日常の向こう側。
◇7月前半
無数のフラッシュが、会見場の壇上を白く染めた。
壇上に立つ官房長官は、並べられたマイクの向こうにいる記者たちを見渡した。会見場には空調の低い音が響いていたが、集まった者たちの表情には隠しきれない緊張が浮かんでいる。
世界各地で猛威を振るうFMウイルス。
感染者が人を襲う映像は、すでにインターネットを通じて日本国内にも広まっていた。都市から逃げ惑う群衆。炎に包まれた車列。血に濡れた口で、倒れた人間に噛みつく者たち。
それまで映画の中にしか存在しなかったような光景が、現実のものとして連日報道されている。
官房長官は手元の原稿に目を落とし、静かに口を開いた。
『政府は、FMウイルスの国内侵入を阻止するため、あらゆる措置を講じます』
会見場の空気が張り詰めた。
『すべての外国人について、入国を原則として禁止します。また、日本国民の皆様にも不要不急の外出を控えていただくよう、強く要請いたします』
記者たちが一斉にペンを走らせる。
『国内で感染が確認された場合には、非常事態宣言の発令、感染地域の封鎖を含め、迅速に対応します』
一人の記者が手を挙げた。
『海外から避難民を乗せた船舶が日本へ向かっているとの情報があります。人道的な観点から受け入れる可能性はありますか?』
官房長官の表情は変わらなかった。
『避難民を乗せた船舶であっても、検疫を受けずに日本領海へ侵入することは認められません』
『停船命令に従わず、強引に領海へ侵入しようとする場合には、威嚇射撃を行います』
ざわめきが広がった。
官房長官は、その声を遮るように続けた。
『それでも従わない場合、国民の生命を守るため、実弾による攻撃も辞しません』
会見場が静まり返る。
冷酷とも取れる判断だった。
だが、海の向こうでは、たった一人の感染者から都市全体が崩壊した例がいくつも確認されていた。
一隻の船を救うために、一つの国を危険にさらすことはできない。
政府は迷わなかった。
その会見は、国内のすべてのテレビ局で繰り返し放送された。
空港では国際線が相次いで欠航し、港には海上保安庁の巡視船が集められた。自衛隊も警戒態勢に入り、沿岸部では不審船への監視が昼夜を問わず続けられた。
海外からの物流も厳しく制限され、街の店頭からは少しずつ輸入品が姿を消していった。
政府の迅速な対応のおかげで日本国内ではFMウイルスの感染者は確認されていなかった。
人々は不安を抱きながらも、どこかで信じていた。
海に囲まれたこの国だけは、守られるのではないか。
政府が水際で食い止めてくれるのではないか。
テレビ画面の向こうで起きている惨劇は、最後まで自分たちの日常には入り込んでこないのではないか。
そう信じなければ、平穏な生活を続けることなどできなかった。
だが、七月も後半に入ると、新たな噂がインターネット上を駆け巡り始めた。
特殊な血液を持つ者は、FMウイルスに感染しにくい。
感染者の体液に触れても発症しなかった者がいる。
その者たちには、一般的な人間とは異なる特殊な赤血球が確認された。
最初は、根拠のない書き込みの一つに過ぎなかった。
しかし、同じ内容を語る投稿が次々と現れた。海外の医療機関から流出したとされる資料や、特殊赤血球を持つ患者の検査結果を写したという画像まで出回り始める。
やがて噂は、テレビのニュース番組でも取り上げられた。
画面には、顔を隠した医療関係者の映像が映し出されていた。
『政府が各地の病院に対し、特殊な赤血球を持つ患者の情報を収集するよう指示していたことが、関係者への取材で明らかになりました』
アナウンサーが原稿を読み上げる。
『この情報は一般には公開されておらず、政府はFMウイルスへの耐性との関連について、現時点では回答を控えています』
その報道は、人々に新たな希望と不安を与えた。
自分は特殊な血液を持っているのか。
もし持っていなければ、感染者が現れた時に生き残ることはできないのか。
病院には、自分の血液について問い合わせる電話が殺到した。
だが、特殊赤血球を持つ者は、自分が対象者であることを幼い頃より知っていた。
不動健一も、その一人だった。
そして、入院中の妹である唯も。
◇8月1日 09:00
病院の窓を、大粒の雨が絶え間なく叩いていた。
灰色の雲に覆われた空から降り続く雨は、何日も止む気配を見せていない。病室の窓ガラスを流れる水滴が、外の景色を歪ませていた。
唯はベッドに横たわり、ぼんやりとその様子を眺めていた。
患者衣の袖から伸びた腕は細く、白い指先が掛け布団の上に置かれている。
窓の外では、病院の駐車場にできた水たまりへ雨粒が落ちるたび、小さな波紋が幾重にも広がっていた。
病室の扉が開いた。
夏帆が入ってくる。
手にしていた記録を確認しながらベッドのそばまで来ると、窓の外を見て苦笑した。
『よく降るわね』
唯は視線だけを夏帆へ向けた。
夏帆は慣れた手つきで唯の様子を確認し、それから少し明るい声を出した。
『明後日から晴れるみたいね』
『本当?』
『天気予報が当たれば、だけどね』
夏帆はそう言って笑った。
唯もわずかに口元を緩めたが、その表情はすぐに曇った。
『夏帆さん』
『なに?』
唯は少し迷ってから、ベッド脇に置かれたテレビへ目を向けた。
画面では、特殊赤血球に関するニュースが繰り返し放送されている。
『ニュースで聞いたけど、特殊赤血球保有者って……私や夏帆さんのことだよね……?』
夏帆は静かにうなずいた。
『ええ。そうよ』
唯は掛け布団の端を指先でつまんだ。
『唯ちゃんのお兄さんも同じね』
『お兄ちゃんも……』
耐性があるという噂が本当なら、健一は感染しにくい。
けれど、政府が情報を隠して集めていたということは、それだけ状況が切迫しているということでもある。
唯は再び窓の外を見た。
雨に煙る街は、いつもと何も変わらないように見えた。
車が走り、人々が傘を差し、信号が規則正しく色を変えている。
それでも、世界のどこかでは今も感染者が人を襲っている。
海の向こうで起きていることが、この街で起こらない保証はない。
夏帆は唯の不安を察したのか、そっと声をかけた。
『今は政府も警戒しているし、国内では感染者も確認されていないわ。あまり考えすぎないで』
『うん……』
唯はうなずいた。
だが、窓を叩く雨音は、胸の奥に積もった不安まで洗い流してはくれなかった。
翌日の八月二日も、雨は降り続いていた。
◇09:00
健一は自宅の窓から、雨に霞む外を見ていた。
屋根を叩く音は強く、道路の側溝には濁った水が勢いよく流れている。
テーブルの上には、ニュースを表示したままの携帯電話が置かれていた。
海外で拡大するFMウイルス。
特殊赤血球を持つ人間への耐性の可能性。
政府による情報収集。
どの記事を読んでも、可能性の域を出ず明確な答えは書かれていなかった。
だが、何も起きていないからといって、何も準備しなくていいわけではない。
健一は携帯電話を手に取り、登録された名前を選んだ。
電話の相手は、猟師の権蔵だった。
狩猟の講習を受けるため地元の猟友会を訪れた際に知り合い、以来、健一が山で最も頼りにしている人物である。
数回の呼び出し音のあと、低い声が聞こえた。
『どうした、健一』
『権蔵さん。今、少し大丈夫ですか?』
『ああ』
『前に教えてもらった、防空壕のことなんですが』
電話の向こうで、わずかな間があった。
『戦時中のやつか』
『はい。それと近くにあるという湧き水の位置も。場所をもう一度、詳しく教えてもらいたいんです』
『ウイルスのことが気になるか』
健一は窓の外を見た。
『何もなければ、それでいいんです。でも、もし国内に入ってきたら……街に居続けるのは危険かもしれません』
権蔵は笑わなかった。
『備えておくに越したことはない』
その言葉に、健一は少しだけ肩の力を抜いた。
『今日、会えますか?』
『今日は無理じゃ。環境課から害獣駆除の依頼が来とる』
『山ですか?』
『ああ。しばらく山小屋におる。明日なら地図を見ながら話せるぞ』
権蔵の自宅は街にある。
だが、待ち合わせ場所として指定されたのは、狩猟用の山小屋だった。
『分かりました。明日の朝、伺います』
『雨が上がればな』
権蔵はそこで一度言葉を切った。
『この辺りは土地が安くてな。山ごと買えたくらいじゃ』
『山ごとですか』
『安いのには理由がある。この区域へ入る橋は、大雨が降るとすぐ冠水するんじゃ』
窓の外で、雨脚がさらに強くなった。
『もし水が増えとったら、無理に渡るな。引き返せ』
『はい』
通話を終えた健一は、携帯電話を握ったまましばらく立っていた。
防空壕。湧き水。山小屋。
数日前までなら、そこへ避難することなど真剣に考えもしなかった。
だが今は、それらの場所が、いつか自分たちの命をつなぐ場所になるかもしれない。
健一の頭に、病院にいる唯の顔が浮かんだ。
自分だけが逃げるつもりはなかった。
◇10:00
健一のジムニーが病院の駐車場へ入った。
ワイパーが激しく左右へ動き、フロントガラスを打つ雨を払い続けている。駐車場には患者を乗せた車が何台も並び、傘を差した人々が足早に建物へ向かっていた。
病室へ入ると、唯はベッドの上で身体を起こしていた。
『お兄ちゃん』
『調子はどうだ?』
『変わらないよ』
健一はベッドのそばに椅子を寄せて座った。
ほどなくして、夏帆も病室へ入ってきた。
『今日は早いのね』
『唯に話しておきたいことがあって』
健一の声がいつもより硬いことに気づき、唯は表情を曇らせた。
『なに?』
『もしパンデミックが起きたら、山へ避難するかもしれない』
唯は一瞬、言葉を失った。
『山に……?』
『知り合いの山小屋がある。それに、防空壕の跡も残ってるらしい。街に感染が広がった場合は、そっちの方が安全だ』
唯は自分の脚へ目を落とした。
『でも、私の身体じゃ……山に行っても、お兄ちゃんの足手まといになるんじゃないかな』
『ならない』
健一は即座に答えた。
唯が顔を上げる。
『何があっても迎えに行く。約束する』
唯の瞳が不安に揺れた。
『いっぱい感染者がいるかもしれないよ?』
『それでも行く』
『連絡もつかないかもしれないよ?』
『探す』
『本当に?』
唯の声がかすかに震えた。
『それでも来てくれるの?』
健一は迷わなかった。
『もちろんだ』
病室に、雨音だけが響いた。
唯はしばらく健一を見つめ、それから小さくうなずいた。
夏帆は二人のやり取りを見て、呆れたように息を吐いた。
『健一はいつもそうよね。変な所で強情なんだから』
そう言いながら、夏帆は小さく笑った。
『ふふっ』
健一は何も言い返さなかった。
唯はようやく、少しだけ安心したように笑った。
◇11:00
病院を出た健一は、近くのスーパーへ立ち寄った。
自動ドアが開くと、騒がしい声が一斉に耳へ飛び込んできた。
店内は買い物客で埋め尽くされていた。
飲料水の棚はほとんど空になり、缶詰や乾麺、保存食の棚にも商品は残っていない。床には破れた包装や、誰かが落とした買い物籠が転がっていた。
わずかに残った商品へ、何人もの客が同時に手を伸ばす。
『それ、私が先に取ったのよ!』
『離せよ!』
『子供がいるんです! 一つくらい譲ってください!』
怒鳴り声と泣き声が混じり合う。
店員が棚の前に立ち、必死に声を張り上げていた。
『おひとり様、一商品までです! 同じ商品を複数購入することはできません!』
誰もが不安を抱えていた。
世界中で広がるFMウイルス。
政府が隠していた特殊赤血球の情報。
続く大雨。
国内ではまだ感染者が確認されていない。
それでも、人々はすでに何かが始まりかけていることを感じ取っていた。
健一は人波の間を進み、残っていたペットボトルの水と、わずかな食料を手に取った。
手に入ったのは、それだけだった。
レジへ並びながら、健一は空になった棚を見つめた。
万が一に備える。
1年前なら、それは考えすぎだと笑われたかもしれない。
だが、今この店にいる誰も笑ってはいなかった。
雨は、まだ止まない。
そして誰も知らなかった。
この街で日常と呼べる時間が、あとわずかしか残されていないことを。




