第10話②捕まえるための罠
◇08月12日 09時台/渓流/健一、権蔵、達也
渓流へ着くなり、達也は自分のシャツの襟元をつまんだ。
『……俺、普通に臭くない?』
健一も自分の服へ鼻を近づけ、すぐに顔をしかめた。
『俺も人のこと言えないな……』
ここ数日。
感染者との戦い。
街での物資回収。
山歩き。
罠猟。
猪の運搬と解体。
まともに身体を洗う余裕など、ほとんどなかった。
汗と皮脂。
土埃。
服にも身体にも、積み重なった汚れが染みついている。
目の前を流れる渓流は透き通っていた。
岩の間を勢いよく流れる水が、朝の光を反射している。
達也はさっさと服を脱いだ。
『よし。入るぞ』
片足を水へ入れた瞬間。
『つめたっ!!』
反射的に引っ込める。
健一が笑った。
『真夏だぞ?』
『お前も入ってみろ! 山の水なめんな!』
健一も足を入れる。
『っ……!』
笑顔が消えた。
『冷た……』
『ほら見ろ!』
それでも臭いままでいるわけにはいかない。
覚悟を決め、二人は渓流へ身体を沈めた。
『うおおおおっ……!』
達也が全身を縮こまらせる。
『つめたっ! これ水浴びっていうか修行だろ!』
健一も震えながら身体を擦る。
水へ入った瞬間こそ刺すような冷たさだったが、汗や皮脂が落ちていく感覚は気持ちよかった。
首や腕、胸、髪まで、ここ数日こびりついていた汚れを冷たい流水で一気に洗い流していく。
権蔵は二人から少し離れた場所で、先に焚火を作っていた。
乾いた枝へ火を移し、薪を組む。
炎が安定してから、ようやく服を脱いだ。
『権蔵さんも入るんですか?』
『そのために来たんじゃろ』
平然と渓流へ入る。
次の瞬間。
『……冷たいのぅ』
達也が吹き出す。
『権蔵さんも普通に冷たいんじゃん』
『当たり前じゃ。わしは仙人ではない』
三人とも手早く身体を洗った。
長く浸かっていられる水温ではない。
上がる頃には肌が冷え、達也は腕を擦りながら焚火へ駆け寄った。
『寒い寒い寒い!』
『だから焚火を用意したんじゃ』
健一も火の近くへ座る。
炎の熱が冷えた皮膚へ染み込んでいく。
濡れた髪から水滴が落ちた。
『でも、すっごくさっぱりしましたね』
『それは間違いない』
達也は焚火へ手をかざした。
しばらく三人で身体を温める。
川の流れる音。
薪が爆ぜる音。
山小屋とはまた違う静かな時間だった。
達也が何気なく健一を見る。
『そういや健一』
『ん?』
『お前、親は探さなくていいのか?』
健一の手が止まった。
権蔵は何も言わず、焚火へ視線を向けている。
『父親は……探しようがないですね』
『連絡取れないのか?』
『俺が12歳の時に両親が離婚して、それから一度も会ってないんです』
達也の表情から軽さが消えた。
『今どこにいるかも?』
『分からないです』
健一は炎を見つめた。
父親の顔は覚えている。
だが、もう長い間会っていない。
今どこで何をしているのか。
生きているのかさえ分からない。
『母さんは、地震が起きる前から仕事で東北に行ってました』
『東北か……』
『それ以来、連絡が取れてないです』
携帯電話は圏外。
通信網も機能していない。
東北が今どうなっているのかも分からない。
達也は少し迷ってから聞いた。
『探しに行きたい?』
健一はすぐに答えなかった。
焚火の向こうで炎が揺れる。
『……母さんのことは心配だよ。できるなら今すぐにでも探しに行きたい。でも、唯を連れて東北まで行くなんて危険すぎるし……唯を置いて俺だけ行くわけにもいかない』
達也は黙って聞いていた。
『……まあ、そうだよな』
『今は母さんが無事だって信じるしかない。それに、俺が今守らなきゃいけないのは唯だから』
言葉にすると、胸の奥が少しだけ重くなった。
母親を諦めたわけではない。
探したくないわけでもない。
ただ今は、できない。
権蔵は二人の話へ口を挟まず、焚火に薪を一本くべた。
炎が少し大きくなる。
やがて権蔵が言った。
『昨日の走る奴じゃが』
健一と達也が顔を上げる。
『あれが増えるなら、今までのやり方では危ない』
『罠ですか?』
『うむ』
権蔵は近くの地面へ細い枝を置いた。
『これまで使っとった戦い方は、ゆっくり歩いてくる奴を相手に考えとった。昨日みたいに勢いよく走って来られたら、確実に止められるとは限らん』
達也が昨日のキャンプ地を思い出す。
『あの速さと数で突っ込まれたら、ヤバそうだもんな』
『なら、あの勢いそのものを使えんかと思ってな』
権蔵は枝を動かしながら考える。
健一も地面を見る。
『走ってくる力を利用して……動きを止める?』
『そうじゃ』
達也も身を乗り出した。
『山小屋にある物で作れる?』
『そこを考えるんじゃ』
ロープ。
木材。
ワイヤー。
手元にある材料。
権蔵の罠猟の知識。
三人は焚火を囲んだまま、走る感染者を止めるための仕掛けについて意見を出し始めた。
◇08月12日 09時台/渓流/唯、夏帆
同じ頃。
唯と夏帆は、釣り竿を持って渓流へ向かっていた。
昨日キャンプ地から持ち帰った釣り具。
それを使い、二人で魚を釣ってみようと考えた。
『釣れるかな』
唯が少し楽しそうに言う。
『やってみないと分からないわね』
『一匹も釣れなかったら?』
『その時は野草だけ摘んで帰りましょ』
そんな話をしながら木々の間を抜ける。
やがて水の流れる音が近くなった。
唯が先に茂みを抜ける。
『お兄ちゃ――』
声が止まった。
目の前。
渓流。
水浴びを終えようとしていた健一たち三人。
唯の思考も止まった。
『…………』
健一が振り返る。
『唯?』
その瞬間。
唯はようやく自分が何を見ているのか理解した。
視線を逸らす。
だが――遅かった。
見てはいけないところまで、しっかり視界に入ってしまっている。
顔が一気に熱くなる。
『ご、ごめんなさいっ!』
唯は勢いよく背を向けた。
『え? ちょ、唯!?』
健一の声を無視し、そのまま来た道を戻っていく。
夏帆は一瞬だけ渓流の方を見てから、慌てて唯の後を追った。
山小屋へ戻る道。
唯は早足だった。
耳まで真っ赤になっている。
夏帆はその横を歩きながら、どうしても口元の笑いを抑えられなかった。
『唯ちゃん』
『……なんですか』
『誰が一番大きかった?』
唯の足が止まりかけた。
『え? 私、何も見てないです』
『めっちゃ見てるじゃん』
『見てないです!』
『権蔵さんってめっちゃ大きいんだね』
唯はさらに顔を赤くする。
『…………』
そして小さな声で。
『……白髪マンモス』
夏帆が立ち止まった。
『え?』
数秒。
『あははははは!』
唯の顔がさらに赤くなる。
自分が何を口にしたのか、遅れて気づいた。
『わ、忘れてください! 今のなしです!』
夏帆は笑いが止まらない。
『白髪マンモスって……唯ちゃん……』
『忘れてくださいってば!』
一方、渓流。
『へっくしょんっ!!』
権蔵が盛大なくしゃみをした。
鼻を擦る。
『ちょっと冷たい水につかりすぎたかのぅ』
達也も焚火へ近づく。
『俺も寒い~。風邪ひいちまう』
健一は濡れた髪を拭きながら笑った。
『でもすっごくさっぱりしましたね』
渓流の水は、何事もなかったように岩の間を流れ続けていた。




