第9話②これまでとは違う
最初に走り出した感染者との距離が、みるみる縮まっていく。
これまで相手にしてきた感染者とは明らかに違った。
ふらつきながら歩くのではない。
腕を振り、地面を蹴り、真っ直ぐこちらへ向かってくる。
達也の顔色が変わった。
『権蔵さん!? ちょっと、まずいですよ!』
『下がれ! 美樹、後ろへ!』
権蔵は空気銃を下ろすと、すぐに散弾銃へ持ち替えた。
美樹が後退する。
だが視線は、自分へ向かって走ってくる感染者から離れない。
《速い……!》
50mあった距離が、あっという間に消えていく。
権蔵が散弾銃を構える。
激しい銃声が山中に響き渡り、先頭を走っていた感染者が弾かれるように倒れた。
しかし――。
その銃声に反応し、それまで離れた場所をうろついていた感染者まで一斉に顔を上げた。
『ギャァァァッ!』
『アァァァァッ!』
奇声。
一体。
また一体。
次々とこちらを向く。
そして走り始める。
健一が薪割り斧を握り直した。
『来るぞ!』
なおみが刀を抜く。
『囲まれんように下がって!』
健一となおみが前へ出た。
権蔵と美樹が射撃できる距離を作るためだった。
達也もバールを両手で構える。
『なんだよこれ……聞いてねぇぞ!』
一体が健一へ飛びかかる。
健一は飛びつきをかわし、側頭部へ斧を入れた。
倒れた感染者から刃を引き抜いた時には、もう次の一体が迫っていた。
『っ!』
斧を構え直す時間がない。
健一は柄を横にして胸元を押し返した。
感染者の歯が目の前で鳴る。
喉の奥から漏れる濁った声。
『離れろっ!』
蹴り飛ばす。
よろめいた感染者へ、なおみの刀が横から走った。
首筋へ刃が入り、感染者が崩れる。
『前だけ見たらあかんで!』
『分かってる!』
なおみの右側から一体、その後ろにもう一体が迫る。
先頭を斬り倒した直後――。
『なおみさん!』
横から別の感染者の拳が飛んできた。
避けきれない。
鈍い音とともになおみの肩へ当たり、身体が大きくよろめいた。
『っ……!』
それでも倒れない。
二歩下がって踏みとどまる。
達也が前へ出た。
『こっちは任せろ!』
達也はバールで感染者の頭部を打った。
一撃では倒れず、迫ってくる相手を二撃目でようやく地面へ倒した。
『美樹! 撃てるか!?』
達也が叫んだ。
『やってる!』
美樹は空気銃を構えていた。
だが照準の中に感染者を入れても、すぐに位置が変わる。
走ってくる。
健一たちも動いている。
《止まって……!》
焦るほど銃口が揺れた。
50m先の感染者を狙っていた時とは違う。
数秒迷えば、もう目の前まで来る。
撃てない。
誤射するかもしれない。
美樹は引き金から指を離した。
『くそっ……!』
権蔵が再び散弾銃を撃つ。
轟音とともに一体が倒れる。
だが数が多い。
銃声で寄ってきた感染者まで加わり、前後左右から距離を詰めてくる。
『下がれ! 固まれ!』
権蔵の声。
全員が少しずつ後退する。
健一が一体を押し返した、その直後。
死角から別の感染者がぶつかってきた。
『うわっ!』
体勢が崩れる。
背中から地面へ倒れかける。
感染者が健一へ覆い被さった。
『健一!』
達也の声が聞こえる。
健一は咄嗟に左腕を感染者の胸元へ押し当てた。
顔を近づけさせない。
だが感染者は腕へしがみつく。
口が開く。
《まずい――》
噛みついた。
『ぐっ!』
歯が服越しに腕へ食い込む。
一瞬、頭の中が真っ白になった。
『健一!』
達也が横からバールを差し込み、感染者を力任せに引き剥がす。
『離れろっ!』
感染者の身体が横へ転がった。
なおみが駆け寄る。
刀を頭に振り下ろす。
感染者の動きが止まった。
健一は立ち上がりながら、慌てて噛まれた腕を見る。
袖。
破れていない。
すぐに布地を引っ張り、上から押さえる。
痛みはある。
だが――。
『大丈夫だ! 服の上からだ!』
権蔵が一瞬だけ健一を見る。
『後でちゃんと確認する! 今は前を見ろ!』
『はい!』
健一は斧を構え直した。
そのやり取りを、美樹は見ていた。
噛みつかれた腕。
健一の顔。
《私が……》
最初の一発を外さなければ。
あの感染者に気づかれなければ。
走り出さなければ。
銃声も。
この乱戦も――。
『美樹!』
権蔵の怒声で我に返った。
『今は集中せい!』
目の前。
感染者が一体、こちらへ向かってくる。
美樹は唇を噛んだ。
『……うん!』
空気銃を握り直す。
狙う。
今度は無理に遠くを狙わない。
健一たちの背後へ回ろうとしている一体。
動きを読みながら照準を追わせ、美樹は息を止めて引き金を引いた。
パシュッ――。
感染者の頭部が揺れ、その場に倒れる。
美樹は命中を見届けても、そこだけを見続けなかった。
すぐに視線を動かす。
右。
左。
背後。
『次、右から来る!』
なおみが振り返った。
『見えた!』
刀を構える。
健一も位置を変える。
達也はその死角へ入る感染者へバールを向けた。
『こっちは俺が見る!』
誰か一人だけではない。
互いの後ろを見る。
誰かがよろめけば、別の誰かが前へ出る。
権蔵の散弾銃が響く。
なおみの刀が走る。
健一の斧が振り下ろされる。
達也のバールが感染者を押し返す。
一発撃つたびに後ろへ下がり、ペレットを装填して6回ポンプする。その間は健一たちが前を支えた。
美樹は撃てる瞬間だけを選んで引き金を引いた。
一体。
また一体。
後退しながら、確実に数を減らしていく。
それでも息を整える暇はない。
腕が重くなる。
呼吸が荒くなる。
足元には倒れた感染者が増えていった。
最初は静かに狙撃して数を減らすはずだった。
一体ずつ。
気づかれないまま。
安全な距離から。
そんな狙いは、もうどこにも残っていなかった。
キャンプ地には銃声と奇声、武器が肉を打つ音が響き続けていた。
◇8月11日 13:00
キャンプ地で戦闘が始まる少し前。
山小屋の周囲は、キャンプ地とはまるで違う静けさに包まれていた。
唯と夏帆は籠を手に、山小屋から離れすぎない範囲を歩いていた。
二人の少し後ろを、嵯峨がついてくる。
時折草むらへ鼻先を入れ、何かの匂いを追うように数歩進んでは、また二人のそばへ戻ってくる。
夏帆は足元の植物を確認し、以前にも採ったハーブを見つけた。
『これは大丈夫ね』
摘み取り、籠へ入れる。
唯もその手元を見ながら同じものを探した。
『こういうのも、ちゃんと覚えないと駄目ですね』
『そうね。街から持ってきた物は、使えばいつか無くなるから』
唯は籠の中へ入ったハーブを見る。
以前なら、必要なものは店へ行けば買えた。
食べ物も。
薬も。
生活用品も。
『スーパーだったら、お金を出せば何でも買えたのにね』
夏帆が小さく頷いた。
『今は自分たちで見つけないとね。食べ物も、水も、使える物も』
唯は少し考える。
『美樹さんは狩りを覚えて、健一お兄ちゃんは罠を教えてもらってるし……私も何か覚えたいな』
夏帆は唯の横顔を見た。
『唯ちゃんは唯ちゃんにできることをやればいいのよ。無理して美樹ちゃんみたいに銃を持つ必要はないんだから』
唯は即座に首を横へ振った。
『それは絶対無理です……』
『でしょうね』
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。




