二十話 : 赤い来訪者と、那珂川の護身術
【第一章:がめ煮の祝いと、木うその庭】
居酒屋「にわか」の暖簾をくぐると、今日はいつもの味噌の香ばしさとは違う、醤油と出汁の深い香りが立ち込めていた。
「……お、今日のお通しは『がめ煮』ね」
伊頭はカウンターに腰を下ろしながら、嬉しそうに目を細めた。
博多では筑前煮のことを「がめ煮」と呼ぶ。
いつもの「にわか」のお通しといえば、ニラをたっぷりと使った味噌仕立ての「もつ煮込み」だ。それはそれで「博多もつ鍋」の小宇宙を凝縮したような絶品だが、伊頭はこのがめ煮にも目がない。
この店では、朝倉の宝珠山にある大行寺近くの醤油屋から取り寄せた醤油を使っている。これが、薄切りではないゴロッと大きな蓮根、人参、里芋、そして肉厚の椎茸や地鶏のもも肉によく合うのだ。砂糖は使わず、味醂だけで甘みを足した煮汁は、具材の芯までしっとりと染み渡っている。
たまにはと、いつもの煮込みではなくこちらを選んだのには理由があった。長年溜めに溜めていた「ツケ」を大幅に支払ったお祝いなのだ。
……まあ、まだ三分の一ほどは残っているのだが。
その支払いの元手は、太宰府で「木うそ」を作っている職人さんの屋敷で、三日間かけて庭木の剪定を終わらせた報酬だった。
老夫婦二人きりには広すぎるほど立派な庭で、ちゃんとした植木屋に頼めば、サラリーマンの月給一ヶ月半ぶんくらいは飛んでいくたい。それを伊頭が請け負えば、十分の一以下の予算で済むと。ハサミや脚立などの道具が揃っていたこともあって、伊頭は三日間、慣れない身体を酷使して形にしてみせたんやった。
「助かったばい、伊頭さん」
そう言って出された茶と報酬の入った封筒。
伊頭は他の現場で剪定を頼まれた時も、この職人さんから道具を借りることがしばしばある。まさに「持ちつ持たれつ」の縁やった。
居酒屋「にわか」にてーー
「今日、コジちゃんはどげんしよーと?」
女将さんが、がめ煮の小鉢を出しながら尋ねた。
「ん? あぁ、コジさんは仕事の後に中村のじいちゃん、ばあちゃんとこで、ご馳走になるっち言うとったよ」
「そうかね、木うその中村さんとこね?」
「そうたい。年寄りしか住んどらん屋敷やから、寂しいんやろね」
そんな他愛のない話をしていた時だった。
店の引き戸がガラリと開き、夜の湿気と共に、見慣れない二人組が入ってきた。
【第二章:K.G.B.の依頼】
入ってきた二人は、全身真っ赤なスーツをきっちりと着こなしていた。派手ではあるが、仕立ての良さが伺え、立派な紳士に見える。身長は一六〇センチほどで、伊頭よか十五センチは低か。だが、贅肉のない筋肉質の体型からは、只者ではない威圧感が漂っとったばい。
二人は一言も発さず、カウンターに座る伊頭を左右から挟むように腰を下ろしんしゃった。
「なんか用があっとね?」
どこの人間か、伊頭には察しがついとった。
一人が無言で名刺を差し出す。
そこには、―― K.G.B. ( Kuremurin Group Bro )――と記されていた。
「……やっぱ、プア・朕さんとこの人やったとね」
「この人、居るとこ、教えてアル」
男は、くしゃくしゃになった普通紙のプリントを、伊頭のがめ煮の小鉢の上に置きやがりやった。そこに写る顔ば見て、伊頭は眉間を摘んだ。
「……まーた、逃げたとね? 花札さんは」
「またアル」
男は表情一つ変えず、淡々と答えた。そして、もう一人の男が、初めて口を開く。
「こん人ば、さがしてちゃってん。って、紅夢琳の大将から伝えてくれっち言われたアルばい」
変な博多弁やったが……気にせずに、伊頭はちょっと首を傾げたばい。
「花札は、その大将が直々に連れ帰ったのを見たのが最後やね。俺は知らんばい」
「だから、依頼しにきたアルね。私たち探しに来た違うアル」
即決を信条とする伊頭には珍しく、彼はしばらく考え込んでいた。
「悪かねー、役に立てんばい。花札ば探すんは無理たい。あいつは本当に根無し草やけん。行きそうな所は見当もつかん。花札自身もわからんと思うばい」
K.G.B.の二人は顔を見合わせてため息をついたばい。
「我々も荒事にしたく無いアル。明日の夕方に返事をもらいうけるアル。捕まえなくて良ろしアル。居場所の特定、または可能性を報告するアルよろし。報酬はその時に払うアル」
言い終わるか終わらないかのうちに、二人は暖簾をくぐって出ていった。
「なんね、あん人たちゃ。注文もせんと帰ってからに」
「まぁ、ここが肌に合わん連中やったんやろね。かえって良かったたい」
「そやけど、あんた大丈夫とね?」
女将さんの心配げな顔に、伊頭は無理に笑ってみせた。
「何とかなるやろ。心配せんでよかよか。それと、コジば明日一日、ここで働かせておいてくれんね」
「そやね、あんたんとこの手伝いさせるよりマシばいね」
【第三章:那珂川の地縛霊】
居酒屋「にわか」からの帰り道。伊頭は那珂川の土手を歩きながら、独り考え込んどった。
花札純太郎。あいつは今まで、一体、何ばしよっとった?
たまたま行った公園で、小学生相手にトレカを騙し取ろうとした。派出所の横にある電柱に用を足して警官に捕まった。道端の地蔵さんにお供えされた菓子を勝手に食べた。閉店セールの店に入って「高い」と怒鳴り散らした。ラーメン屋の行列を無視して店に入ろうとし、揉め事を起こした。
どれもこれも突発的で、底の浅い自己中心的な行動や、その時の気分でやった軽犯罪ばかりやった。
ヤツの人付き合いは限りなく薄い。中華飯屋のプア・朕か、ロシア料理屋のシュオルッ・キンペスキーくらいだろうか。どちらも花札が羽振りの良かった頃の付き合いだが、今は金を持たない花札にツケを踏み倒されて、毛嫌いされとる。
ふと、あることに気がついた。
「……花札は何故、この街でばかり軽犯罪を繰り返す? 何故、那珂川の周辺で捕まる?」
あいつには、逃げる場所も、行く宛てもないのだ。
どんなにひどい目に遭わされても、結局はこの那珂川の匂いのする場所に戻ってきてしまう。それは執着というよりも、もはや本能に近い「地縛」のようなものではなかろか。
あれこれ考えているうちに、土手の事務所に着いてしまったばい。
黒猫のクロが足元に寄ってきた。抱き上げようとすると、クロはスルリと手を避け、誘うように短く鳴いた。
「どげんしたと?」
クロについて事務所の裏側へ回っていくと……そこに、おった。
事務所の裏にある木の下。背の高い雑草に身を隠すようにして、花札が背中を丸めて眠っていた。
【第四章:K.G.B.の撤退と、ハゼの洗礼】
翌朝。
伊頭は、まだ事務所の裏で泥のように眠りこけている花札を横目に、いつの間にか帰宅していたコジの携帯を借りて「紅夢琳」へ連絡を入れた。
「もしもし?あぁ、プア・朕さんね? 例のブツ、うちの裏におるよ。すぐに引き取りに来んね」
一時間もしないうちに、あの真っ赤なスーツを着込んだK.G.B.の二人組が、土手に砂煙を上げてやってきた。
「居場所の特定、感謝するアル」
男はそう言って、薄い封筒を伊頭に渡した。
二人は事務的に頷くと、雑草の中で丸まっている花札を両脇から抱き起こそうとした。……が、その瞬間、二人は悲鳴に近い声を上げて花札を地面に放り出した。
「な、なにこれアル!?」
「顔も体も、赤い斑点だらけアルのことよ!」
花札の顔から腕、首筋に至るまで、気味の悪い真っ赤な発疹がびっしりと浮き出ていた。それを見たK.G.B.の二人は、顔を青白くして激しく後ずさりした。
「感染病アル! こんなの連れて帰ったら、大将に殺されるアルよ!」
「もうこんなヤツは要らんばい! 命が惜しいアルよ!」
二人は逃げるように車に飛び乗り、砂塵を巻き上げて走り去っていった。
それを見送った伊頭は、ニヤニヤしながら、まだ寝ぼけている花札の背中を軽く蹴飛ばした。
「なんや、連れて行ってくれんとね? せっかく見つけたとに」
「イテーな! なんだよ藪から棒に……って、うわああ! 俺の体、どうしちまったんだ!」
事務所の窓ガラスに映った自分の姿を見た花札が、喉が張り裂けんばかりに絶絶叫したばい。
実はこれ、感染病でもなんでもなかっと。
花札が寝床に選んだ場所のすぐそばに、那珂川沿いに自生している「ハゼの木」があったせいやった。
「あんた、昨夜よほど寂しかったんやろね。ハゼの幹に抱きついて寝とったばい。そげん怯えんでよか、ただの『かぶれ』たい。数日ほっときゃ治るし、他人にうつるもんでもなか……。ま、おかげで『西伯里』送りは免れたばいねー」
伊頭は、女将さんがタッパーに詰めてくれたがめ煮の残りを思い出しながら、魂が抜けたように放心している花札を放置して事務所へ戻っていった。
那珂川の湿った生温かな風は、放心した男を包み込み、優しく諭すように、朝日の中を流れていった。
那珂川は、時に都会の刺客よりも厳しく、そして時に、どうしようもない根無し草を救うこともあるようやった。




