十六話:避暑地のノイズ
【第一章:十路人の朝と、令嬢の素顔】
「おはよー」
朝一番、那珂川の霧が晴れきらぬ時刻。
喫茶店「十路人」のドアを開けると、中からコジが顔を出した。
出勤してきた名山マスターは既に働いているコジに挨拶ばした。
コジは、近くの河原のそばにある、あの家賃18,000円のボロ事務所に居候している女子大生たい。たまに忙しい日に手伝ってもらっているが、彼女の信用性は万全や。あの「探偵気取りの何でも屋」に居候しているというだけで、店の鍵を預け、金庫番すら任せられるほどに。
履歴書には「小鹿恵菜」と美しい文字で書かれていたが、マスターがその名前を使うことは一度もなか。みんな「コジ」とよぶったい。
エプロンを締めて厨房にいるコジに、マスターが指示を出すことはない。
彼女はテキパキとやるべき事を順にこなしていた。掃除はマスターが来る前に終わらせ、洗い物も済んでいる。マスターがトースト用のピザ釜ーーなぜかメニューにピザはないーーに火を入れ、予熱を始める。
その横で、コジは焙煎の準備を始めた。焙煎そのものはマスターの仕事だが、その「準備」を彼女は完璧にこなす。
一通り作業が済むと、コジはカウンターの隅に座り、タンブラーの水を片手に教科書を広げた。
彼女は時給制のバイトではない。与えられた仕事を早く終わらせれば、その分、エアコンの効いたこの店で「勉強の時間」を作れる。それが彼女のサバイバル術たい。
「ねぇ、マスター。このポテトサラダ、味かえたと?」
賄いのポテトサラダを口にしたコジが、ふと手を止めて聞いた。
「いや、いつも通りばってん。仕込みば見よったろうもん。なーんも変えとらんよ」
「そばってん、なーんか違うばい」
「そげんこつあるかね」
マスターも一口味見するが、首を傾げる。
「なーんも変わっとらんよ。勉強のし過ぎやなかと?」
「マスターがこき使うから、味覚がおかしくなったんかもしれんっす」
「人聞きのわるかこと言わんでくれんね」
二人は、開店前の静かな店内で笑いおうた。
「バッテン、この店のクーラーは助かるばい。事務所にゃなかけんねー」
「そやろ。コジちゃんには、ここは『避難所』やなか、『避暑地』やろうね」
九時に店がオープンし、モーニングの嵐を捌き終えた十一時。コジはマスターの奥さんと入れ替わるように、炎天下の博多の街へ飛び出していった。
――余談だが、午後三時を過ぎると、ここには『GTホビット』を自称するガラの悪い旧車好きのシニア連中が集まるが、それはまた別のお話たい――
【第二章:図書館の静寂と、学食】
汗だくになりながらJRを乗り継ぎ、コジは九州三鹿大学へ向かう。
目指すは図書館。ここもまた、エアコンが効いた天国たい。午後一時からの講義まで、彼女はここで教科書の文字を追う。
講義が終わり、ゼミの教授に挨拶だけ済ませると、彼女は学食の裏口へ向かった。
「おばちゃん、今日もよか?」
「はいよ、恵菜ちゃん。用意しとったよ」
学食のおばちゃんたちは、いつも彼女のために残り物をタッパーに詰めておいてくれる。彼女の夜食の生命線たい。礼を言ってタッパーを受け取る姿は、大学内の「令嬢伝説」を知る者がいれば、腰を抜かすほどに庶民的やった。
【第三章:にわかの夜と、伊頭の『鼻』】
日が落ちても、アスファルトの熱は冷めやらん。
夕方、コジは次なる「戦場」、居酒屋「にわか」のカウンターに立っとった。
ここにもエアコンはあるが、酔っ払いたちの熱気と煮込みの湯気で、室温は常に高い。
仕事の合間の休憩時間、コジはここでも賄いのポテトサラダば口にしたたい。ポテトサラダが流行っとるごたるね。
「おばちゃん、このシザーサラダ、いつも通りに作ったと?」
「なして? なんか変かね?」
「……いや、なーんか違う気がするとよ。いつもと違うような……よくわからんばい」
「いつも通りばってんやがねー」
おばちゃんも首を傾げる。十路人のマスターと同じ反応たい。
そこへ、聞き覚えのある足音と、くたびれたトレンチコートの影が現れた。
伊頭たい。
「おかえりんさい、伊頭さん。ツケば払いにきたとね?」
おかみさんが、皮肉で迎える。
「……ツケはまた今度たい。それより、飯ば食わしてくれんね」
「しかたんなかねー!」
おばちゃんが大笑いしながら、いつもの煮込みと小皿を差し出す。
伊頭は、出された皿を見ておばちゃんをみる。
「おばちゃん。胡椒、かえたろ?」
おばちゃんは目を見開いた。
「なして分かったとね! なんでも値上がりしとーけんね、今日から安か『洋コショー』に変えたばい」
「せやろね。いつもと違うばい。まあ、これはこれで、パンチがあって美味しかばってん」
コジは、隣で平然と食べる伊頭の横顔をマジマジと見た。
那珂川の風は、エアコンのない事務所を、今日も熱く、香ばしく揺らしとった。
「所長、十路人のポテトサラダ、食べに行ってみんね。あっちも味が変わっとるけん」
「そげな洒落た店は、よういかんたいね。でも、まぁ世知辛くなってきとるけん、どこも企業努力ばしよるやろね」
本当は、ツケが溜まりに溜まってるため、顔を出しにくくなっとる伊頭やった。
ツケば、払わんとどんどん味が変わっていくかもしれん。まずかねー、食い物だけに……と、伊頭は考えとった。




