第8話②眠れない男
◇08月10日 23時台/山小屋/健一、唯
焚き火の炎が小さくなった頃、健一と唯も山小屋へ戻った。
中では、それぞれが寝る準備を終えようとしている。
外で話していたことを、健一も唯も誰かに話すことはなかった。
やがて灯りが落とされる。
暗闇の中。
七人と一匹は、それぞれの場所で身体を横たえた。
山小屋の外では、夜の山を霧がゆっくりと覆い始めていた。
◇08月11日 02時台/山小屋/健一、唯、夏帆、権蔵、なおみ、美樹
静かな寝息だけが聞こえる山小屋。
健一も。
唯も。
夏帆も。
権蔵も。
美樹も。
なおみも眠っている。
だが――。
達也の姿だけがなかった。
◇08月11日 02時台/山小屋前/達也
山小屋の外。
達也は一人、ベンチに座っていた。
指の間には火のついたタバコ。
白い煙を吐くと、それは夜の霧へ溶けるように消えていった。
眠れなかった。
疲れていないわけではない。
むしろ身体は疲れている。
それでも目を閉じると、余計なものが浮かんでくる。
達也はタバコを見つめた。
赤く燃える先端。
その向こうに、パンデミックが始まった頃の街が重なる。
ドローンを飛ばしていた。
人のいなくなった道路。
放置された車。
逃げ回る人々。
感染者。
上空からなら、よく見えた。
感染者に追われている人間も。
逃げ切れずに捕まる人間も。
それを達也は安全な場所から見ていた。
助けに行かなかった。
いや――行けなかった。
『……あの時、助けられた奴もいたのかな……』
小さな声が漏れた。
答える者はいない。
達也自身、分かっている。
ドローンで見つけた誰かを助けるために飛び出していたら。
その場所へ着く前に状況が変わっていたかもしれない。
助けられたどころか、自分まで感染者に襲われて死んでいた可能性の方が高い。
《分かってるんだけどな》
分かっていることと、考えなくなることは別だった。
タバコを口へ運ぶ。
煙を吸い込む。
そのタバコを手に入れた時の光景が、今度は頭に浮かんだ。
白い軽ワゴン。
車内に残されていた物。
そして――笑顔の家族写真。
写真の中では、家族全員が笑っていた。
その家族の一人だったであろう男は、感染者になっていた。
もう人を襲う存在になっていた。
だから健一が殺した。
生き延びるために。
そうするしかなかった。
達也は煙を吐き出す。
《感染したら病人……だよな》
病気になった。
ウイルスに感染した。
ただそれだけなら、本来は治療される側の人間だ。
それなのに。
感染者になれば殺していい。
自分たちはそうしている。
『……何なんだろうな』
答えは出ない。
人を襲うから。
こちらが殺されるから。
放っておけば別の誰かも襲われるから。
理由ならいくらでも並べられる。
だが、それで何も感じなくなるわけではない。
あの白い軽ワゴンにあった家族写真。
あの男の家族は、今どこにいるのだろう。
生きているのか。
それとも――。
達也はそこで考えるのをやめた。
短くなったタバコを見る。
『……考えても仕方ねぇか』
自嘲するように笑った。
吸い殻の火を確実に消す。
立ち上がり、山小屋を見る。
中には今、一緒に生きている仲間たちがいる。
達也は扉を静かに開けた。
誰も起こさないよう、音を立てずに中へ戻っていった。
◇08月11日 06時台/山小屋前/美樹
朝。
美樹が目を覚まし、靴を履いて外へ出た。
扉を開けた瞬間。
『……うわ』
思わず声が漏れる。
真っ白だった。
昨日までの薄い霧とは違う。
深い霧が山小屋の周囲を覆い、少し離れた木々さえ輪郭がぼやけている。
美樹が外へ出ると嵯峨が付いてきた。
美樹は山中の家から持ってきたドッグフードを器へ入れた。
『嵯峨、ご飯だよ』
嵯峨が食べ始める。
その間に、美樹はいつものベンチへ座った。
手には『猟犬のしつけ方』の本。
最近では、朝に外で何かを読むことが半ば日課になっていた。
今日読んでいるのは、犬へ指示を出す時に使うハンドサインの項目だった。
『声だけじゃなくて、手でも覚えさせるんだ……』
本に描かれた図を見る。
食事を終えた嵯峨が、美樹の方を見る。
『じゃあ、ちょっとやってみる?』
美樹は本を横へ置いた。
まずは嵯峨の注意を自分へ向ける。
それから本で見た通りに手を動かす。
嵯峨は美樹の手をじっと見ていた。
『……分かってる?』
返事はない。
当然だった。
それでも、美樹が次の動きをすると、嵯峨の視線もそれを追う。
『おお……ちゃんと見てる』
美樹は少し嬉しそうに笑った。
すぐにできなくてもいい。
自分が空気銃を覚えているのと同じだ。
少しずつ。
できることを増やしていけばいい。
やがて山小屋の中から物音が聞こえ始めた。
皆が起きる時間だった。
朝食の準備が始まる。
夏帆は起きてきた唯の顔を見ると、すぐにいつもと違うことに気づいた。
『唯ちゃん、今日は調子悪い?』
唯は少し間を置いてから頷いた。
『……ちょっと痛い』
夏帆の表情が真剣になる。
『どのくらい?』
唯は今の状態を伝える。
夏帆はそれを聞きながら体調を確認していった。
朝食後。
唯の痛みが治まらないため、夏帆は痛み止めを追加した。
『今日は無理しないで休んでて』
『うん……』
『洗濯は私がやるから』
『でも、少しくらいなら――』
『駄目。今日は休む日』
唯は少し不満そうに夏帆を見る。
夏帆は譲らない。
『分かった?』
『……はい、夏帆さん』
そのやり取りを見ていた健一も、唯の様子が気になっていた。
だが夏帆がそばにいる。
今は任せることにした。
朝食を終えると、その日の役割が自然に決まっていった。
権蔵、健一、達也は嵯峨を連れ、昨日仕掛けた五カ所のくくり罠を確認する。
夏帆は山小屋に残り、唯の様子を見ながら洗濯。
唯は休養。
美樹は射撃練習と読書。
なおみはバイクで周囲を回り、感染者が山へ近づいていないか確認する。
権蔵は窓の外を見た。
白い霧。
『今日はかなり深いな』
健一も外を見る。
山道は少し先までしか見えない。
権蔵が言う。
『山へ入る時は、いつも以上にはぐれんよう気をつけるぞ』
『はい』
健一は頷いた。
◇08月11日 07時台/山小屋前/美樹、達也
昨日、夏帆が洗って干していた衣類は、深い霧のせいでほとんど乾いていなかった。
美樹は一枚ずつ状態を確かめながら、いったん軒下へ移していく。
その途中。
美樹の目が止まった。
達也が脱いだ服が、まとめられることもなくその辺に放りっぱなしになっている。
『…………』
美樹は洗濯物を抱えたまま振り返った。
『達也!』
『んー?』
『脱いだものくらいちゃんとまとめといてよ!』
達也は面倒そうに振り向く。
『朝からイライラしすぎだろ。生理?』
『…………』
美樹の顔から表情が消えた。
達也の口元から笑みも消える。
『……あれ?』
美樹は何も答えなかった。
落ちていた服を拾い、抱えていた洗濯物と一緒にまとめる。
そのまま達也の横を通り過ぎた。
『いや、美樹さん?』
返事はない。
『美樹?』
完全に無視された。
達也は立ち尽くす。
遠ざかっていく美樹の背中を見る。
『無視が一番傷つくんだけど……』
もちろん、美樹は振り返らなかった。




