の船だけが命令を無視し、速度を上げた。
『繰り返す。停船せよ』
応答はない。
巡視船の機関砲がゆっくりと向きを変えた。
『繰り返す。停船せよ』
それでも船は命令を無視し、速度を上げた。
『発砲』
バラララララララッ!!
凄まじい轟音。
弾丸が船体を引き裂く。
避難船は中央から折れ、炎を上げながら海へ沈んでいった。
残る船に巡視船が近づき、引き返すよう警告する。
その時だった。
ゴォォォォォォォォン――――!!
海までもが揺れ始めた。
乗組員たちが立っていられないほどの巨大地震。
水平線の彼方で海面が大きく持ち上がる。
誰かが叫んだ。
『津波だ!!』
黒い壁のような巨大な波が、船団へ襲いかかった。
船は木の葉のように持ち上げられ、互いに激しく衝突する。
巡視船も操船不能となり、警戒網は崩壊していく。
巨大な濁流は、止められることなく日本列島へ押し寄せていく。
その波に乗ってFMウイルスもまた、日本へ上陸しようとしていた。




