第2話 辺境の村
王都を出る朝は、思ったより静かだった。
ミレイナは小さな鞄を一つだけ持ち、屋敷の玄関前に立っていた。
十年暮らした家だというのに、振り返っても特別な感情は湧いてこない。
いや、本当は違う。
何も感じないのではなく、感じないようにしているのだろう。
昨夜の夜会のあと、ローデンはすぐに使用人たちへ話を通したらしい。
奥様は本日限りで屋敷を去る――そんな話がもう広まっていた。
だからなのか、使用人たちは皆どこか気まずそうだった。
目を合わせる者は少なく、声をかけてくる者もいない。
その中で、年老いた侍女のマルタだけが、そっとミレイナの手を握った。
「奥様……いえ、ミレイナ様。どうかお元気で」
「ありがとう、マルタ」
「本当は、こんなこと……」
そこでマルタは言葉を切り、唇を噛んだ。
悔しそうな顔をしている。
ミレイナはやわらかく微笑んだ。
「泣かないで。あなたまで困るでしょう」
「ですが……」
「大丈夫よ」
自分に言い聞かせるように、ミレイナはそう言った。
大丈夫。
きっと、大丈夫だ。
そうでなければ、あまりにも惨めすぎる。
玄関先には、御者付きの小さな乗合馬車が止まっていた。
王都から地方へ向かう定期便の一つだ。貴族が使うような立派なものではなく、商人や旅人が利用する実用本位の馬車である。
結婚してから一度もこんな馬車に乗ったことはなかった。
ローデンの妻だった頃なら、きっと「身分に合わない」と言われただろう。
けれど今のミレイナには、その言葉を気にする理由もない。
「行き先は、北の辺境で間違いないですか?」
御者の男が確認する。
「ええ、お願いします」
「ずいぶん遠いですねぇ。身寄りでも?」
「……いいえ。新しく住む場所を探しに」
御者は少し驚いたようだったが、それ以上は聞いてこなかった。
事情を詮索しないのは、旅人相手の商売人らしい気遣いだった。
ミレイナは馬車に乗り込み、窓際の席に腰を下ろす。
車輪がゆっくりと回り始めた。
王都の石畳の音が遠ざかっていく。
見慣れた通りも、整然と並ぶ店も、朝の鐘の音も、少しずつ後ろへ流れていった。
――これで、本当に終わりなのね。
胸の奥が少しだけ痛む。
だが、その痛みは昨夜ほど鋭くない。
むしろ今は、ぽっかり空いた場所に冷たい風が吹き込んでいるような感覚だった。
馬車は半日ほどかけて王都近郊を抜け、広い街道へ出た。
車内には商人風の男が二人、老夫婦が一組、そしてミレイナ。
皆それぞれ荷物を抱え、疲れた顔で揺られている。
昼過ぎ、休憩のために小さな宿場町へ立ち寄った。
御者が「一時間後に出ますよ」と告げると、乗客たちは思い思いに食事へ向かう。
ミレイナも食堂へ入った。
木のテーブルが並ぶだけの素朴な店だったが、漂ってくる焼きたてのパンとスープの匂いは、驚くほど食欲を誘った。
「ご注文は?」
「野菜のスープと、黒パンをお願いします」
「はいよ」
しばらくして運ばれてきた皿を前に、ミレイナは少しだけ目を見張る。
王都の貴族街なら見向きもされないような簡素な食事だ。
けれど、湯気を立てるスープは温かく、野菜はたっぷりで、黒パンも想像以上に香ばしかった。
ひと口飲んで、思わず息が漏れる。
「……おいしい」
結婚してからの食事は、見た目ばかり美しい料理が多かった。
味も悪くはない。けれど、どこか形式的で、冷たい印象があった。
それに比べてこのスープは、素朴なのに体へ染み込むようだった。
空腹だったのだと、その時ようやく気づいた。
昨夜からほとんど何も口にしていない。
緊張と疲労とで、食べる余裕もなかったのだ。
黙々と食べていると、隣の席の老婦人がふと話しかけてきた。
「旅の方かい?」
「ええ」
「北へ行くのかい?」
「そのつもりです」
「北は寒いよ。だけど、人は悪くない。王都みたいに飾り立ててはいないけどね」
老婦人はそう言って笑った。
ミレイナも小さく笑い返す。
「それなら、私にはちょうどいいかもしれません」
「そうかい。なら、きっと大丈夫だよ」
何気ないその言葉が、妙に心に残った。
食堂を出て、再び馬車に揺られる。
窓の外の景色は次第に変わっていった。
整えられた街並みは消え、なだらかな草原と森が広がる。
遠くには山並みが見え、ところどころ小さな川がきらめいていた。
日が傾くころ、空気がぐっと冷たくなる。
御者によれば、辺境に近づいている証拠らしい。
一泊二日の移動の末、ミレイナが降り立ったのは、北部辺境領のさらに外れにある小さな村だった。
村の名は、エスト。
十数軒ほどの家が寄り添うように建ち、中央には小さな井戸と広場がある。
屋根にはまだらに雪が残り、乾いた風が家々の間を吹き抜けていた。
王都とは比べものにならないほど小さく、質素な村だ。
けれど不思議と、息苦しさがなかった。
見上げれば、空が広い。
王都の空はいつも屋根や塔に切り取られていたが、ここではどこまでも続いているように見えた。
「ここが……」
言いかけて、言葉を止める。
ここが、自分の新しい居場所になるのだろうか。
不安はある。
当然だ。知り合いもいない、頼れる相手もいない。所持金だって多くはない。
それでも。
「悪くない、かもしれないわね」
小さくつぶやいたその時、近くを通りかかった子どもがじっとミレイナを見た。
珍しい旅人だと思ったのだろう。
灰色のマントに、小さな鞄。貴族らしい華やかさはないが、この村では十分に目立つ。
すると、その子の後ろから中年の女性が出てきた。
「おや、見ない顔だね。旅の人かい?」
「はい。少し、この村で住む場所を探したくて」
女性はミレイナを上から下まで見て、それから少し眉を上げた。
「一人で?」
「ええ」
「……そうかい」
詮索するような目ではあったが、悪意は感じられない。
女性は少し考えたあと、広場の端にある建物を指差した。
「それなら、まず村長のところへ行くといいよ。空き家のことも分かるだろうし」
「ありがとうございます」
「ただし、豪華な家なんてないよ」
「十分です」
ミレイナが答えると、女性はふっと笑った。
「王都の人みたいな喋り方をするのに、変に気取ってないんだね。気に入ったよ」
それだけ言って、女性は子どもの手を引いて去っていく。
ミレイナは案内された建物へ向かった。
村長の家兼集会所らしいそこは、古びているがしっかり手入れされていた。
扉を叩くと、白髪混じりの壮年の男が顔を出す。
「はい。どなたで?」
「突然すみません。王都から来ました。しばらくこの村で住まわせていただける場所を探していて……」
村長はミレイナの顔を見ると、一瞬だけ怪訝そうな表情をした。
だが、すぐに「中へどうぞ」と招き入れてくれた。
事情を細かく話すつもりはなかった。
離婚されたことも、元は貴族夫人だったことも、ここではただ面倒の種になるだけだ。
だからミレイナは、できるだけ簡潔に伝えた。
「王都での生活を整理し、こちらで仕事を探したいのです。できれば、小さな家を借りたいと思っています」
「仕事、ですか。何かご経験は?」
そう聞かれ、ミレイナは一瞬迷う。
本当のことを話すべきだろうか。
薬学の知識があると言えば、役に立つかもしれない。
だが初対面で言っても、信じてもらえるか分からない。
少し考えた末、彼女は控えめに答えた。
「薬草や簡単な薬の知識があります。体調不良への対処や、傷薬の調合くらいでしたら」
村長の表情が変わった。
「それは本当ですか?」
「はい」
「……それは助かる」
思った以上に真剣な声だった。
「この村には常駐の薬師がいません。月に一度、隣町から薬売りが来るだけでしてな。冬場はそれすら来られないこともある」
ミレイナは静かにうなずく。
辺境で医療が乏しいことは知識として知っていた。
だが実際にそう聞くと、状況は想像以上に厳しいのかもしれない。
「もし本当に薬の知識がおありなら……空き家があります。小さいですが、以前は薬草を扱っていた老婆が住んでいた家でして」
「薬草を?」
「ええ。亡くなってから空いたままです。古いですが、水場もありますし、裏に少し畑もある」
ミレイナの胸がわずかに高鳴る。
薬草を扱っていた家。
それは偶然にしては、出来すぎている気がした。
「見せていただけますか?」
「ああ、もちろんです」
村長に案内されて向かった家は、村の外れにひっそりと建っていた。
石と木でできた小さな家。
屋根は少し傷んでいるが、壁はしっかりしている。
窓は小さいが、日当たりは悪くない。裏手には確かに小さな畑があり、冬枯れの中にも薬草らしき株がいくつか残っていた。
扉を開けると、中には古い棚とテーブル、それに暖炉があった。
広くはない。
けれど、一人で暮らすには十分だ。
何より――
「静か……」
思わずそう漏らすと、村長が笑った。
「賑やかさはない村ですからな」
「いえ、そういう意味ではなくて……とても落ち着く家だと思って」
それは本心だった。
王都の屋敷は大きく、立派で、誰もが羨むような家だった。
けれどミレイナにとっては、常に誰かの視線と評価にさらされる場所でもあった。
この家には、それがない。
あるのは静けさと、冷たい空気と、これから自分の手で何かを始められる余白だけだ。
「ここを、お借りしたいです」
村長は少し驚いた顔をしたが、すぐにうなずいた。
「そうですか。では、細かい話はあとで詰めましょう。古い家なので修理は必要ですが、住むだけなら今日からでも」
「ありがとうございます」
深く頭を下げた瞬間、ミレイナはようやく実感した。
自分には、もう帰る屋敷はない。
けれどその代わりに、小さくても新しい居場所ができたのだ。
その日の夕暮れ、村長の奥方が毛布とスープを差し入れてくれた。
それから昼間の中年女性が、使い古しだが丈夫な桶を持ってきてくれた。
子どもたちは遠巻きに家を眺め、旅人の新しい住人に興味津々らしい。
誰も過剰に優しくはない。
けれど、拒絶もしない。
その距離感が今のミレイナにはありがたかった。
暖炉に火を入れ、簡素なベッド代わりの長椅子に腰を下ろす。
赤い火がぱちりと鳴った。
王都では、こんなふうに一人で火を眺めることなどなかった。
静かだ。
本当に、静かだった。
窓の外には夜の気配が満ち始めている。
風の音、木々の揺れる音、遠くで犬が吠える声。
そのすべてが、知らない世界の音なのに、不思議と心を落ち着かせた。
ミレイナは膝の上で手を組み、小さく息を吐く。
「……ここから、始めるのね」
離婚され、捨てられ、王都を追い出された。
それは確かに最悪だった。
けれど、終わりではない。
むしろようやく、自分の人生を自分の手で選べる場所まで来たのかもしれない。
薬草の知識がある。
薬も作れる。
派手ではなくても、人の役に立つ力がある。
それなら、ここでやっていけるはずだ。
ミレイナはそっと目を閉じた。
明日になったら、まず家の中を片付けよう。
畑も見て、使えそうな薬草がないか確認しよう。
村の人たちが何に困っているのかも知りたい。
考えることはたくさんある。
不安だって、まだ消えてはいない。
それでも今夜は、昨夜よりずっとましだった。
少なくともここには、彼女を役立たずと切り捨てる声はない。
暖炉の火の温もりに包まれながら、ミレイナはゆっくりと微笑んだ。
「明日から、頑張りましょう」
誰に聞かせるでもない独り言は、静かな家の中へやわらかく溶けていった。
そして辺境の小さな村で、彼女の新しい生活が本当に始まった。




