第六話 ついに開業!……でも患モンスターゼロです
一週間後。
埃にまみれていた診療所は、すっかり見違える姿になっていた。
「ふぅ……。」
夢野は額の汗を拭いながら、腰を伸ばす。
「ようやく終わったぁ。」
振り返ると、待合室には木製の長椅子が並び、壁や床もすっかり綺麗になっている。
割れていた窓ガラスは新しいものへ取り替えられ、ひび割れていた壁もきれいに補修された。
奥の診察室には、大工へ特注した丈夫な診察台。
薬品や包帯を並べる棚。
採取してきた薬草を乾燥させるための棚まで設置されている。
さらに隣の部屋には、数床だけではあるが入院用のベッドも用意した。
「うん。」
夢野は満足そうに頷く。
「最初はこれくらいあれば十分かな。」
「十分すぎるくらいじゃ。」
エルダが静かに室内を見回す。
今は人の姿になっているため、診療所の中でも窮屈そうな様子はない。
長い黒髪を揺らしながら歩く姿は、まるでどこかの貴族令嬢のような気品を漂わせていた。
「それにしても、エルダには助けられっぱなしだったよ。」
「壁を直すのも早かったし、重たい家具も全部運んでくれたし。」
「我一人なら半日も掛からぬ仕事じゃ。」
「それを言わないでよ……。」
夢野は苦笑する。
「俺が一人だったら、一か月は掛かってたかも。」
『ぷるっ♪』
リルは窓際をぴょんぴょん跳ねながら、小さな身体で雑巾を押している。
「リルもありがとう。」
夢野が声を掛けると、リルは得意げに胸……らしき部分を張った。
『ぷるん!』
「ふふ。」
「立派なお手伝いさんだね。」
最後に夢野は、大切そうに抱えていた一枚の木の板を持ち上げた。
「よし。」
「これで最後。」
診療所の正面へ出る。
入口の上へ脚立を立て、金具へ木の板を引っ掛ける。
カタン。
小さな音を立てて看板が掛かった。
そこには大きな文字で書かれている。
――《モンスター専用診療所》
夢野は一歩下がり、その看板を見上げた。
「……できた。」
自然と笑みがこぼれる。
異世界へ来た日には、想像もできなかった景色だった。
右も左も分からず、不安ばかりだった自分。
古竜エルダと出会い、世界を旅し、数え切れないほどのモンスターを観察し、図鑑を作り上げた。
そのすべてが、この場所へ繋がっていた。
「やっとここまで来たな……。」
思わず漏れた言葉に、エルダも静かに看板を見上げる。
「一年と少しか。」
「長いようで短い旅であった。」
「うん。」
夢野は頷く。
「でも、本番はここからだ。」
「モンスターのお医者さんとして、この世界でちゃんとやっていけるか。」
「正直、不安もある。」
そう言いながらも、その表情は前を向いていた。
「だけど。」
「楽しみの方がずっと大きい。」
エルダは小さく微笑む。
「その顔なら大丈夫じゃ。」
「お主は悩んでおる時より、夢を追っておる時の方がよく笑う。」
「そうかな。」
「そうじゃ。」
夢野は照れくさそうに頭を掻いた。
その時。
『ぷるる!』
リルが勢いよく入口から飛び出し、看板の下で嬉しそうに跳ね始めた。
「おっと。」
夢野は笑いながらリルを抱き上げる。
「リルも嬉しいんだね。」
『ぷるっ!』
元気いっぱいの返事が返ってくる。
その様子に、二人は思わず笑みを浮かべた。
いつの間にか、西の空は茜色に染まり始めていた。
「もうこんな時間か。」
夢野は空を見上げる。
「今日からでも開けたくなるけど……。」
「準備だけで終わっちゃったね。」
「焦る必要はあるまい。」
エルダが静かに言う。
「診療所は逃げぬ。」
「それもそうか。」
夢野は大きく伸びをした。
「よし!」
「今日はゆっくり休もう。」
「そして明日。」
看板を見上げ、力強く笑う。
「いよいよ、モンスター専用診療所開業だ!」
◇
翌朝。
雲一つない青空が広がる中、夢野は誰よりも早く目を覚ました。
「よし。」
白衣の襟を整え、大きく深呼吸をする。
鏡に映る自分へ、小さく笑いかけた。
「今日から俺は、この世界初のモンスターのお医者さんだ。」
自然と胸が高鳴る。
診療室へ入ると、昨日準備した器具や薬草をもう一度確認する。
包帯よし。
消毒用の薬草よし。
縫合道具よし。
診察台も問題なし。
どこか忘れ物はないかと何度も見回してしまう。
「落ち着け、俺。」
思わず苦笑する。
初めて動物病院へ出勤した新人時代も、きっとこんな気持ちだった。
待合室へ行くと、リルが受付台の上でぷるぷると跳ねていた。
『ぷるっ♪』
「おはよう、リル。」
頭を撫でると、嬉しそうに身体を震わせる。
その奥では、エルダが優雅に紅茶を飲んでいた。
人の姿になった今では、診療所の椅子も問題なく使える。
「緊張しておるな。」
エルダが湯気の立つカップを置きながら言う。
「分かる?」
「顔を見ればな。」
夢野は照れ笑いを浮かべた。
「そりゃ緊張するよ。」
「ずっと夢だったから。」
そう言うと、入口へ向かう。
カラン。
小さな鐘の音が鳴る。
診療所の扉を大きく開けた。
「本日より開院!」
入口に立ち、看板を見上げる。
《モンスター専用診療所》
朝日に照らされた文字が、どこか誇らしく見えた。
「よし!」
「今日からよろしくお願いします!」
夢野は誰にともなく頭を下げた。
◇
一時間後。
「…………。」
誰も来ない。
夢野は受付へ座りながら、ちらりと入口を見る。
静かだ。
鳥の鳴き声だけが聞こえている。
「まぁ、まだ朝だし。」
気を取り直して笑う。
「みんな忙しい時間だよね。」
「そうであろう。」
エルダも静かに頷く。
◇
二時間後。
「…………。」
静かだった。
夢野は図鑑を開いて読み返してみる。
リルは床をぷるぷる転がって遊んでいる。
エルダは窓際で本を読んでいた。
「平和だなぁ……。」
夢野はぽつりと呟く。
「病院は平和な方が良い。」
エルダは本から目を離さず答える。
「それはそうだけど。」
「一人くらい来てもいいじゃん……。」
◇
昼。
夢野は診療所の前へ出てみた。
通りを歩く人はちらほらいる。
しかし誰一人として診療所へ入ってこない。
看板を見ても、そのまま通り過ぎていく。
「うーん……。」
夢野は腕を組んだ。
「やっぱりモンスター専門だから入りづらいのかな。」
「人間は診ぬからな。」
エルダが言う。
「それもあるか。」
夢野は苦笑する。
◇
夕方。
西日が待合室を赤く染めていた。
夢野は受付へ突っ伏す。
「患者……ゼロ。」
『ぷる……。』
リルも元気なく身体をしぼませる。
「開業初日なのに。」
「誰も来なかった……。」
「そういう日もある。」
エルダは相変わらず落ち着いている。
「焦るでない。」
「うん。」
夢野は立ち上がると、気持ちを切り替えるように伸びをした。
「病院って、信頼を積み重ねる場所だもんね。」
「一日で来てくれるほど甘くないか。」
鍵を閉めながら笑う。
「よし。」
「明日も頑張ろう。」
『ぷるっ!』
リルも元気よく跳ねる。
こうして、異世界初のモンスター専門診療所。
その記念すべき開業初日は――
患者数、ゼロ。
少しだけ寂しくも、どこか夢野らしい一日の終わりだった。
◇
次の日。
「今日こそ!」
夢野は気合い十分に診療所の扉を開けた。
「昨日はたまたまだよ。」
「きっと今日は誰か来る!」
『ぷるっ!』
リルも元気よく跳ねる。
しかし──。
午前。
誰も来ない。
昼。
誰も来ない。
午後。
やっぱり誰も来ない。
「……おかしい。」
夢野は受付で腕を組んだ。
「病院は開いてる。」
「設備も揃ってる。」
「診察する準備も万端。」
「なのに、どうして誰も来ないんだ?」
エルダは窓の外を眺めながら静かに答えた。
「簡単なことじゃ。」
「ん?」
「誰も知らぬ。」
「…………。」
夢野は固まる。
「知らぬ?」
「その病院が、ここにあることをじゃ。」
「あ。」
一瞬で理解した。
「そういえば……。」
「宣伝してない。」
「しておらぬ。」
「看板付けただけだ……。」
夢野は額に手を当てた。
「そりゃ来ないよ!」
「王都の外れだし!」
「これじゃ偶然通り掛かった人しか見つけられないじゃん!」
エルダは小さく頷く。
「ようやく気付いたか。」
「もっと早く言ってよ!」
「聞かれなんだからな。」
「うぅ……。」
夢野は頭を抱えた。
元の世界なら、インターネットや地図アプリで病院を探せる。
しかし、この世界にそんな便利なものはない。
まずは存在を知ってもらわなければ始まらないのだ。
「よし!」
夢野は勢いよく立ち上がる。
「宣伝しよう!」
◇
夢野は紙とペンを取り出し、机へ向かった。
「できるだけ分かりやすく……。」
何度も書き直しながら、一枚の張り紙を完成させる。
そこには大きな文字でこう書かれていた。
《世界初! モンスター専用診療所》
《本日開院!》
《モンスターのケガ・病気・体調不良、お気軽にご相談ください》
《診療対象:モンスター》
「こんな感じかな。」
「うむ。」
「誰が見ても分かる。」
夢野は同じ内容を何枚も書き写した。
その足で役場へ向かい、掲示板へ張り出す許可を申請する。
正式に認可された診療所だったこともあり、手続きはすぐに終わった。
「ありがとうございます!」
夢野は王都中を歩き回り、広場や商店街、役場前など、人通りの多い掲示板へ一枚ずつ丁寧に貼っていく。
「これで少しは知ってもらえるかな。」
「昨日よりは良かろう。」
エルダも静かに頷いた。
◇
夕方。
診療所へ戻った夢野は、入口の札へ手を伸ばいた。
「今日も終わりかな。」
宣伝はしたものの、今日は結局一人も来なかった。
少し肩を落としながら、営業中の札を裏返そうとした、その時だった。
――カラン。
入口のベルが静かに鳴る。
「……え?」
夢野が振り返る。
夕日に照らされた入口には、二つの影が立っていた。
一人の少女。
そして、その隣には一匹のモンスター。
少女は緊張した様子で診療所の中を見回し、おそるおそる口を開く。
「あ、あの……。」
「ここって……本当にモンスターを診てもらえる病院なんですか?」
夢野の表情が一瞬で明るくなる。
「もちろんです!」
迷いなく笑顔で答えた。
「モンスター専門ですから。」
その言葉を聞いた少女は、安堵したように胸をなで下ろす。
そして、隣で苦しそうに伏せているモンスターへそっと手を添えた。
「お願いです。」
「この子を……診てください。」
夢野は真っすぐ頷く。
「はい。」
「喜んで診させていただきます。」
――異世界初のモンスター専門診療所。
ついに、その記念すべき最初の患者ではなく患モンスターが、夢野のもとを訪れた。
【本日の診療記録】
なし ついに開業!
次回の診療予定:フォレストウルフ




