第3話②初めて殺した
◇08月07日 13時台/山小屋近くの渓流/唯、夏帆
──健一と権蔵がガソリンスタンドへ向かっていた頃。
渓流沿いには、絶え間なく水の流れる音が響いていた。
唯と夏帆は、食べられる野草や山菜を探しながらゆっくり歩いていた。
午前中に教えてもらった植物を思い出しながら、唯は足元や木々の根元へ目を向ける。
少し前までなら、山に生えている草などほとんど気にしたこともなかった。
今は違う。
食べられるもの。
触らない方がいいもの。
似ていても危険なもの。
一つずつ覚えていかなければならない。
『夏帆さん、これは?』
『それは違うかな』
『じゃあ、こっち』
『うん。それは採って大丈夫』
唯は教えられた植物を慎重に摘み、持ってきた袋へ入れた。
少しずつだが、自分でも見分けられるものが増えてきている。
それが嬉しかった。
さらに渓流沿いを進んでいく。
ふと、唯の目に一本の枝が留まった。
樹皮の一部が剥がれ、その下から黄色っぽい木肌が露出している。
周囲の木とは少し違って見えた。
『夏帆さん、見てください。なんかこの枝、綺麗ですね』
唯が興味を持ち、手を伸ばす。
その瞬間。
『唯ちゃん、それ触っちゃダメ!』
『えっ?』
驚いて、唯は慌てて手を引っ込めた。
あと少しで指先が触れるところだった。
夏帆がすぐ隣まで来る。
『それ、漆だと思う』
『漆……?』
唯は改めて枝を見る。
名前は知っている。
だが、実際に生えているものを見たことはなかった。
『うん。触るとかぶれることがあるから、素手では触らない方がいいよ』
唯は反射的に一歩離れた。
先ほどまで綺麗だと思っていた枝が、急に危険なものに見えてくる。
『見るだけなら大丈夫ですか?』
『見るだけなら大丈夫。でも、分からない木や草にはあんまり触らない方がいいかな』
『草だけじゃなくて、木にも危ないものがあるんですね……』
『あるよ。それに漆は、触らなければ絶対に大丈夫ってわけでもないから』
唯が首を傾げた。
『……どういうことですか?』
夏帆は少し考え、身近な例を挙げた。
『例えば、焚き火の薪』
『薪?』
『知らないで漆の木を薪にして燃やしちゃうと、煙でもひどい症状が出ることがあるの。吸い込んで呼吸が苦しくなることもあるから危ないよ』
唯は漆の枝をじっと見つめた。
『……知らなかったです』
『山にある木なら何でも薪にしていいってわけじゃないからね』
『じゃあ、火を起こす時も何の木か確認しないといけないんですね』
『そういうこと』
唯は困ったように笑った。
『覚えることいっぱいありますね……』
『ふふっ。いきなり全部覚えなくていいよ』
『でも、覚えたいです』
夏帆はそんな唯を見て、少し微笑んだ。
『じゃあ、まずは分からないものには触らない。食べない。燃やさない』
唯は忘れないように復唱する。
『触らない、食べない、燃やさない……』
『それだけ覚えておけば、知らないものを適当に触るよりずっと安全だから』
『はい』
唯はもう一度、漆の特徴を目で確認した。
黄色っぽく見える木肌。
樹皮。
周囲の葉。
次に見つけた時、自分でも気づけるように。
その後も二人は渓流沿いを歩いた。
唯は気になる植物を見つけるたび夏帆へ尋ねる。
食べられる。
食べられない。
似ているから注意する。
触らない方がいい。
一つ聞くたび、知らなかったことが増えていく。
これまでなら知らなくても困らなかった知識ばかりだった。
食べ物は店で買えた。
火を使うなら、スイッチを入れればよかった。
知らない草木に触れる必要もなかった。
だが今は、その何気ない判断一つが危険につながるかもしれない。
唯は夏帆から聞いたことを、できるだけ覚えようとしながら歩き続けた。
◇08月07日 16時台/渓流沿い/唯、夏帆
採取した野草や山菜も増えていた。
日が傾き始める前に戻ろうと、夏帆は袋の中身を一つずつ確認していた。
少し離れた場所にいた唯は、周囲を見回す。
木々。
渓流。
風に揺れる枝。
ガサッ。
木々の間から物音がした。
唯の顔が上がる。
『夏帆さん……今、何か聞こえませんでした?』
『え?』
夏帆も作業の手を止めた。
二人で周囲を見る。
何もいない。
しばらく待っても、見えるのは揺れる木々だけだった。
『風かな……』
夏帆が呟いた直後。
木々の間から、人影が現れた。
唯の身体が強張る。
充血した目。
汚れた衣服。
不自然な足取り。
一体の感染者だった。
『唯ちゃん! こっち!』
夏帆が叫ぶ。
しかも、感染者に近いのは唯の方だった。
感染者が唯へ向きを変えた。
『っ……!』
唯はすぐに感染者から離れた。
『夏帆さん!』
夏帆の方へ行こうとする。
だが、その間には感染者がいる。
唯は進路を変え、渓流沿いを後ろへ下がった。
感染者もそれを追うように向きを変える。
距離が縮まる。
『唯ちゃん! そのまま離れて!』
『はい!』
唯はさらに距離を取ろうとした。
その時、感染者が突然、唯へ向かって大きく踏み込んだ。
『っ!』
伸ばされた腕が迫る。
唯は咄嗟に身体を引いた。
あと少しで触れる。
噛まれるかもしれない。
『唯ちゃん!』
夏帆は腰の剣ナタを抜いた。
考える時間はなかった。
唯へ向かっている。
止めなければ。
『やめて!』
駆け寄り、そのまま剣ナタを振るった。
刃が感染者の首へ入った。
ザシュッ――。
鈍い手応えが、剣ナタを握る手へ伝わった。
次の瞬間。
感染者の首元から、鮮血が一気に噴き出した。
『っ……!』
避ける間もなかった。
温かい血が夏帆の顔へかかる。
頬を濡らし、服へ飛び散り、剣ナタを握る腕にも赤い筋を残した。
夏帆は目を見開いた。
目の前で感染者の身体が大きく傾き、膝から崩れ、そのまま地面へ倒れ込んだ。
だが、感染者はまだ動いていた。
倒れたまま、腕を動かしている。
『いやっ……!』
夏帆の頭から、考える余裕が消えた。
両手で剣ナタを握る。
振り下ろす。
『いやっ! いやぁっ!』
刃が感染者へ突き刺さる。
抜く。
また振り下ろす。
『夏帆さん……!』
唯が呼ぶ。
だが夏帆には届かない。
感染者がまた動くかもしれない。
自分達を襲うかもしれない。
その恐怖だけで、夏帆は剣ナタを振り続けた。
『夏帆さん! もう大丈夫です!』
その声で夏帆の手が止まった。
肩が大きく上下している。
息が苦しい。
両手で握った剣ナタから血が滴り落ちる。
足元の感染者は、もう動いていなかった。
『…………』
夏帆は無言で見下ろした。
自分が何度斬ったのかも分からない。
やがて視線を自分の身体へ落とす。
服も。
腕も。
血に濡れている。
剣ナタを握る手が震え始めた。
落としそうになり、慌てて握り直す。
『唯ちゃん……怪我は?』
声も震えていた。
『私は……大丈夫です』
『噛まれてない?』
『はい。大丈夫です』
夏帆はすぐ唯へ近づいた。
露出している部分を確認する。
噛み跡はない。
目立った怪我もない。
それを確かめた瞬間、全身から力が抜けた。
夏帆はその場へ座り込んだ。
『……よかった……』
唯も夏帆のそばへ近づいた。
『夏帆さん……ありがとうございます』
『…………』
夏帆は答えられなかった。
少し離れた場所で動かなくなった感染者を見る。
さっきまで、自分が何度も剣ナタを突き刺していた。
手がまた震える。
唯は何も言わず、夏帆の近くへ座った。
しばらく二人とも動かなかった。
渓流の水音だけが、変わらず流れ続けていた。
■唯のサバイバルメモ
・今日のテーマ:剣ナタ
皆さんこんにちは。唯です。
今回のお題は『剣ナタ』についてです。
ナタって聞くと、薪を割ったり枝を切ったりする道具を思い浮かべる人が多いと思います。
『剣ナタ』も山仕事などで使われるナタの一種なんだけど、普通のナタと違って、刃の先が剣みたいに尖っているのが特徴なんだって。
枝を払ったり、木を切ったりするだけじゃなくて、尖った先端があるので突くような使い方もできます。
権蔵さんが持っているものや、夏帆さんが使っているのもこの剣ナタです。
でも、見た目は武器みたいでも、本来は山の中で使うための道具。
刃も厚くて重いので、包丁みたいに軽く扱えるものじゃないそうです。
今日、夏帆さんはこれを使って私を助けてくれました。
……すごく怖かったと思います。
私を守ってくれたこと、本当に感謝しています。
でも、できればもうこんな使い方をしなくて済めばいいな……。




