第7話③嵯峨の新しい朝
◇08月10日 05時台/山小屋前/美樹
山小屋の周囲には、薄い霧が立ち込めていた。
まだ空は完全には明るくなっていない。
木々の輪郭も白い靄の向こうへ溶け込み、遠くの山はほとんど見えなかった。
皆が眠っている中、美樹は一人で山小屋を出ていた。
外のベンチへ腰を下ろす。
膝の上には、一冊の説明書。
ベンチの横には、ケースから取り出した空気銃が置かれている。
昨日、山中の家から持ち帰ったプレチャージ式の空気銃だった。
美樹は説明書のページをめくる。
『……ここが空気を入れるところで……』
これまで権蔵から教わっていたマルチポンプ式とは構造が違う。
分からない言葉が出るたび、少し前のページへ戻る。
また読む。
今度は説明書に載っている図と、実物の空気銃を見比べる。
『これか』
銃には触れるが、銃口の向きだけは意識する。
昨日までに権蔵から何度も言われたことだった。
《安全装置が掛かっていても、人には向けない》
《撃つと決めるまでは、引き金に指を掛けない》
美樹は説明書を読み進めた。
一度で全部理解できるとは思っていない。
それでも、使い方が分からないまま持っていても意味がない。
もしまた感染者に襲われたら。
もし今度は誰かを守る側になったら。
少なくとも、自分の武器くらいは自分で扱えるようになっていたかった。
隣では嵯峨が座っていた。
時折、霧の向こうの山へ顔を向ける。
美樹は説明書から目を上げた。
『…………』
昨日の夜。
主人の墓の前に座り込んでいた嵯峨の姿を思い出す。
ただ手を伸ばし、頭を軽く撫でる。
嵯峨は嫌がる様子もなく、その場へ伏せた。
美樹はもう一度、説明書へ目を戻した。
白い霧に包まれた静かな朝。
聞こえるのは、ページをめくる小さな音だけだった。
◇08月10日 06時台/山小屋前/美樹、達也、嵯峨
山小屋の扉が開いた。
寝起きの達也が外へ出てくる。
手にはタバコ。
朝の空気を吸い込みながら、美樹の姿に気づいた。
『朝っぱらから勉強か?』
美樹が説明書から顔を上げる。
『使い方分かんないまま持ってても意味ないでしょ』
『そりゃそうだけど』
達也は美樹の隣へ腰を下ろした。
タバコを咥え、火をつける。
煙をゆっくり吐き出す。
しばらく美樹が説明書を読む音だけが続いた。
達也は隣に伏せている嵯峨を見る。
それから美樹へ視線を戻した。
『昨日あんなことがあったばっかなのに、元気だな』
美樹の指がページの端で止まった。
少しの沈黙。
『……だからでしょ』
それ以上は何も言わなかった。
達也も聞かなかった。
美樹は説明書を閉じ、立ち上がる。
山中の家から持ち帰ったドッグフードを取り出した。
器へ入れる。
『嵯峨、ご飯だよ』
その声に反応して、嵯峨が起き上がった。
器の前へ移動し、食べ始める。
美樹はその隣へしゃがんだ。
達也もタバコを吸いながら、黙って嵯峨を眺める。
二人とも、山中のことは口にしなかった。
朝の霧は少しずつ薄くなり始めていた。
◇08月10日 07時台/山小屋/健一、唯、夏帆、権蔵、達也、なおみ、美樹
全員が起きる頃には、山の空も明るくなっていた。
七人で朝食を囲む。
だが、いつものような賑やかさはなかった。
達也も冗談を言わない。
なおみも静かに食べている。
昨夜のことを詳しく聞く者はいなかったが、誰もが何があったのか分かっていた。
権蔵は食事をしながら、山小屋の中を見回した。
健一。
唯。
夏帆。
達也。
美樹。
なおみ。
権蔵。
最初は四人だった。
それが今では七人いる。
権蔵が箸を置いた。
『……前に話したことを、そろそろ考えんといかんかもしれんな』
健一が顔を上げる。
『前に話したこと?』
『お前さんが言っとったじゃろ。生存者が増えたら、近くのキャンプ地なんかを使えんかとな』
健一は少し考え――思い出した。
まだ唯と夏帆を病院から連れ出したばかりの頃。
四人で、この先どう生きるのか話した時だ。
『ああ……。ここじゃ人数が増えたら狭いって話でしたね』
『あの時はまだ四人じゃった。今は七人おる』
達也が室内を見回した。
寝る場所。
荷物。
食料。
山中の家から持ち帰った物資まで増えている。
『確かに、これ以上増えたら結構きついな』
『街にはまだ生存者がいる可能性もあるものね』
達也がドローンで何人かを目撃している。
自分たちの知らないところで、まだ生き延びている人間がいるかもしれない。
権蔵は続けた。
『それに食い物のこともある。前にも話したが、いつまでも街から拾ってくるだけでは暮らしていけん』
『狩猟と農業の準備もしていくって話ですね』
『うむ。狩りは少しずつ始めとるが、畑は作ったところですぐ食えるようにはならん。長くここで生きるなら、そろそろ先のことも考えておいた方がええ』
美樹は昨日、自分で獲ったキジを思い出す。
一羽を捕まえるだけでも、多くの時間と手間がかかった。
七人。
これからさらに人が増える可能性もある。
狩猟だけで全員の食料を安定して確保するのは簡単ではない。
なおみが言った。
『人が増えても暮らせて、畑なんかも作れる場所が必要ってことやな』
『そういうことじゃ』
健一は机の上に置かれている周辺地図へ目を向けた。
『じゃあ、前に話してたキャンプ地も一度見ておいた方がいいですね』
『そうじゃな』
権蔵も地図を見る。
『すぐに山小屋を出る必要はない。ここを拠点に物資を集めながら、長く暮らせそうな場所も少しずつ探していこう』
皆が頷いた。
山小屋は比較的安全だった。
井戸があり、周囲を山に囲まれ、街からも離れている。
さらに主要な道路だった場所はダンプカーや土砂崩れで塞がれている。
天然の要塞のような安心感があった。
だが、仲間が増えれば必要な場所も物資も増える。
今までは目の前の一日を生き延びることだけで精いっぱいだった。
少しずつ。
その先の暮らしまで考えなければならなくなっていた。
◇08月10日 08時台/山小屋周辺/健一、権蔵、達也、美樹、嵯峨
朝食を終えると、それぞれが作業を始めた。
まずは達也と健一が犬小屋を組み直す。
嵯峨が匂いを嗅いで中へ入って行く。
達也が井戸から水を汲んできて、嵯峨用の皿に注いでいく。
嵯峨は犬小屋から顔を出して飲み始めた。
その後、健一は山小屋に入り山中の家から持ち帰った罠の材料を床へ並べていた。
金属部品。
ワイヤー。
見慣れない道具。
一つ手に取り、権蔵へ見せる。
『これ、どうやって使うんですか?』
権蔵が隣へ座る。
『罠にも色々ある。獲物と場所によって使い分けるんじゃ』
健一は権蔵の手元を見る。
『これを組めば捕まえられるってわけじゃないんですね』
『罠だけ作れても駄目じゃ』
権蔵は材料を置き、外の山へ視線を向けた。
『いきなり全部覚えんでもええ。まずはどういう場所に獣が通るのか、それを見るところからじゃ』
『獣の通る場所?』
『そうじゃ。足跡や通った跡を見る。それが分からんのに、適当な場所へ罠だけ置いても掛からんからな』
健一は罠の材料を見た。
キャンプ用品とは違う。
作り方だけ覚えれば使える道具ではないらしい。
『……奥が深そうですね』
『山はそう簡単じゃないぞ』
少し離れた場所では、達也が嵯峨と遊んでいた。
『ほら!』
拾った枝を投げる。
嵯峨が勢いよく走り出した。
枝のところまで行き、口に咥える。
そしてそのまま達也のところへ戻ってきた。
『おお、ちゃんと持ってくるじゃねぇか。賢いな、お前』
達也が枝を受け取る。
嵯峨は次を待つように見上げていた。
その様子を、美樹が少し離れたところから見ている。
手には、山中の家から持ってきた『猟犬のしつけ方』の本。
美樹はページをめくりながら、本に書かれている内容と嵯峨の様子を何度も見比べた。
昨日まで、美樹にとって嵯峨は山中が残した犬だった。
だがページに書かれた猟犬のことを読みながら、少しずつ興味が湧き始めていた。
達也がまた枝を投げる。
嵯峨が走る。
美樹はその動きを目で追いながら、次のページをめくった。
■唯のサバイバルメモ
・今日のテーマ:ドッグハンドラー(軍用犬、猟犬、警察犬を扱う人)
皆さんこんにちは。唯です。
今回のお題は『ドッグハンドラー』についてです。
犬の嗅覚って、人間よりずっと優れているんだって。
種類やニオイによって差はあるけど、人間の1000倍とも、それ以上とも言われています。
すごいね!
嵯峨もそれくらいあるのかな?
昔から何かを追跡する時に、犬の嗅覚に頼ってきたのも頷けるね。
そしてここからが本題です。
もし捕虜になって、そこから脱走した時に軍用犬に追いかけられたとします。
その時に犬を殺したらどうなるか?
『SASサバイバル・マニュアル』の『回避』の項目では、軍用犬を殺してそのハンドラーに捕まった場合、酷い拷問を受ける可能性があると書かれています。
犬って、ずっと一緒に過ごしている人にとっては、ただの動物じゃなくて相棒や家族みたいな存在になるんですね。
それに犬に追いつかれた時点で、その後ろにはハンドラーや兵士もいるわけで……。
もう逃げ切れないなら、犬を殺して抵抗するより投降した方がいいのかも?
だから権蔵さんも、『犬に追跡されても、殺すのは最後の最後にしろ』って言ってました。
みんなも軍用犬に追いかけられるようなことはしないでね!
とにかく!
犬に罪はありません。
嵯峨みたいな子だったら絶対に殺さないでね!




