第8話③霧の中のイノシシ
◇08月11日 08時台/山小屋/権蔵、健一、達也、嵯峨
出発前。
権蔵は散弾銃を手に取り、弾を確認した。
そしてスラッグ弾を入れていく。
健一がその手元を見る。
『イノシシの時はやっぱりスラッグ弾なんですね』
『そうじゃな』
一発の弾頭を撃ち出すスラッグ弾。
罠に掛かった獲物を仕留める可能性まで考えての準備だった。
健一は薪割り斧を持つ。
達也はバール。
嵯峨もすでに外へ出て、三人が出発するのを待っていた。
山小屋の周囲は、朝よりさらに白く見える。
少し離れただけで人影が薄くなるほど、霧が深い。
権蔵が二人を見る。
『今日は絶対にはぐれるなよ』
『そんなに危ないですか?』
達也が山の方を見る。
『少し離れただけで見えんようになる』
権蔵は答えた。
『知っとる道でも、霧の中では景色がまるで違って見えるからの』
『なるべく固まって動きましょう』
三人と一匹は、昨日罠を仕掛けた山へ入っていった。
◇08月11日 08時台/山中/健一、権蔵、達也、嵯峨
山の中へ入ると、霧はさらに濃くなった。
20m先どころか、場所によってはその半分も見えない。
木々は白い霧の中から突然現れ、後ろを振り返ればすぐに輪郭が消えていく。
達也が自分の服を見る。
『……雨降ってないのに、濡れてきてない?』
袖には細かな水滴が付いていた。
髪にも。
肩にも。
健一も自分の腕を見る。
『霧ってこんなに濡れるんだな』
『山の霧は甘く見るな』
権蔵が歩きながら言う。
『霧の中を長く歩いとれば、服も髪も少しずつ濡れる』
『これくらいなら平気じゃない?』
達也が言う。
権蔵は振り返った。
『濡れるというのは、山では結構危ないんじゃぞ』
達也の表情が変わる。
『そんなに?』
『服が濡れれば身体の熱を奪われる。夏でも風が吹けば体温は落ちる』
健一は濡れ始めた袖を触った。
気温だけを考えれば寒くはない。
だが服に水分が溜まり、そこへ風が当たれば話は変わる。
『低体温症ってことですか』
『そうじゃ。特に怪我をしたり、体力を消耗しとる時は危ない』
権蔵は足元を確認しながら進む。
『サバイバルで濡れるのはなるべく避ける。濡れたら乾かす。それくらい基本じゃと思っとけ』
『雨だけ気をつければいいと思ってたな……』
達也が呟く。
『雨だけじゃない。汗も同じじゃ』
『汗まで?』
『寒い時期に汗で服を濡らして、そのまま止まれば一気に身体が冷える』
『真冬に遭難した時は一滴の汗をかくと、死ぬのが一時間早まると言うくらい危険じゃ』
『マジか!』
『ハンターズジョークじゃ』
『おい!』
達也が思わず笑った。
健一は周囲の白い霧を見る。
ただ視界が悪いだけではない。
そこにいるだけで、少しずつ身体から熱を奪う水分を纏っていく。
《山って、本当に知らないことだらけだな》
昨日は地面の痕跡。
今日は霧。
街で暮らしていた頃なら、どちらもほとんど意識することはなかった。
嵯峨は三人から離れすぎることなく、時折地面の匂いを確認しながら進んでいる。
権蔵も嵯峨の様子を見ながら、昨日罠を仕掛けた場所へ向かった。
◇08月11日 09時台/山中/健一、権蔵、達也、嵯峨
五カ所のうち、最初の罠は空だった。
二カ所目も変化はない。
三カ所目へ近づいた時だった。
嵯峨の様子が変わった。
足を止める。
それまで動いていた尻尾が止まり、身体をわずかに低くする。
鼻先を霧の向こうへ向けたまま、じっと動かない。
耳も前へ向いている。
だが吠えない。
勝手に走り出すこともなく、権蔵たちのそばで警戒していた。
権蔵が小さく手を上げた。
『おるな』
健一も足を止める。
霧の中から、低い息遣いが聞こえた。
近づくにつれて地面の状態が見えてくる。
昨日まで落ち葉に覆われていた場所が、激しく荒れていた。
ワイヤーの届く範囲だけ土が掘り返されている。
落ち葉はほとんど消え、むき出しになった地面には蹄で何度も蹴った跡が残っていた。
そして、その中央。
一頭のイノシシがいた。
『……でか』
達也が思わず声を漏らす。
イノシシは動きを止めていた。
何度も逃れようと暴れたのだろう。
身体は泥で汚れ、呼吸も荒い。
片足にはワイヤーが掛かっている。
だが、人間の姿を認識した瞬間。
その様子が一変した。
身体を低くする。
『下がれ!』
権蔵の声とほぼ同時だった。
イノシシが突進する。
『うわっ!』
健一が反射的に後ずさる。
次の瞬間。
『ビィィンッ!』
張り詰めたワイヤーの音。
イノシシの身体が途中で止まった。
土が跳ねる。
健一は斧を握ったまま固まった。
『……っ』
ワイヤーがある。
罠に掛かっている。
頭では分かっている。
それでも、目の前から突進してくる巨体は想像以上の迫力だった。
イノシシが再び身体を低くする。
『まだ来るぞ』
権蔵が言う。
また突進。
『ビィィンッ!』
ワイヤーが激しく張る。
足元の土がさらに削れた。
達也の顔から、最初に見せていた興味深そうな表情が消えていく。
『……これ、罠に掛かってるから安全って感じじゃないな』
『当たり前じゃ』
権蔵が答える。
『ワイヤーの届く範囲に入れば普通に突進される』
イノシシが暴れるたび、金属の張る音が霧の中へ響く。
『それに、暴れ続ければワイヤーや固定した場所に何が起こるか分からん』
達也が一歩下がった。
イノシシがまたこちらを向く。
『ビィィンッ!』
『暴れんなよ……暴れんなよ……』
達也が引きつった顔で呟いた。
権蔵はワイヤーの届く範囲とイノシシの動きを確認してから、健一へ視線を向けた。
『健一』
『はい』
『その斧でやってみるか?』
健一は手の中の薪割り斧を見る。
そして、罠に掛かったイノシシを見た。
感染者を相手にした時とは違う。
こちらを殺すために襲ってきているわけではない。
捕まり。
逃げられず。
生きるために必死に暴れている。
健一は斧を握り直した。
だが、足は前へ出なかった。
『……いや』
権蔵が健一を見る。
『感染者には慣れても、動物には慣れんか?』
健一は答えなかった。
襲ってくる感染者を倒すのとは違う。
目の前のイノシシは、人を襲うためにここへ来たわけではない。罠に掛かり、生きるために暴れているだけだ。
自分たちは、それを食べるために仕留めようとしている。
その違いに、健一はまだ割り切れずにいた。
権蔵はそれ以上何も言わず、散弾銃を構えて狙いを定める。
引き金を引いた瞬間、銃声が山に響き、スラッグ弾がイノシシの頭部へ命中した。
巨体が崩れ落ちた。
さっきまで激しく張り詰めていたワイヤーも、動かなくなった。
健一は倒れたイノシシを見つめた。
権蔵は銃を下ろす。
『ここからが仕事じゃ』
三人は周囲を確認しながら、慎重にイノシシへ近づいていった。
■唯のサバイバルメモ
・今日のテーマ:霧
皆さんこんにちは。唯です。
今回のお題は『霧』についてです。
山の霧って、ただ遠くが見えなくなるだけじゃないんだって。
霧は、湿った空気が冷やされて、空気中の水蒸気が小さな水滴になったものです。
暖かく湿った空気が冷たい空気や地面に触れた時なんかにも発生しやすくなります。
だから濃い霧の中を長く歩いていると、髪や服がどんどん湿ってきます。
しかも湿度が高い時は、季節によって注意することも変わります。
夏なら、汗が蒸発しにくくなって身体の熱を逃がしにくくなるので、すごく蒸し暑く感じます。
『蒸し暑い』って、汗をかいてるのに身体を冷やしにくい状態でもあるんですね。
逆に寒い時は、霧や水滴で服が濡れると身体が冷えやすくなります。
暑い時は熱が逃げない。
寒い時は濡れて熱を奪われる。
霧って、気温によって全然違う意味で体温管理が大変なんですね。
……今日はちょっと体調がよくないので、この辺で。
またね。




