十九話:二ストの残り香と、紅い悪夢
【第一章:問答無用の身柄確保】
「……所長さーん、おるー?」
夏の終わりの湿った風を切り裂いて、事務所の引き戸がいきなり開いた。入ってきたのは、ミニパトで那珂川の土手に乗り上げてきた小百合さんやった。
「……あいにく伊頭は、出払っとるよ」
伊頭は、彼女の方を見向きもせず、黒猫のクロの爪切りに没頭しとった。
「おった、おった。ちょっとだけ派出所にこんね」
「いま、忙しかと。クロの身だしなみは事務所の死活問題たい」
「したら、行くよ! クロちゃんはまたあとで。ほら、付いてきんしゃい!」
小百合さんは問答無用で伊頭の腕を掴み、事務所の外へ引きずり出した。そこには、新人警官が申し訳なさそうな顔で立っとった。
「新人くん、身柄確保。署に連行して」
「新人です! 新人大騒です。いい加減覚えてくださいよー」
「新人! さっさと連行して。逃げ出さんごつ、腰縄ばつけとき!」
「……あんたも大変やねー、新人くん」
伊頭の同情に、大騒くんは
「新人です。おとなしゅーしとってください」と、泣きそうな声でこたえんしゃった。
「……いったい何事ね?」
「……あいにく自分はまだ新人なもので、詳しくは派出所で……」
「あらとなのか、しんじんなのか……おもしろかねー」
「こらっ! へっぽくこきよらんで、さっさと車に乗りんしゃい!」
【第二章:スバル・R2】
ミニパト――一九七〇年代の名車、スバル・R2の後部座席に詰め込まれた伊頭は、天地無用の荷物のように揺られた。
四つん這いで這い出すようにして転がり降りた伊頭は、二ストオイルの焦げる匂いに鼻をくすぐられた。
「……今時、二ストの軽自動車っち、よほど予算がなかとね?」
「そげなこつなかよ。高か混合油ば使いよる贅沢品たい。中坊のスクーターば追っかけるんに、この加速と小回りはピカイチなんやから」
小百合さんの豪語を聞きながら、伊頭は心の中で中坊たちに深く同情した。こげな女にこのジャジャ馬マシンで追いかけられる恐怖は、察して余りある。
【第三章:腐れ縁と『紅夢琳』の影】
派出所の奥。パイプ椅子にふんぞり返り、身長一五二センチの体を精一杯大きく見せて腕を組む小男がおった。
――花札純太郎(二十四歳)――
二十歳で当たった宝くじを使い果たし、親の遺産も食いつぶして、今は借金と虚栄心だけで生きている男たい。
伊頭は、男と目が合った瞬間に踵を返した。
「……断る!」
「待てコラ!」
小百合さんと新人くんに両脇を固められ、伊頭は天を仰いだ。
「どうせ、つまらん事ばして捕まったっちゃろ? 俺が身元引受人になれっち言うんやろ。……俺はこげなヤツ、知らん。赤の他人たい!」
「伊頭所長が捕まえた分だけで三十六回やね。くされ縁たい」
「勘弁してくれんね……」
たまりかねた花札が、鼻の穴を膨らませて割り込んできた。
「……俺を厄介者みたいに扱わないで欲しい。俺を怒ら……」
「「「…………」」」
三人同時に、無言で無視。
「なして俺なんや。……あ、思い出したばい」
伊頭は、花札をキッと睨みつけた。
「あんた、知り合いがおったろ。中華飯屋の店主『プア・朕』たい。以前、俺ば怒らせたらバックにおるプア・朕が黙っとらんっち言いよったな、覚えとるよ!」
「……い、いや、ヤツとは今は……」
「小百合さん、中華『紅夢琳』に連絡ばせんね。それで終わりたい」
「そげな保護者がおったとね。新人くん、調べて連絡してんね」
「……ま、待ってくれ! ヤツはちょっと……怖……いや、怖くはないが……」
急に青ざめる花札。その怯えようは、警察に捕まることの数百倍は深刻そうやった。
中華「紅夢琳」に連絡がつき、新人くんがあたふたしながらも事情ば説明してから、二時間ちょっとたった頃。
金色のおっきな星が付いた、赤か車が派出所の真ん前にとまりよった。
――ラーダ(VAZ-2101 / ジグリ)。
フィアット124をベースに一九七〇年に作られた乗用車やった。R2とは全く異なる風情やが、どっちも、ただの古か車ばい。
狭か後部座席から、颯爽と背の高い男が出てきた。とても料理人とは思えない、筋肉質のがっしりとした体型。どうやってこの車に収まっていたのか疑問に思うほどの大男で、頭はスキンヘッ……そこはそっとしておくばい。
「私が紅夢琳の店主だ。否、私こそが店舗だ。名をプア・朕と言う。電話をくれたそうだね、事情は聞いた。彼、我が同志を貰っていこう」
淡々と必要な事だけを喋り、余計な事はひと言もしゃべらん。カリスマ性が高か男やなと、伊頭は思った。
「マジかー……」と花札は青ざめている。
プア・朕は花札を上から睨みつけ、
「あまり、私を怒らせない方がいい」と厳かに告げたばい。
「そう怖がるな、君の席は用意した。猿払村に一店舗あってね、そこで洗い物を担当してもらおう。店の名は『西伯里』と言う。なかなか良い所だぞ」
花札は、白目ば剥いとった。
小百合さんが、伊頭に尋ねる。
「猿払村っちどこね?」
「宗谷地方にある、割合大きか村たい。でも、寒かぞー。地面掘ったら凍ったマンモスが出てきそうな所ばい。冗談やけど」
「そんな所で洗いもんの仕事っちかー……」
小百合は、ひきつった笑みを浮かべとった。
「悪かこつはなかよ? ほたては旨かし、食いもんは最高たい」
小百合さんと伊頭が談笑している間に、新人くんはテキパキと手続きを済ませとった。
嵐が去った派出所は、台風一過のような穏やかさだったばい。
那珂川の風は、過去の栄光を引きずる小男と、それを全力で押し付け合う探偵と警官たちの喧騒を乗せて、今日も熱く、けれどどこか呆れたように吹き抜けていった。




