第1話①海の向こうの終末
◇07月前半/健一の自宅/健一
不動健一は、パソコンの画面を無言で見つめていた。
海外からは、ウイルスに感染した人間が人々に襲いかかる映像が連日のように発信され、ネット上で拡散していた。
検索結果を下へ送るたび、感染者の急増や病院の混乱、都市から逃げようとする人々、空になったスーパーの商品棚など、世界各地の惨状を伝える記事が途切れることなく並んでいく。
動画を開けば、道路を埋め尽くす車列の向こうで黒煙が上がっていた。
別の映像では、大勢の人間が店へ押しかけ、食料や飲料水を奪い合っている。
健一は眉間を指で揉み、椅子の背にもたれた。
『……ひどいな』
日本では、まだ同じ事態にはなっていない。
だが、海の向こうで起きていることだからと無関係ではいられなかった。
健一は別のページを開く。
保存食――売り切れ。
飲料水――在庫なし。
乾電池――入荷未定。
防災用簡易食――注文受付停止。
数日前にはまだ買えた物まで、次々と消えている。
『こっちも駄目か……』
思わず声が漏れた。
世界的な感染拡大が始まってから、輸入品だけでなく、国内の商品まで徐々に手に入りにくくなっていた。
日本で感染が広がった場合に備え、今のうちに保存食や防災用品を揃えておこうと考えたのだが、行動を始めるには少し遅かったらしい。
『……待てよ。キャンプ道具なら、非常時にも使えるんじゃないか?』
健一は椅子から立ち上がり、部屋を見回した。
台所には普段から買い置きしているわずかな食料と、多少の水がある。
それとは別に、部屋の隅にはテントや寝袋、ランタン、バーナー、クッカーといったキャンプ用品がまとめて置かれていた。
趣味でキャンプをしている健一にとって、どれも使い慣れた物だった。
床にしゃがみ込み、道具を一つずつ確認する。
火は起こせる。
電気がなくても明かりは確保できる。
屋外で眠ることも、簡単な調理をすることもできる。
だが、それはキャンプ場で数日を過ごすための装備だ。
帰る日が決まっているキャンプと、社会そのものが混乱する状況では意味が違う。
健一はランタンを元の場所へ戻した。
『……キャンプ道具で、どこまで対応できるだろうか?』
考えても答えは出ない。
リモコンを取り、テレビをつけた。
ちょうどニュースでは、世界的なウイルス流行について政府の会見が放送されていた。
壇上に立つ政府関係者が、集まった記者たちへ向かって説明している。
『政府としては、国内へのウイルス侵入を防止することを最優先として対応しております。外国人の入国については原則として禁止し、国民の皆様にも不要不急の外出を控えていただくよう要請しております』
画面の下に対策内容が表示される。
入国制限。
外出自粛。
感染者受け入れ病床の確保。
隔離区域の準備。
必要となれば、非常事態宣言や都市封鎖も実施する。
そこまで想定しているらしい。
さらに、国内で感染者が確認された場合に備え、各自治体と医療機関にはすでに対応手順が通達されているという。
感染が疑われる患者を一般患者から隔離すること。
専用区域で対応すること。
感染疑いの患者が来院した場合には、速やかに保健当局へ報告すること。
患者の移動を制限し、医療従事者の防護を徹底すること。
健一は腕を組んだ。
『国内に入れないだけじゃなくて、入ってきた後のことまで準備してるのか』
やれることは、かなりやっている。
少なくともテレビを見ている限り、政府が事態を甘く見ているようには思えなかった。
記者の一人が手を挙げる。
『海外から日本へ向かっている避難船について質問します。多数の避難民が乗船している場合でも、上陸を認めない方針に変更はありませんか?』
『ありません』
即答だった。
『すべての船舶に停船命令に従うよう求めます』
『もし、従わなかった場合は?』
会見場が静かになる。
『まずは警告を行います。それでも停船せず、日本領海へ強行侵入しようとする場合には威嚇射撃を行います』
さらに質問が飛んだ。
『それでも止まらなかった場合は、どうするんですか?』
政府関係者は表情を変えなかった。
『実弾による攻撃も辞しません』
健一は思わずテレビへ顔を向け直した。
人が乗っている船を撃つなど、普段なら簡単に受け入れられる判断ではない。
だが、海外で何が起きているかは毎日のように映像で見ている。
感染者が一人でも日本に入り込めば、地域一帯に感染が広がるのは時間の問題だった。
健一は再びパソコンを見る。
売り切れの文字ばかりが並ぶ画面。
『もう少し、何か揃えておいた方がいいな……』
何も起こらなければ、それでいい。
保存食も防災用品も、あって困る物ではない。
健一は在庫が残っている商品を探し始めた。
◇07月後半/健一の自宅/健一
数週間もすると、ネットでは別の噂が急速に広がり始めた。
『特殊な血液を持つ人間には、ウイルスへの耐性がある』
健一がその話を最初に見たのは、ネット上の書き込みだった。
以前から、自分の赤血球に特殊な異常があり、エイズの原因となるHIVやマラリアに対して耐性を持つことを知っていた。
しかし、今回世界中で猛威を振るっているウイルスにまで耐性があるという話は初耳だった。
自分にも直接関係する情報だけに、健一は強い関心を持った。
だが、書き込みには根拠が示されていない。
誰かが書いた話を別の誰かが引用し、それがさらに拡散されているだけだった。
それでも、同じ内容を目にする回数は日に日に増えていった。
やがて噂はニュース番組でも取り上げられる。
『海外では、一部の特殊な血液を持つ人々について、ウイルスへの耐性を有している可能性が指摘されています』
健一はテレビの音量を上げた。
単なるネット上の噂だと思っていた話が、ついにニュースでも取り上げられたのだ。
続いて映し出されたのは、国内の病院だった。
『また政府が各医療機関に対し、特殊な血液を持つ患者の情報を非公開で収集するよう指示していたことが、報道機関の取材で明らかになりました』
『……政府が?』
健一の表情が変わる。
自分にも、その特殊な血液がある。
妹の唯も同じ保有者だった。
テレビでは専門家が様々な意見を述べていたが、なぜ政府が情報を集めているのかについて明確な説明はなかった。
ただ、本当に感染への耐性があるのなら――。
健一は無意識に、自分の手を見つめた。
少なくとも、何もないよりは希望になる。
だが同時に、本人にも知らせず政府が情報を集めているという事実だけが、妙に引っかかった。
◇08月01日 09時台/病院・病室/唯、夏帆
窓の向こうでは、大粒の雨が絶え間なく降り続いていた。
厚い雲に覆われた空は朝とは思えないほど暗く、窓ガラスを雨粒が次々と伝っていく。
不動唯は病院のベッドに横になったまま、その様子をぼんやりと眺めていた。
患者衣から伸びる細い腕を布団の上に置き、何をするでもなく雨を目で追っている。
病室の扉が開いた。
『唯ちゃん』
聞き慣れた声に、唯が顔を向ける。
担当看護師の桜井夏帆が入ってきた。
夏帆は窓の外を見て、少し困ったように笑った。
『よく降るわね。でも、明後日から晴れるみたいよ』
『明後日かぁ……』
唯はもう一度、窓を見る。
しばらく雨音だけを聞いていたが、やがて思い出したように口を開いた。
『夏帆さん』
『なに?』
『ニュースで聞いたんだけど……特殊赤血球保有者って、私や夏帆さんのことだよね……?』
夏帆は一瞬だけ唯を見つめ、それから頷いた。
『ええ。そうよ。唯ちゃんのお兄さんも同じね』
『やっぱりそうなんだ』
唯は自分の腕へ目を落とした。
表情には喜びより、戸惑いの方が強く浮かんでいる。
『私、この血のせいでずっと身体弱かったんだよね……?』
『……うん』
『なのに今度は、この血のおかげで助かるかもしれないって……変なの』
力なく笑ってみせた唯を見て、夏帆はすぐには言葉を返さなかった。
病気のために出来なかったことも、我慢してきたこともある。
唯がどれだけ自分の身体に振り回されてきたか、夏帆も知っている。
夏帆はベッドのそばに立ち、穏やかに言った。
『そうね……。でも今は、その血が唯ちゃんを守ってくれるかもしれない。それなら悪いことばかりじゃないわ』
唯は黙ったまま、自分の手を見つめる。
やがて小さく頷いた。
『……うん』
窓の外では、まだ激しい雨が降り続いていた。




