第3話③帰らない二人
◇08月07日 16時台/渓流沿い/唯、夏帆
しばらくして、夏帆がゆっくりと立ち上がった。
膝にまだ力が入りきらない。
視線を落とすと、自分の服には感染者の血が広く付着していた。
顔や腕にも赤黒い跡が残っている。
『……これ、洗わないと』
唯も立ち上がった。
二人は動かなくなった感染者をその場に残し、すぐ近くを流れる渓流へ向かった。
夏帆は水辺へしゃがみ込む。
冷たい水を両手ですくい、まず顔を洗った。
何度も。
何度も。
腕についた血も擦り落とす。
服は水へ浸し、汚れた部分を揉むように洗った。
透明だった水に赤が混じる。
薄く広がり、そのまま下流へ流れていった。
それでも染み込んだ血は簡単には消えない。
夏帆は黙ったまま洗い続けた。
隣では、夏帆から剣ナタを受け取った唯が洗い始める。
刃にも血がこびりついている。
唯は渓流の水へ浸し、慎重に洗い流していった。
さっき、この刃を夏帆が何度も感染者へ振り下ろしていた。
思い出すと、胸が苦しくなる。
だが怖いだけではなかった。
あの時、夏帆が来てくれなければ。
自分はあの感染者に掴まれていた。
噛まれていたかもしれない。
夏帆が突然、口を開いた。
『……ごめんね』
唯は顔を上げた。
『え……?』
夏帆は服を洗う手を止めない。
『怖かったよね』
唯はすぐには答えられなかった。
夏帆の顔。
服。
剣ナタ。
全部が血まみれになった光景は、今も鮮明に残っている。
少し考えてから、唯は首を横に振った。
『夏帆さんが来てくれなかったら……私、噛まれてたと思います』
夏帆の手が止まる。
『…………』
『助けてくれて、ありがとうございます』
夏帆はしばらく唯を見つめた。
それから、小さく頷いた。
『……うん』
もう一度、服を水へ浸す。
それ以上、二人とも何も言わなかった。
唯は剣ナタについた最後の血を洗い流し、水から引き上げた。
昨日まで山菜や枝を切るための道具だった剣ナタには、この日初めて感染者の血が付いた。
渓流の水の流れは夏帆たちの恐怖心まで洗い流す事は出来なかった。
◇08月07日 17時台/山小屋への道/唯、夏帆
日が傾き始めていた。
『暗くなる前に戻ろう』
夏帆の言葉に、唯が頷く。
採取した野草や山菜をまとめ、二人は山小屋へ向かって歩き始めた。
来る時とは違い、二人の足取りは慎重だった。
風で枝が揺れるだけで、唯はそちらを見る。
草むらから物音がすれば、夏帆はすぐに足を止めた。
夏帆の手には剣ナタがある。
血は洗い落とした。
だが今度は腰へ戻さず、すぐ使える位置に持っていた。
そして唯を自分から離れさせない。
『唯ちゃん、あんまり先に行かないでね』
『はい』
『私の近くにいて』
『分かりました』
二人は何度も周囲を確認しながら歩いた。
もう感染者とは遭遇しなかった。
山小屋が見えた時、唯はほっと息を吐く。
だが同時に、建物の前へ目を凝らした。
軽トラックはない。
『……まだ帰ってない』
夏帆も確認する。
健一と権蔵は朝から街へ出たままだった。
『きっと、まだ物資を探してるんだよ』
『……はい』
唯はそう答えながらも、山道を一度振り返った。
◇08月07日 18時台/山小屋/唯、夏帆
日が暮れる前に、二人は夕食の準備を始めた。
採ってきた野草や山菜を選り分ける。
夏帆が食べられる物をもう一度確認し、唯も隣で手伝った。
『これは大丈夫』
『はい』
『こっちも使おうか』
『分かりました』
材料の準備までは順調だった。
問題は、その後だった。
『……火、つかないですね』
唯がしゃがみ込んだまま呟く。
『もう一回やってみよう』
普段なら、料理をするために火を起こすことなど考える必要もなかった。
スイッチを押す。
つまみを回す。
それだけで済んだ。
だが今は違う。
二人は慣れない手つきで火を起こそうとしていた。
ようやく小さな炎がつく。
『あっ、ついた!』
唯の顔が明るくなる。
『そのまま、そのまま……』
夏帆が慎重に薪を加える。
炎が少し大きくなった。
二人で見守る。
数秒後。
ふっ。
『……消えた』
『消えましたね……』
夏帆が額へ手を当てた。
『もう一回』
『はい』
二人は薪の組み方を変え、もう一度最初からやり直した。
ようやく火がついたものの、今度は煙が唯の方へ流れてくる。
『けほっ……』
『大丈夫?』
『大丈夫です』
『煙、吸い込まないようにね』
その後も火が弱くなるたびに薪の位置や空気の通り道を調整し、二人で悪戦苦闘しながら少しずつ炎を育てていった。
『料理するだけで、こんなに大変なんですね……』
『本当ね』
夏帆が苦笑した。
『今まで当たり前に使ってたものって、すごかったんだなって思う』
唯も炎を見ながら頷く。
ようやく火が安定した。
そこから採ってきた食材を使い、二人で少しずつ調理を進める。
味を確認する。
火加減を見る。
慣れないことばかりで、思っていた以上に時間がかかった。
外は徐々に暗くなっていった。
◇08月07日 20時台/山小屋/唯、夏帆
『……できた』
唯が呟いた。
ようやく夕食が完成した。
二人で作った料理が食卓に並んでいる。
火起こしから始めたせいで、簡単な食事を用意するだけでもかなりの時間がかかった。
唯は少し嬉しそうに料理を眺める。
だが、すぐに窓の外へ目を向けた。
暗い。
山道には何も見えない。
エンジン音も聞こえない。
『お兄ちゃんたち……遅いですね』
夏帆も窓を見る。
朝に出発してから、すでに十三時間。
『……そうね』
『何かあったのかな』
唯の声が沈む。
夏帆はすぐに答えた。
『まだそう決まったわけじゃないよ。街じゃ道路も壊れてるし、昨日みたいに迂回しなきゃいけない場所もあるかもしれないから』
『でも、もう暗いですよ』
『うん』
夏帆も不安だった。
それを顔には出さないようにする。
窓の外を見たあと、山小屋の中へ視線を戻した。
『唯ちゃん。念のため、今夜は二人でもここを守れるようにしておこう』
『……守る?』
『病院でやったみたいに、感染者が入ってこられないようにするの』
唯の表情が引き締まる。
『分かりました』
二人はすぐに本棚を窓際へ動かし始めた。
『せーの』
『んっ……!』
一人では動かせない重さだったが、二人で力を合わせると、本棚は床を擦る音を立てながら少しずつ動いていく。
窓を塞ぐ位置まで運び終えると、次は食器棚に取りかかった。
唯も無理をしすぎないよう、夏帆と力を合わせた。
別の窓を塞ぐ。
最後に玄関。
扉の鍵を確認し、つっかえ棒をする。
夏帆は一度外へ通じる場所をすべて確認した。
『これなら、いきなり入ってくることはないと思う』
唯が頷く。
食卓へ戻る。
せっかく作った料理が並んでいる。
だが二人とも座っただけで、箸には手を伸ばさなかった。
唯は健一の分の料理を見る。
『……待っててもいいですか?』
夏帆は唯を見る。
『うん』
権蔵の分もある。
健一の分もある。
二人が戻ってくれば、四人で食べられる。
『もう少し待とう』
『はい』
唯は窓を塞いだ本棚へ視線を向けた。
その向こうにある山道から、軽トラックのエンジン音が聞こえてくるのを待った。
食卓の料理には、まだ誰も手をつけなかった。




