第10話③静かな時間
◇08月12日 10時台/山小屋/美樹、なおみ、嵯峨
朝から続けていた射撃練習を終えると、美樹は空気銃を持って狩猟へ出る準備を始めた。
今日は嵯峨も連れて行く。
昨日肩を打たれたなおみも、周囲の警戒役として付き添うことになった。
出発前、美樹が嵯峨のそばへしゃがむ。
『今日は試したいことがあるんだ』
なおみが首を傾げた。
『試したいこと? なんや?』
『猟犬の本に書いてあったんだけど、嵯峨はレトリバーっていって、撃った獲物を咥えて持ってきてくれる猟犬なんだって。だから、それができるか試してみたいんだ』
なおみが嵯峨を見る。
『へぇ。嵯峨、そんなことまでできるんか』
『分かんない。だから今日やってみる』
嵯峨は何を話されているのか分からない様子で、美樹を見上げていた。
二人と一匹は山へ入った。
山道では嵯峨が美樹の少し前を進み、なおみがその隣を歩く。
美樹は空気銃を持ちながら、木の上や茂み、足元へ注意を向けた。
進行方向だけではない。
左右や後方にも気を配る。
昨日のように、一つのものへ意識を集中させすぎないようにするためだった。
なおみが横目で見る。
『今日は随分慎重やな』
『昨日みたいなのは、もう嫌だから』
美樹は短く答えた。
獲物を見つけても、すぐには銃を向けない。
まず周囲と射線を確かめる。
撃ったあとに何が起きるかも考える。
その一方で、嵯峨との練習も続けていた。
『嵯峨』
呼ばれた嵯峨が振り返る。
美樹は片手を上げた。
『待て』
声と同時に手で合図を出すと、嵯峨がその場で止まった。
『……よし。進め』
次の合図で再び歩き出す。
何度か繰り返すうちに、嵯峨は声だけではなく、美樹の手を見るようになっていった。
次は声を小さくして手を上げる。
嵯峨は一瞬だけ足を動かしかけ――その場で止まった。
美樹の顔が明るくなる。
『今、手だけで止まった?』
『止まったな』
『嵯峨、すごい!』
思わず近づきそうになったが、美樹は途中で踏みとどまった。
今は狩猟中だ。
大きな声を出して獲物を逃がしては意味がない。
『あとでいっぱい褒めてあげる』
それからしばらく山を進んだ時だった。
木の枝に一羽のハトが止まっている。
美樹はすぐには空気銃を上げなかった。
周囲と射線を確かめ、嵯峨にも待つよう合図を出す。
嵯峨が止まる。
美樹は静かに空気銃を構えた。
呼吸を整える。
照準を合わせる。
パシュッ――。
ハトが枝から落ち、少し離れた茂みの中へ消えた。
美樹は銃口を安全な方向へ向けたまま周囲を確かめる。
他に動くものはない。
そこで、朝に読んだ猟犬の本を思い出した。
『嵯峨』
美樹はハトが落ちた方向を指した。
『取ってきて』
嵯峨はすぐに茂みへ駆け込んだ。
『あ……』
美樹となおみがその先を見る。
しばらくして草が揺れ、嵯峨が戻ってきた。
口には、さっき仕留めたハトを咥えている。
そのまま美樹のところまで来る。
『ほんとに持ってきた!』
美樹が受け取ると、嵯峨はその場に座った。
なおみが笑う。
『ちゃんと猟犬やったんやなぁ』
『山中さんが教えてたんだ……』
美樹はしゃがみ込み、今度こそ嵯峨の頭を何度も撫でた。
『嵯峨、えらい!』
尻尾が大きく揺れる。
本に書かれていたことを試しただけだった。
だが嵯峨は、すでに何をすればいいのか知っていた。
美樹はハトを手にし、もう一度嵯峨を見る。
射撃だけではない。
嵯峨と一緒なら、自分一人ではできなかった狩り方もできる。
美樹は少し嬉しそうに立ち上がった。
『行こう、嵯峨』
二人と一匹は、さらに山の奥へ進んでいった。
◇08月12日 10時台/山小屋前/健一、権蔵、達也
山小屋の前では、健一、達也、権蔵の三人が地面いっぱいに材料を広げていた。
ロープ。
ワイヤー。
木材。
使えそうな金具。
渓流で話していた、走る感染者を止めるための罠を実際に形へする。
権蔵がワイヤーを手に取る。
『今までみたいに、踏み板を踏ませるだけでは駄目じゃ』
健一もしゃがみ込み、材料を見比べる。
『走ってきたら、踏む位置そのものがズレるかもしれないですしね』
『それに勢いがある』
達也が昨日の感染者を思い出す。
『引っ掛けても、そのまま突っ込んできたら意味ないよな』
三人で考える。
どうすれば走る勢いを殺せるか。
どうすれば足を止められるか。
山小屋にある材料だけで作れることも条件だった。
三人は何度も仕掛けを組み直し、ロープを引いて作動を確かめていく。
『これじゃ作動が遅いな』
健一がロープを引く。
仕掛けが動くまでに僅かな間がある。
達也が首を横に振った。
『あの速度なら通り過ぎてそう』
『じゃあ、ここを短くするか』
組み直す。
今度は作動する。
だが権蔵がすぐに問題を見つけた。
『これでは置ける場所が限られすぎる』
『山道じゃなくて、街でも使える方がいいですよね』
健一の言葉に権蔵が頷く。
『そうじゃ。土の地面だけで使える罠では足りん』
アスファルトの道路や建物の前など、土のない場所でも設置できなければならない。
健一は木材を移動させる。
達也がワイヤーの位置を変える。
権蔵が罠猟の経験から問題点を指摘する。
『感染者がここを走ってくるとして……』
健一が地面を指でなぞる。
『足元を狙うなら、踏ませるんじゃなくて――』
権蔵がその言葉に反応した。
三人の視線が、同じ場所へ集まる。
まだ形にはなっていない。
だが少しずつ。
走る感染者の力そのものを利用する仕掛けが、輪郭を持ち始めていた。
◇08月12日 10時台/渓流/唯、夏帆
健一たちが山小屋へ戻ったことを確認してから、唯と夏帆は改めて渓流へ向かった。
今度こそ釣り竿を持っている。
唯は茂みを抜ける直前、一度だけ慎重に先を覗いた。
夏帆が笑う。
『もう誰もいないわよ』
『確認しただけです……』
『何を?』
『……夏帆さん』
『はいはい』
渓流には、もう男たちの姿はなかった。
唯はようやく安心したように川辺へ下りた。
二人で釣りの準備をする。
昨日キャンプ地から持ち帰った釣り具。
仕掛けを確認し、流れのある場所へ糸を垂らす。
待つ。
水面が揺れる。
竿先は動かない。
その間に夏帆は川辺を見回した。
『唯ちゃん、これ分かる?』
唯も近づく。
水際に生える緑の葉。
少し考える。
『クレソン?』
『正解』
『やった』
食べられる分だけ摘み、持ってきた籠へ入れる。
釣り竿を見る。
まだ動かない。
また少し野草を探す。
そんな時間が続いた。
やがて夏帆が何気ない口調で言った。
『白髪マンモスより大きいのが釣れるといいね』
唯の手が止まった。
『…………』
夏帆は何食わぬ顔で竿を見ている。
唯の顔がじわじわと赤くなる。
『それは忘れてください……』
『何のこと?』
『絶対覚えてるじゃないですか!』
夏帆が吹き出した。
『だって唯ちゃんが自分で言ったんじゃない』
『あれは忘れてください! 本当に!』
『無理かも』
『夏帆さん!』
渓流に笑い声が重なる。
だが魚はなかなか掛からなかった。
竿先は静かなまま。
それでも二人は焦らない。
川の流れる音を聞きながら、他愛のない話をする。
子供の頃のこと。
山小屋でのこと。
昨日採った植物のこと。
何でもない話。
唯は水面を眺めながら、ぽつりと言った。
『こうしてると、今がこんな状況だって忘れそうですね』
夏帆も流れる水を見る。
感染者も。
崩れた街も。
ここからは見えない。
聞こえるのは水と鳥の声だけだった。
『たまには忘れていいんじゃない?』
唯が夏帆を見る。
『……いいのかな』
『ずっと緊張してたら疲れちゃうでしょ』
『そうですね』
唯は少し笑った。
二人はまた釣り竿へ視線を戻す。
まだ魚は掛からない。
それでも。
今はそれでよかった。
途中、唯の体調を見ながら何度か日陰で休み、持ってきた昼食もそこで済ませた。
唯と夏帆は、静かに流れる水のそばで、焦ることなく釣りを続けた。




