二十二話 : 濁流の狢(むじな)、届かなかった一手
【第一章:闇の資産運用】
その日、那珂川は集中豪雨に見舞われとった。
福岡市の南警察署の刑事部特殊課第四課――通称「狢」に所属する二人に指令がでたとばい。でたっち言うても、その一件は、当の二人が時間をかけて、地道に調べて、証拠品や証人を探し出して、ようやく捜査を始められる許可やったと。
相手は慎重を要するVIPーー那珂川県警本部の本部長であるーー
本部長の汚職。それは、押収品や証拠品の管理システムを悪用した巧妙な「資産運用」だった。保管期限が切れるまでの間、人事異動を繰り返して管理責任を曖昧にし、時間をかけて証拠品の金銭的価値をリストから消し去っていく。そうして存在を失わせた品々を、処分の名目で横流ししていたのだ。
その「隠し蔵」は、本部長の別荘がある唐津ではなく、あえて那珂川上流の五ケ山にある山林の管理小屋に置かれていたとばい。
【第二章:冷徹なる司令塔】
「伊頭、アタシが行く。あんたの先読みがあれば、迷わんで済むとたい」
バディの井之川玲子が、土砂降りの外を睨んで言うた。玲子は伊頭ば、心底から信用しとったとばい。
この時の伊頭は、極限まで推理の精度を上げた「司令塔」やった。玲子が危険な目に遭う確率を徹底的に排除するため、あらゆる状況を先読みし、最善の指示を出すことに全神経を注いでいたと。
伊頭にとって、任務完遂と玲子の安全は「計算」の産物であり、それ以外の感情が入り込む余地はなかった。
「小屋の裏は急斜面たい。表から入って、三毛猫のシールが貼ってあるノーパソからハードデスクば抜いて、すぐに離脱しんしゃい!」
伊頭の冷徹な声が、通信機越しに響いた。
玲子はただ頷いた。
玲子は、一昨日姪っ子に貰ったファッションリングを付けていた。
目の前に心配している姪がいるかの様に、心の中で、この人がいるから大丈夫よと答える。
そして、指輪を軽く撫でた。
【第三章:計算外の濁流】
玲子は雨の中、管理小屋へ入り込む。伊頭の言った通り人気はなかったばい。それもそのはずやった。非難命令が出とったからやった。二人にとっては、ココしか無いと言う好機やった。相手がおらんけん、横綱相撲になるはずやった。
だか相手がおった。その相手は人間ではなく、狂った自然の猛威だったとばい。
五ケ山の急峻な山肌が、伊頭の誤算を嘲笑うように音を立てて崩れ落ちる。
「玲子、脱出しろ! 予報より激しか!裏の崖が崩れるばい!」
玲子は、その言葉を無視した。確実な証拠を手に掴んだからだった。玲子はやった!と思った。が――
伊頭のいくつもの絶叫は、轟音にかき消された。土石流が管理小屋を飲み込み、本部長の汚職を暴く決定的なデータと共に、玲子は暗い闇の中へと消えていった。
その後、玲子の遺体発見とともに事件は解決した。玲子が命懸けで守り抜いた断片的なデータが端緒となり、本部長の横流しは白日の下に晒された。だが、伊頭はーー心を失った。
もう一つ、泥の引いた現場で見つかったのは、あちこちに深い傷がついた、ひとつのファッションリングだった。
伊頭は、その時初めて、彼女がそんな「キズナ」を肌身離さず持っていたことを知ったのやった。
【第四章:事務所の風】
「所長、聞いてるっスか? 明日の昼は『もつ煮込み』がいいっスか? それとも『まるてんうどん』っスか?」
コジの声で、伊頭はハッと我にかえりよった。
「所長? どうしたと? なんか顔色悪いっスよ?」コジの心配そうな声が、伊頭を現実へ引き戻した。
伊頭は無理に笑みを浮かべ、首を振った。
「……なんでもなか。ちょっと、昔のことを思い出してただけたい」
窓の外の那珂川は、あの日が嘘のように穏やかに流れている。
手元の新しい携帯には、コジが調べ上げた「市内の安くて美味い煮込み屋リスト」が表示されていた。
「どっちでんよかよ。コジ、あんたの腹がえらぶ方に行こうや、今日はオレがもつばい。」
伊頭はそう言って、ポケットの中の小銭入れを無意識に指先でなぞった。
中には「指輪」が静かに収まっている。
「おっ、太っ腹っスね! じゃあ、奮発して両方たのんじゃいましょうよ!ね!」
コジの屈託のない笑い声が、事務所の古びた空気を揺らす。
「しかたんなかねー」
伊頭は笑みをもらし、小さく独りごち、那珂川の風を吸い込んだ。
助けられんかった名前を背中のトレンチにまとわりつかせたまま、それでも便利屋の日常は、何事もなかったかのように続いていく。
――便利になった世の中でも、変わらない痛みがある――
事務所の引き戸の向こうには、いつも通りの、穏やかでどこか切ない夕暮れが迫っていた。




