第3話 小さな薬屋
翌朝、ミレイナはまだ薄暗いうちに目を覚ました。
暖炉の火はすっかり消え、空気はひんやりと冷たい。
けれど不思議と、体は軽かった。
王都にいた頃は、毎朝決まった時間に起き、決まった服を着て、決まった仕事をこなしていた。
誰かのための一日。
だが今日は違う。
「……何から始めましょうか」
ぽつりと呟く。
やるべきことはいくらでもある。
家の整理、生活用品の確保、村の把握。
けれどミレイナは、迷わなかった。
まずやるべきは――
「薬、ね」
この村には薬師がいない。
それはつまり、自分の役割がすでにあるということだ。
ミレイナは棚を確認する。
前の住人が使っていたのだろう、乾燥した薬草がいくつか残っていた。
色は少し落ちているが、まだ使えそうだ。
「セージ……乾燥が甘いわね。でも問題ない範囲」
指先で触れながら、自然と評価が口に出る。
王都にいた頃は、こうして薬草に触れる時間が何より好きだった。
だが結婚してからは、それも許されなかった。
「……久しぶりね」
小さく笑う。
家の外へ出ると、朝の空気はさらに冷たかった。
吐く息が白くなる。
裏手の畑を覗くと、冬枯れの中にもいくつかの薬草が残っていた。
「これは……まだ生きてる」
しゃがみ込み、土を指で掘る。
根はしっかりしている。
少し手入れをすれば、春には使えるようになるだろう。
その時だった。
「お姉さん!」
元気な声が響く。
振り向くと、昨日見かけた子どもが走ってきていた。
その後ろから、あの中年女性――名前は確か、エルナと言っていたか――もついてくる。
「おはようございます」
ミレイナは立ち上がり、軽く頭を下げた。
「朝早いねぇ」
エルナが言う。
「ええ、少し家の様子を見ていました」
「もう動いてるなんて働き者だね」
そう言いながら、エルナはちらりと畑を見る。
「薬草、分かるのかい?」
「少しだけ」
控えめに答えると、エルナは腕を組んだ。
「……ちょうどいいかもしれないね」
「と、言いますと?」
「うちの子がね、昨日から熱を出してるんだよ」
子どもが横で少し気まずそうにしている。
どうやらこの子の兄か姉らしい。
「隣町の薬売りは来週だし、村長に相談しようと思ってたところでさ」
エルナはミレイナを見つめる。
「薬が作れるって、本当かい?」
試すような視線だった。
ミレイナは少しだけ考え、そしてうなずく。
「診せていただけますか?」
エルナの家は、村の中央近くにあった。
中へ入ると、簡素だが温かみのある室内。
奥のベッドには、ぐったりした少年が横になっていた。
額に手を当てる。
「……少し熱がありますね」
喉の様子、呼吸、脈を確認する。
重症ではない。
ただの風邪だが、放っておけば悪化する可能性はある。
「大丈夫。きちんと薬を作れば治ります」
そう言うと、エルナの表情がわずかに緩んだ。
「本当に?」
「ええ。ただ、少し準備が必要です」
ミレイナは家へ戻り、持ってきた鞄と、残っていた薬草を広げた。
乾燥セージ、リーファ草、それに少量の苦根。
「これで十分ね」
鍋に水を入れ、火にかける。
薬草を刻み、順番に入れていく。
手が自然と動く。
火加減。
抽出の時間。
混ぜるタイミング。
すべて、体が覚えていた。
しばらくすると、やわらかな香りが広がる。
「……できた」
木のカップに注ぎ、再びエルナの家へ向かう。
少年にゆっくりと飲ませると、しばらくして呼吸が落ち着いてきた。
「……寝たわ」
エルナが驚いたように言う。
「ええ。あとはしっかり休めば、明日にはだいぶ楽になるはずです」
「本当に……?」
信じられない、という顔だった。
「熱を下げるだけでなく、体を回復させる配合にしていますから」
ミレイナはさらりと答える。
エルナはしばらく黙っていたが、やがて深く頭を下げた。
「ありがとう。本当に助かったよ」
「いえ、当然のことをしたまでです」
そう言うと、エルナはじっとミレイナを見つめた。
「……あんた、本当にただの旅人じゃないね」
その言葉に、少しだけ苦笑する。
「ただの、薬を扱える者です」
「それで十分すぎるよ」
エルナは大きく息を吐いた。
「この村には、あんたみたいな人が必要だ」
その言葉は、まっすぐ胸に届いた。
必要とされる。
それは、いつぶりに聞いた言葉だろう。
王都では、いつの間にか「いて当たり前」の存在になっていた。
評価されることも、感謝されることも、ほとんどなかった。
だがここでは違う。
たった一つの行動で、誰かの役に立てる。
その実感が、じんわりと広がっていく。
その日の午後、噂はあっという間に広がった。
「新しく来た人が薬を作れるらしい」
「子どもの熱を一晩で下げたって」
夕方には、数人の村人がミレイナの家を訪れた。
軽い咳、擦り傷、関節の痛み。
どれも王都なら些細な症状だ。
だがこの村では、それを診てくれる人がいなかった。
ミレイナは一人一人、丁寧に対応した。
必要な薬を作り、飲み方を説明し、注意点を伝える。
日が暮れる頃には、暖炉の前のテーブルはすっかり作業台になっていた。
「……これは、もう」
ぽつりと呟く。
ただの家ではない。
ここはもう――
「薬屋、ね」
小さく笑う。
看板もない、正式な店でもない。
けれど確かに、ここには薬を求める人が来ている。
それで十分だった。
窓の外には、夕焼けが広がっている。
村の煙突から立ち上る煙。
帰っていく人々の足音。
そのすべてが、穏やかで温かかった。
ミレイナはゆっくりと息をつく。
「悪くないわね、この生活」
誰に言うでもなく、そう呟く。
昨日までは、すべてを失ったと思っていた。
けれど今は違う。
ここには、自分の居場所がある。
そして――
やるべきことも、ちゃんとある。
暖炉の火が静かに揺れる中、ミレイナは次に必要な薬草のことを考え始めていた。
それは、彼女にとって久しぶりの「楽しい悩み」だった。
そしてこの小さな薬屋は、やがて村だけでなく領地全体を変えていくことになる――。




