第8話④命を背負う
倒れたイノシシへ近づいても、健一の胸の奥にはまだ先ほどの感覚が残っていた。
感染者を倒した時とは違う。
ほんの少し前まで、目の前で必死に生きようとしていた動物。
それが今は動かない。
権蔵は感傷に浸る様子もなく、手早く次の作業へ移った。
『ぼうっとしとる暇はないぞ』
『……はい』
『仕留めたら、できるだけ早く処理する』
ロープを使ってイノシシを木へ吊り下げる。
健一と達也も指示された通りに手を貸した。
巨体は重い。
三人で力を合わせ、ようやく安定した位置まで持ち上げる。
嵯峨は少し離れたところで座っていた。
血の匂いが漂っているにもかかわらず、勝手に近づこうとはしない。
肉や内臓へ食いつくこともなく、静かに待っている。
達也がちらりと見る。
『嵯峨、全然寄ってこないな』
『猟犬として躾けられとるんじゃろ』
権蔵が答える。
山中と何度も山へ入っていたのだろう。
嵯峨にとっては、獲物を仕留めた後にどう振る舞うべきかも身についているらしい。
権蔵は首元へ刃を入れ、血抜きを進める。
それから腹部の処理へ移った。
健一は横から手元を見る。
『内臓って、全部出すんですか?』
『そうじゃ。ただし適当に腹を開けばええわけじゃない』
権蔵の動きが慎重になる。
『中を傷つけるな』
『傷つけたら駄目なんですか?』
『胆汁や消化管の中身で肉を汚せば、せっかくの獲物を台無しにすることがある』
健一は吊られたイノシシを見る。
外から見ているだけでは、どこに何があるのか分からない。
『肉だけ切ればいいって話じゃないんですね』
『当たり前じゃ。食うために獲ったんじゃから、食える状態で持ち帰らんと意味がない』
権蔵は内臓を傷つけないよう、慎重に取り出していく。
達也も少し離れたところから見ていた。
『なんか……思ってた以上に繊細な作業だな』
『お前さんらが雑にやるから、こういうことを教えとるんじゃ』
『まだ何もしてないんだけど』
作業を続けながら、権蔵は取り出した内臓の一部を地面へ置いた。
そして健一を見る。
『説明だけでは分からんじゃろ』
『何がです?』
権蔵はナイフを使い、その一部を切った。
『確認してみろ』
健一が嫌な予感のする顔になる。
『……何を?』
『においじゃ』
『いや、別に嗅がなくても――』
『一度知っとけば、次から絶対に傷つけんようになる』
達也が一歩後ろへ下がった。
『健一、頑張れ』
『なんでお前は逃げるんだよ』
『俺は権蔵さんの説明だけで十分理解した』
『ずるいぞ』
権蔵は待っている。
健一は仕方なく恐る恐る近づいた。
内臓そのものを見ても、もう驚きはしない。
病院や街で感染者を相手にしてきた。
血にも、傷にも慣れてきたつもりだった。
《においくらいなら……》
少しだけ鼻を近づける。
その瞬間。
『っ――』
鼻の奥を突き刺すような強烈な悪臭が、一気に入り込んだ。
健一の顔が歪む。
『おえっ……』
反射的に口元を押さえる。
一歩。
二歩。
後ろへ下がる。
『うええっ!』
胃が勝手に収縮した。
健一は堪えきれず、その場で吐いた。
達也も離れた場所で鼻を押さえる。
『うわっ……こっちまで来る!』
『だからお前も嗅げよ!』
『嫌だよ! 健一見て十分分かったよ!』
権蔵だけは何事もなかったように作業を続けている。
『じゃから傷つけるなと言ったじゃろ』
健一は涙目になりながら顔を上げた。
『……先にこれくらい臭いって言ってくださいよ……』
『言ったところで分からん』
『分かりたくなかった……』
感染者の血肉を目にしても、ここまで身体が拒絶したことはない。
見た目とはまるで違う。
映像では絶対に伝わらないものだった。
健一は何度も息を整えながら、一つだけ固く心に決めた。
《次にやる時は……絶対、内臓傷つけない》
権蔵の言葉の意味を、嫌というほど理解した。
◇08月11日 09時台/山道/なおみ
同じ頃。
なおみは一人、バイクで山道を走っていた。
深い霧のせいで遠くまでは見通せない。
速度を落とし、左右を警戒しながら進む。
感染者が山側へ入り込んでいないか。
いつもの巡回だった。
だが、道路脇に不自然な黒い跡が見えた。
なおみはバイクを停める。
『……なんやこれ』
なおみはバイクを降りて近づいた。
そこにあったのは焚き火の跡だった。
燃え残った木と灰があり、その周囲にも人がいた痕跡が残っている。
なおみはしゃがみ込み、灰へ指先を近づけた。
触れる。
冷たい。
『今さっきやないな……』
いつ使われたものかまでは分からない。
少なくとも、つい先ほどまで燃えていたものではなかった。
それでも、この場所で誰かが火を使ったことだけは確かだった。
感染者ではない。
人間だ。
なおみは立ち上がり、霧の向こうの道路や地面へ視線を巡らせた。
そこで、新しいタイヤの跡に気づく。
街へ向かう方向へ続いている。
『…………』
予定していた巡回範囲は、ここまでだった。
なおみはしばらくタイヤ跡を見る。
そしてバイクへ戻った。
『ちょっとだけ見とくか』
エンジンをかける。
タイヤ跡を追い、山を下り始めた。
進むほど霧が深くなっていく。
やがて数m先すら白く霞むほどになった。
なおみはさらに速度を落とす。
『見えへんなぁ……』
それでも引き返さなかった。
誰かが山へ入ってきているのなら。
敵なのか。
味方なのか。
それだけでも確かめておきたかった。
◇08月11日 10時台/山中/健一、権蔵、達也、嵯峨
同じ頃。
山の中では、イノシシの処理を終えた健一たちは、取り出した内臓を土へ埋めていた。
健一は土を戻しながら、何度も鼻の奥に残る感覚を思い出して顔をしかめる。
達也がそれに気づく。
『まだ臭う?』
『思い出させんな』
『あれは夢に出そうだな』
『お前は嗅いでないだろ』
『健一の反応見れば十分だって』
『次は絶対お前が嗅げ』
『断る』
権蔵が呆れたように二人を見る。
『遊んどらんで運ぶぞ』
運搬しやすいよう、イノシシの足を太い枝へ縛る。
健一と達也が前後に分かれ、枝を肩へ担いだ。
『せーの』
持ち上げる。
『っ……重っ!』
達也が顔を歪める。
健一も肩へ食い込む重さに耐える。
『これ、山小屋まで運ぶのか……』
『そうじゃ』
権蔵は平然と答えた。
嵯峨が三人のそばを歩く。
白い霧の中。
健一と達也は重い獲物を担ぎ、ゆっくりと山小屋への道を戻り始めた。
自分たちが仕掛けた罠で獲った、一頭のイノシシ。
まだ肉ではない。
山小屋へ持ち帰り。
解体し。
保存して。
調理して。
そこまでやって、ようやく自分たちの食料になる。
健一は肩へ伝わる重さを感じながら、霧の中を一歩ずつ進んでいった。




