十四話:お年頃やけん
【第一章:暁の訪問者】
午前五時前。那珂川の川面が藍色から茜色へと変わり始める、一日で最も静かな刻たい。
「イとコジ調査部屋」の古びた畳の上で、伊頭は微かな気配に目を覚ました。飼い猫のクロが、彼の枕元でじっと闇を見つめ、微かに喉を鳴らしとったからたい。
次の瞬間、静寂を切り裂くように、事務所の薄い木戸が激しく叩かれた。
「なんね、こんな早よから。……魚釣りか?」
伊頭は欠伸を噛み殺しながら、寝巻き代わりのボロシャツの上に、いつものくたびれたトレンチコートを羽織った。これだけで、彼の「戦闘服」は準備万端たい。
「だれね?」
と問うまでもなく、戸の向こうから聞こえてきたのは、喫茶店「十路人」の名山マスターの、焦燥しきった声やった。
「ダンナ! 朝早くから申し訳なかですが、力ば、貸してくんしゃい! うちの原チャリが、盗まれたとですよ!」
伊頭が戸を開けると、マスターは寝癖もそのままに、顔を蒼白にして立っとった。
「四十分くらい前たい。バキン!ち、金属が砕けるような音が聞こえて目ば覚ましたとです。嫌な予感がして裏に見に行ったら、そこに止めとったバイクが無くなっとたとよ!」
「バキン!っち音か。ハンドルロックば無理やり壊した音やろね」
伊頭の直感が、瞬時に状況を分析した。
「……まだ、時間たっとらん。……ダンナに頼めば、すぐに見つかるち思て、走ってきたとです!」
「しょんなかね。……行くぞ、マスター」
伊頭は、マスターの話の途中から、すでに事務所を飛び出し、那珂川の土手を走り出しとった。向かう先は、「十路人」の近くにある、外灯の少ない薄暗い公園たい。
追いかけながら名山マスターは不思議におもとった。
「なして、場所がわかるんやろ?」と。
【第二章:夜明けの追跡と、文明の利器】
走りながら、伊頭はマスターに、確認するように言葉を投げかけた。
「原付ち……あの、ヤマハのレーサーレプリカ、TZR50(ティーゼットアールごじゅう)やろ?」
「そうたい! オイラが若い頃から大事にしとった、宝物たい!」
「まずは、一一〇番たい。心配せんでよか、バイクは見つかるたい。犯人は……どうやろな? たぶん、近所の中坊やろけど」
伊頭の言葉には、確固たる自信があった。
「バイクは、近くにあるはずたい。エンジンかける事できずに、奮闘しとるはずや。一一〇番したら、携帯のカメラの用意ばしとき」
公園の手前で、伊頭は走るのをやめ、音を出さずに歩き始めた。外灯の光が、木々の影に遮られ、薄暗い。
伊頭の鋭い聴覚が、木々のざわめきの中から「エンジンをかけようとするキック音」を捉えた。
「おった。公園の隅っこの、外灯の下たい」
伊頭は、マスターに、低い声で指示を出した。
「こっちば見た瞬間に、写真ばとりんしゃい。タイミングば、逃すなや」
マスターが携帯のカメラを構え、画面を凝視したのを確認した上で、伊頭は、日の出前にしては少し大きめの、野太い声で言い放った。
「なんばしょっと?」
外灯の下にいた影――中坊は、声に驚いてこっちを振り返ると、伊頭と目が合った瞬間、一目散に、公園の奥へ走って逃げてしまった。
「写真は撮れたか?」
伊頭が尋ねると、マスターは携帯を操作しながら、少し得意げに答えた。
「写真じゃなくて、動画ば、撮ったとですよ。ダンナ」
「動画? ……動画ち、なんね?」
伊頭は、首を傾げた。携帯も持っとらん伊頭にはわからんかった。
「写真やと、タイミング逃すかもしれんし、体型や年恰好なんかも、分かりにくいやろうから……動画にしたとよ」
「そげかね。……文明の利器ち、大層なもんたい」
かくして、ハンドルロックと鍵穴が壊れたTZR50は、無事に戻ってきた。そして、マスターが撮った動画のおかげで、犯人も特定できた。以前、親のバイクば乗り回しとった、近所の中坊やった。
「中坊は、捕まるまで同じことを繰り返すけん、捕まって良かったたい」
未成年の犯人は、親と警察に任せることにした。
【結末:そげな、お年頃やけん】
被害額は、バイクの修理代(鍵交換)で約二万円ちょっとやった。名山マスターは、それと同額の二万円の報酬を、伊頭に差し出した。
「半分(一万円)でよかよ」
ツケをため込んどる伊頭は、少し照れくさそうに呟いたが、マスターの「力ば、かしてくんしゃい」という言葉の重みを、彼は知っとった。
「中坊は親に叱られても、わからんたいね。……理解できるのには、時間が必要たい。こればっかりは、しかたんなか」
マスターが、少し寂しそうに言った。
「ダンナ、また盗まれるやろか?」
伊頭は、トレンチコートの襟を立て、那珂川の夕暮れの風を受けながら、薄く笑った。
「もちろんたい。そげなお年頃やけん、対策ば、しとかんといけんね。」
那珂川の風は、ハンドルロックが壊れたバイクを、さらに熱く、そして温かく揺らしとった。




