第5話 専属薬師の誘い
アルトが去ったあとの家は、しばらく静まり返っていた。
先ほどまでの緊張が、遅れてじわじわと押し寄せてくる。
「……領主様、だったのね」
分かっていたつもりだった。
だが実際に名乗られると、その重みは違う。
しかも、騎士団の人間を救った。
ただの村人相手とは、意味がまったく違う。
(……呼ばれるわよね、これは)
ミレイナはため息をついた。
断れる類の話ではない。
だが、簡単に引き受けていい話でもない。
ようやく手に入れた静かな生活。
それを自分から手放すことになるかもしれない。
「……考えましょう」
そう呟き、ミレイナは薬の整理を始めた。
忙しくしている方が、余計なことを考えずに済む。
――だが、その時間は長くは続かなかった。
翌日の昼過ぎ。
村長の家から使いが来た。
「領主様がお呼びです」
やはり、来た。
ミレイナは静かにうなずく。
「分かりました。すぐに伺います」
外套を羽織り、村長の家へ向かう。
道すがら、村人たちがちらちらとこちらを見る。
すでに話は広まっているのだろう。
(変に期待されても困るのだけれど)
そう思いつつも、足取りは自然と早くなっていた。
村長の家に入ると、昨日と同じ男――アルトがテーブルの前に立っていた。
「来てくれたか」
「お呼びと伺いましたので」
ミレイナは軽く頭を下げる。
村長は少し離れた位置に控えていたが、話の主導は完全にアルトが握っている。
「単刀直入に言おう」
アルトは無駄な前置きをしなかった。
「あなたに、我が領の薬師として働いてほしい」
やはり、その話か。
ミレイナは驚かなかった。
だが、すぐに答えも出せなかった。
「……それは、どのような形で、でしょうか」
「竜騎士団を含む、領内の医療全般の補助だ」
竜騎士団。
その言葉に、ミレイナの中で何かが引っかかる。
(竜毒……)
昨日の青年の症状。
あれは確かに、通常の魔物の毒ではなかった。
「騎士団では、毒や重傷の対応が遅れている」
アルトは続ける。
「現在の体制では、対応しきれていない」
事実を述べる声だった。
誇張も、感情もない。
ただ必要な情報だけを並べている。
「あなたの技術があれば、多くの命が救える」
その言葉に、ミレイナはわずかに視線を落とした。
分かっている。
それが本当であることも。
自分にその力があることも。
だが――
「……私は」
ゆっくりと口を開く。
「この村で、静かに暮らすつもりで来ました」
それが本音だった。
もう誰かのために自分を犠牲にするような生き方はしたくない。
評価も、責任も、重圧も。
すべてから離れて、ただ穏やかに生きるつもりだった。
アルトはその言葉を静かに受け止める。
否定もしない。
押し付けもしない。
ただ、まっすぐに見てくる。
「理解している」
短く答えたあと、アルトは一歩だけ距離を詰めた。
「だからこそ、選んでほしい」
その言葉に、ミレイナはわずかに目を見開く。
「強制はしない」
「……」
「だが現実として、今の領内では救えない命がある」
淡々とした口調のまま、しかしその内容は重い。
「昨日の騎士も、本来なら助からなかった」
ミレイナの胸が、わずかに痛む。
あの青年の顔が浮かぶ。
苦しそうな呼吸。
黒く染まった腕。
もし自分がいなければ、あのまま――
「……」
「あなたは、それを救える側の人間だ」
静かな声だった。
責めるでもなく、諭すでもなく。
ただ、事実として突きつけてくる。
ミレイナはゆっくりと息を吐く。
(ずるい人ね)
そう思った。
感情で押さない。
権力で押さない。
ただ「選択」を委ねてくる。
だからこそ、逃げ場がない。
「……条件があります」
気づけば、そう口にしていた。
アルトの目がわずかに細まる。
「言ってくれ」
「私は、この村での生活を続けたい」
「……」
「薬屋も、続けます」
それが譲れない一線だった。
ここは、自分がようやく見つけた場所だ。
それを手放すつもりはない。
アルトは少しだけ考え、そしてうなずいた。
「問題ない」
「本当に?」
「あなたの拠点がどこにあろうと構わない。必要な時に協力してもらえればいい」
あまりにもあっさりとした承諾だった。
ミレイナは少しだけ拍子抜けする。
「……それでよろしいのですか」
「ああ」
アルトは淡々と答える。
「重要なのは場所ではない。あなたが動けるかどうかだ」
合理的な考え方だった。
「もう一つ」
ミレイナは続ける。
「無理な命令には従いません」
アルトはわずかに眉を上げる。
「私なりの判断で動きます」
「……」
「それでもよろしければ」
しばしの沈黙。
だがすぐに、アルトは小さく笑った。
「構わない」
「……」
「むしろその方がいい」
意外な答えだった。
「従うだけの者は、すでにいる」
そう言って、アルトはミレイナをまっすぐ見た。
「私は、考えて動ける人材を求めている」
その言葉に、胸の奥がわずかに熱くなる。
評価された。
ただの“役立つ存在”ではなく、“人”として。
それが、こんなにも心に響くとは思わなかった。
ミレイナは静かに息を整える。
そして――
「……分かりました」
ゆっくりと顔を上げる。
「お受けします」
その瞬間、空気が変わった気がした。
アルトは静かにうなずく。
「感謝する」
「ただし」
ミレイナは一歩だけ踏み出す。
「私は、私のやり方で動きます」
「承知している」
即答だった。
その迷いのなさに、ミレイナはわずかに笑みを浮かべる。
(この人、やっぱり面白いわね)
そう思った。
静かで、冷静で、無駄がない。
けれど決して冷たいわけではない。
必要なものを、きちんと見ている人だ。
「では、改めて」
アルトは手を差し出した。
「我が領へようこそ、ミレイナ」
その言葉に、ミレイナはほんの少しだけ躊躇い――
そして、その手を取った。
「よろしくお願いいたします、アルト様」
その握手は短く、だが確かなものだった。
こうしてミレイナは、
辺境の小さな薬屋の主人でありながら、領主直属の薬師
という立場を得ることになる。
静かに始まったはずの新しい生活は、
ここから大きく動き出そうとしていた。




