第7話⑥山を読む
◇08月10日 10時台/山中/健一、権蔵、達也、嵯峨
女性たちのジムニーが山小屋を離れてしばらくした頃。
健一たちも出掛ける準備を始めていた。
目的は、朝に権蔵から教わっていた罠。
今度は説明を聞くだけではなく、実際に山へ入ってイノシシ用のくくり罠を仕掛けることになった。
女性陣が戻ってきた時に誰もいなければ心配するかもしれない。
健一は簡単な置き手紙を書き、山小屋の中へ残した。
『これでいいかな』
『どこ行ったか分かれば十分じゃろ』
権蔵が罠に使う道具を確認する。
健一。
権蔵。
達也。
そして嵯峨。
三人と一匹で山へ入った。
達也が歩きながら空を見上げる。
『今日8月10日か』
『そうだな』
健一が答える。
達也は少しだけ笑った。
『……野獣の日にイノシシ狩りとは、縁起がいいねえ』
権蔵が振り返る。
『なんじゃ、野獣の日とは?』
『知らなくていいよ、権蔵さん』
『なんじゃそれは』
権蔵はそれ以上相手にせず、山道へ視線を戻した。
『ほれ。遊んどらんで地面を見ろ』
『地面?』
『獣を探すんじゃ』
達也は木々や草、落ち葉に覆われた地面を見回した。
だが、どこを見てもただの山の地面にしか見えない。
『……何もいなくない?』
『姿を探せとは言っとらん』
権蔵はしゃがみ込んだ。
健一と達也も近づく。
地面には獣の足跡が残っていた。
権蔵が一つを指す。
『これはイノシシじゃ』
少し離れた別の跡も示す。
『こっちは鹿じゃな』
健一は二つを見比べる。
『違うのは分かりますけど……パッと見だと判断難しいですね』
『慣れじゃ』
権蔵は足跡の形を見ながら説明する。
同じように見える蹄の跡でも、形が違う。
さらに跡そのものだけではない。
土の崩れ方。
落ち葉の沈み方。
どの程度新しい跡なのか。
そこから、いつ頃その獣が通ったのかも推測できるという。
達也は地面と権蔵を交互に見る。
『そんなの分かる?』
『分かる』
即答だった。
『俺にはただの足跡にしか見えないんだけど』
『じゃから覚えるんじゃ』
さらに進む。
権蔵が突然、足を止めた。
『ここじゃ』
健一が周囲を見る。
『足跡ですか?』
『いや』
権蔵は木々の間を指した。
そこには蜘蛛の巣が張られていた。
ただし、一部が切れている。
『蜘蛛の巣……?』
『切れとるじゃろ』
達也が首を傾げる。
『そりゃ切れることくらいあるんじゃない?』
『もちろんある。じゃが、周りを見れば獣が通った可能性があるかどうか分かる』
権蔵はさらに地面へ目を向ける。
わずかに乱れた落ち葉。
普通なら見逃してしまうほど小さな変化だった。
『これもじゃ』
健一がしゃがむ。
『……何があるんです?』
『落ち葉が不自然に立っとる』
達也も見る。
『いや、全然分からん』
『獣が踏んで返った跡じゃ』
『マジで?』
権蔵は気にせず進む。
二人もその後を追った。
嵯峨も時折地面の匂いを嗅ぎながら歩いている。
少し進んだところで、権蔵が倒木の前に止まった。
木の表面を確認する。
『ここに擦れた跡がある』
健一も見る。
確かに、樹皮の一部が削れている。
『つまりシシが飛び越えた証拠じゃ』
権蔵は倒木の向こう側へ回る。
『こういう場所は狙い目になる』
『なんでです?』
『飛び越えれば、着地する場所がある程度決まるからじゃ』
権蔵はイノシシが足を着く位置を見極め、その周辺を確認していく。
罠を仕掛ける場所を決めるにも、ただ獣道らしき場所を選べばいいわけではない。
権蔵は土や石、木の根など、周囲の状態を一つずつ確認していく。
少し離れた場所で、権蔵が首を横に振った。
『ここはダメじゃな』
健一が見る。
『何か問題あるんですか?』
『石が地面に沢山埋まっとる』
権蔵は土の中から顔を出している石を指した。
『こういう所に罠を仕掛けると、獲物が暴れた時にワイヤーが切れてしまうんじゃ』
達也はしばらく地面を見つめた。
『……いや、さっきから全部同じ地面に見えるんだけど』
健一も苦笑する。
『俺もまだ半分くらいしか分かってないです』
『半分も分かっとらんじゃろ』
権蔵が即座に返す。
『ですよね』
達也が笑う。
権蔵は周囲を確認しながら、仕掛ける場所を選んでいく。
二人はそのたびに説明を聞いた。
足跡や獣道を探し、残された痕跡がどれくらい新しいものなのかを見極める。
さらに周囲の小さな変化から、獣がどう動いたのかを読む。
罠そのものを扱う以上に、その前段階が長かった。
健一は朝に権蔵が言っていた意味を少しずつ理解していく。
《罠だけ作れても駄目、か》
道具を持っているだけでは獲れない。
獲物がどこを通るのか。
何を見れば分かるのか。
それを知らなければ、そもそも仕掛ける場所すら選べない。
権蔵に教わりながら、三人は山の中を移動していった。
最終的に、イノシシが通る可能性の高い場所を選び、くくり罠を五カ所へ仕掛けた。
最後の一カ所を終えると、権蔵が立ち上がる。
『今日はこれでええじゃろ』
達也が腰へ手を当てた。
『俺、罠の仕掛け方より、地面見る方が疲れたんだけど』
『最初はそんなもんじゃ』
『権蔵さんと同じものが見えるようになる気がしない』
『何年も山を見とるからの』
健一は最後に周囲を見渡した。
来る時とは景色が少し違って見える。
それでも、権蔵が見つけた痕跡のほとんどは、自分だけなら見落としていただろう。
三人と嵯峨は、仕掛けた場所を確認してから山小屋へ戻った。
◇08月10日 15時台/山小屋/健一、唯、夏帆、権蔵、達也、なおみ、美樹
女性たちが戻ってきたあと、七人は遅めの昼食を囲んだ。
罠を仕掛けに行っていた男たちも腹を空かせていたが、達也は食事より先に別のことが気になっていた。
鼻をひくつかせる。
『……なんか良い匂いがするな』
女性陣の動きが一瞬止まった。
唯。
夏帆。
なおみ。
美樹。
四人は何食わぬ顔で食事を続ける。
久しぶりに石鹸で身体を洗い、天然温泉へ入ってきたばかりだった。
達也がさらに周囲を嗅ぐ。
『なんだろ。毛穴から女性ホルモン出てそう』
健一が箸を止める。
『毛穴から女性ホルモンってなんだよ』
『いや、なんか今日みんな女子力高くね?』
健一も女性陣を見る。
言われてみれば、どことなくさっぱりしている。
髪も。
肌も。
それに確かに石鹸の香りがした。
『……どこ行ってたんだ?』
夏帆がなおみを見る。
なおみが美樹を見る。
美樹が唯を見る。
唯も三人を見る。
そして四人同時に。
『ふっふっふ』
意味ありげに笑った。
達也が眉を寄せる。
『なんだよ、その勝ち誇った顔』
誰も答えない。
なおみは楽しそうに食事を続ける。
美樹も笑っている。
夏帆も何も教える気はないらしい。
唯まで少し得意げだった。
健一と達也だけが事情を知らない。
この山に詳しい権蔵は何かに気が付いたようだったが口を閉じていた。
達也は納得いかない顔で箸を動かした。
『絶対なんかあっただろ』
『さあ?』
美樹がとぼける。
『怪しい……』
健一も唯を見る。
『唯、教えてくれるよな?』
唯は兄を見つめる。
一瞬だけ迷ったような顔をして――。
にこっと笑った。
『秘密』
『お前まで!?』
女性たちの笑い声が食卓に広がった。
昨日の夜には消えていた賑やかさが、山小屋へ戻っていた。




