第8話⑥猪肉になるまで
◇08月11日 11時台/山小屋の倉庫/健一、権蔵、達也、美樹、嵯峨
深い霧の中を戻ってきた健一たちは、そのままイノシシを山小屋の倉庫へ運び込んだ。
『うぅ……肩いてぇ……』
枝を下ろした達也が、その場で肩を回す。
健一も息を吐きながら首を傾けた。
『想像以上に重かったな……』
『獲ったら終わりではないと言ったじゃろ』
権蔵は休む間もなく動き始める。
『ここから解体するぞ』
美樹も倉庫へやってきた。
吊るされたイノシシを見る。
『……キジとは大きさが全然違うね』
『当たり前じゃ』
権蔵はまず鍋に湯を沸かした。
その横には、複数本のナイフを並べる。
美樹が首を傾げた。
『ナイフ、そんなに使うの?』
『汚れた刃をそのまま肉に使わんためじゃ。何本か用意して、作業ごとに替えていく』
熱湯でナイフを処理する。
さらに作業台を丁寧に清掃し、消毒用スプレーを吹きかけた。
美樹はその様子を見ている。
『一本をずっと使うんじゃないんだ』
『せっかくの肉を、自分で汚してどうする』
権蔵の声はいつも通りだったが、手順には一つ一つ意味があった。
山の中でも、内臓を傷つけないよう細心の注意を払った。
ここまで運んできても同じだ。
食べるところまで安全に繋げなければ、獲った意味がない。
権蔵が処理済みのナイフを手に取る。
『まず皮に切れ目を入れる』
健一たちは権蔵の手元を見る。
刃を入れていく。
一通り切れ目を作り終えると、権蔵はそのナイフを使用済みの場所へ置いた。
そして別のナイフを取る。
健一が気づく。
『また替えるんですか?』
『皮に使った刃じゃ。泥や毛に触れた刃を、そのまま肉には使わん』
『そこまで分けるのか……』
『食い物を扱っとるんじゃぞ』
次は皮を剥ぐ。
権蔵は切れ目から皮を引っ張り、皮と脂肪の境目を確かめながら少しずつ刃を進めていった。
『皮ばかり見て切るなよ。なるべく脂を肉の方へ残すんじゃ』
達也が眉を上げる。
『脂? 取った方がいいんじゃないの?』
権蔵が手を止める。
『何を言っとる。猪は脂がうまいんじゃ』
『そうなの?』
美樹も興味を示した。
『脂身って避ける人も多いのに』
『それは食ってから言え』
権蔵は再び作業を始める。
健一は皮と一緒に剥がれそうになる白い脂を見た。
何も知らなければ、そのまま全部捨てていたかもしれない。
やがて権蔵が振り返った。
『見とるだけでは覚えんぞ』
健一へナイフを差し出す。
『やってみろ』
『……はい』
健一は受け取った。
権蔵がやっていたように皮を引っ張る。
境界を見る。
刃を入れる。
思ったほど簡単には進まない。
『そこじゃ。切りすぎるな』
『はい』
達也も反対側を担当する。
『これ、結構難しいな……』
『さっきまで何でも簡単そうに見えたのにな』
『それ権蔵さんがやってたからだろ』
美樹にも順番が回ってきた。
美樹はナイフを受け取ると、ほとんど躊躇せずイノシシへ向かった。
権蔵がその様子を見る。
『美樹、ずいぶん慣れたのう』
『キジより大きすぎて、逆にお肉に見えてきた』
達也が美樹を見る。
『慣れるの早くない?』
『昨日ちゃんと見たからね』
皮が完全に剥がれる頃には、三人の手も随分と脂で汚れていた。
だがイノシシの姿は、少しずつ『獲物』から『肉』へ変わっていく。
次は部位ごとに切り分ける作業だった。
権蔵は筋肉の境目や骨の位置を示す。
『ここを見ろ』
美樹がすぐに反応した。
『あ、関節を探すんでしょ?』
権蔵が少しだけ感心した顔をする。
『ほう。覚えとったか』
『キジでやったもん』
美樹は得意げに答えた。
健一は指で関節の位置を確かめる。
目で見るだけでは分かりにくい。
触る。
動かす。
どこで骨が繋がっているのかを探す。
『無理に骨を切ろうとするな。関節へ刃を入れれば外せる』
権蔵に教えられながら、脚、胸、背中と部位ごとに肉を切り分けていく。
切り分けられた大きな肉の塊が、一つずつ作業台へ並んでいった。
健一はようやく形になった肉を見つめる。
『これでやっと肉か……』
朝から山へ入り、罠を確認して獲物を仕留めた。
血を抜き、内臓を処理し、重い身体を担いで山小屋まで戻った。
そこからさらに皮を剥ぎ、肉を切り分けた。
スーパーでパックに入った肉しか見ていなかった頃には、考えたこともなかった工程だった。
だが権蔵は首を横に振った。
『まだじゃ』
『え?』
『この量を腐らせずに保存せんといかん』
達也が作業台の肉を見る。
『……まだ終わらないの?』
『食い切れると思うか?』
『無理だな』
『なら保存する』
そこへ夏帆もやってきた。
肉の量を確認する。
『燻製にする分も作りましょう』
『そうじゃな』
保存に回す肉は、夏帆がハーブを使って燻製にすることになった。
唯も体調を見ながら、無理のない範囲で軽い作業だけを手伝う。
『唯ちゃん、これお願いできる?』
『はい、夏帆さん』
唯は座ったまま、夏帆から渡されたものを整えていく。
健一は妹の様子を何度か見る。
朝よりは落ち着いているようだった。
夏帆もそばについている。
健一は再び肉の保存作業へ意識を戻した。
三日以内に食べる分として、約10kgの猪肉を小分けにする。
それを上開き式の冷凍庫へ入れていく。
権蔵が説明する。
『完全に凍るまでは発電機を動かす』
達也が冷凍庫を覗く。
『凍ったら電源切るんだよな?』
『ああ。あとは温度を見ながら必要な時だけ動かすんじゃ』
冷気は下へ溜まる。
その性質を利用し、長く冷やしたい肉を下側へ。
温度の上がりやすい上側には、先に食べる肉を置く。
『上から順番に食っていくんじゃ』
健一が頷く。
『なるべく開け閉めもしない方がいいですね』
『そうじゃ。開ければ冷気が逃げる』
発電機が動き始める。
静かな山小屋に低い機械音が響いた。
残った肉は燻製へ回す。
夏帆がハーブを使いながら準備を進めていた。
美樹は並べられた肉を見回す。
『一頭でこんなに取れるんだ……』
権蔵が答える。
『だから無駄にせんように保存するんじゃ』
美樹は頷いた。
昨日のキジとは比べものにならない量。
それでも。
一頭の命を奪って得た食料だということは同じだった。
倉庫の中には、切り分けられた猪肉と、燻製の準備をする香草の匂いが混ざっていた。
■唯のサバイバルメモ
・今日のテーマ:寄生虫
皆さんこんにちは。唯です。
今回のお題は『寄生虫』についてです。
イノシシを解体する時って、ナイフを消毒したり、肉に腸の中身を付けないようにしたり、食中毒に気を付けたり……。
それだけでも大変なんですけど、もう一つ注意した方がいいものがあります。
それは虫です!
野生動物には、マダニやノミなどの『外部寄生虫』が付いていることがあります。
実際、厚生労働省のジビエ衛生管理の資料でも、ダニ類などの外部寄生虫がひどく寄生している個体は、食用にする個体を選ぶ時の異常として確認するようになっています。
特に怖いのがマダニ。
イノシシやシカがいるような場所にはマダニも多く生息していて、獲物そのものに付いていることもあります。
解体している間に服へ移って、そのまま袖口やズボンの隙間から入り込んで刺されることもあるので、獲物だけ見ていればいいわけじゃないんですね。
マダニはただ血を吸うだけじゃありません。
種類によっては『SFTS(重症熱性血小板減少症候群)』や日本紅斑熱などの感染症を媒介します。
SFTSは発熱や強いだるさ、腹痛や下痢などを起こして、重症になると死亡することもある病気です。
だから野生動物を扱う時は手袋をして、なるべく肌を出さない服装にすることも大切なんだって。
それと、山や草むらには『ツツガムシ』にも注意です。
ツツガムシって名前に『虫』って付いてるけど、実はダニの仲間。
しかも人や動物に寄生するのは主に幼虫の時で、種類によっては『つつが虫病』という感染症を媒介します。
ほんとにイノシシ一頭を食べられるようにするまでって、すごい手間が掛かるんですね。
獲る人。
運ぶ人。
解体する人。
衛生管理をする人。
料理する人。
普段は何気なく言っている『いただきます』だけど、食べ物が自分のところまで届くまでに関わった人たちにも、感謝する気持ちを忘れないようにしたいですね。
ではこの辺で。
またね。




