第三話 夢見る獣医と小さな相棒
エルダと旅を始めてから、およそ三か月。
その間、世界では一つの妙な噂が広がっていた。
「見たか?」
「ああ、見た見た。」
「古竜様の背中に人間が乗って飛んでたぞ。」
「俺も見た!」
「いやいや、古竜様が人なんか乗せるわけ――」
「本当なんだって!」
酒場では毎日のように話題になる。
空を見上げれば、時折、漆黒の巨大な竜が悠然と飛び去っていく。
その背には、小さな人影が一つ。
「あれ、絶対古竜様だよな。」
「隣国でも見たって話を聞いたぞ。」
「一体何をしてるんだ?」
答えを知る者は、本人たち以外ほとんどいなかった。
◇
「いやぁ……。」
夢野は思いきり深呼吸をした。
「森って、やっぱり空気が美味しいなぁ。」
「お主は毎回それを言うな。」
横から呆れた声が返ってくる。
夢野は笑いながら振り向いた。
「だって本当なんだもん。」
そこはアルトリア王国の外れに広がる《緑葉の森》。
背の高い木々が空を覆い、木漏れ日が地面へと降り注いでいる。
鳥のさえずり。
風で揺れる葉の音。
どこかで小川が流れる音も聞こえてきた。
夢野は胸いっぱいに空気を吸い込む。
「今日はここか。」
「うむ。」
エルダは静かに頷く。
「この森は魔力が豊富でな。」
「様々なモンスターが暮らしておる。」
この三か月、夢野たちは世界中を旅していた。
湖。
草原。
岩山。
砂漠。
それぞれの土地で暮らすモンスターを観察し、その生態を調べ続けてきた。
そして今日は、初めて訪れる森である。
「楽しみだなぁ。」
夢野は背負っていた革の鞄を下ろした。
中から取り出したのは、一冊の厚い本。
革張りの表紙には、大きくこう書かれている。
《モンスター図鑑》
もちろん市販品ではない。
夢野がこの三か月、少しずつ書き続けてきた手作りの図鑑だった。
ページをめくる。
そこにはモンスターの簡単な絵と特徴が細かく記されていた。
食べ物。
生息地。
生活習慣。
身体の特徴。
危険性。
気付いたことは何でも書き込んである。
「随分分厚くなったな。」
エルダが覗き込む。
「まだまだだよ。」
夢野は笑って首を振る。
「知らないことばっかりだからね。」
「だから今日も調査だ。」
そう言って鞄から鉛筆を一本取り出した。
「毎回思うが、お主の調査は面白い。」
「そう?」
「普通なら捕まえて調べる。」
「強い者なら力ずくで従わせる。」
「じゃがお主は違う。」
夢野は少し照れくさそうに笑う。
「怖がらせたら普段の様子が分からないからね。」
「まずは遠くから観察。」
「何を食べてるか。」
「どんな場所で暮らしてるか。」
「群れで生活するのか、一匹で暮らすのか。」
「どうやって寝るのか。」
「敵が来たらどう逃げるのか。」
一つひとつ指を折りながら数えていく。
「それを見てから、少しずつ近付く。」
「いきなり触ろうとしたら逃げちゃうし。」
「だから餌を置いて、安心してもらって。」
「仲良くなれたら初めて触らせてもらう。」
エルダは感心したように息を漏らす。
「獣医とは、随分気の長い仕事なのだな。」
「患者さんが嫌がったら診察できないからね。」
夢野は笑いながら答える。
「信頼してもらうのも仕事のうち。」
そう言って鞄を探り、小さな袋をいくつも取り出した。
木の実。
果物。
乾燥させた草。
小魚。
干し肉。
「今日は森だから、この辺かな。」
「相変わらず荷物が多い。」
「餌を間違えたら仲良くなれないからね。」
夢野は真剣な表情で袋を並べ始める。
その姿を見て、エルダは思わず口元を緩めた。
世界を救う勇者でもない。
伝説の英雄でもない。
目の前にいるのは、モンスターの餌選びに本気で悩む変わった人間だった。
「さて。」
夢野は図鑑を閉じる。
「今日はどんな子たちに会えるかな。」
期待に満ちた声だった。
その時だった。
草むらの奥で、ぷるん、と何かが跳ねる。
夢野の視線がぴたりと止まる。
「……!」
青く透き通った、小さなゼリー状の身体。
丸くてぷるぷると揺れるその姿を見た瞬間、夢野の目がこれ以上ないほど輝いた。
「エルダ……。」
「うむ。」
「スライムだ。」
夢野はごくりと唾を飲み込む。
「本物の……スライムだ!」
思わず叫びそうになる口を、両手で慌てて押さえた。
夢野は叫びたい気持ちを必死に押さえ込みながら、その場にしゃがみ込んだ。
「落ち着け……落ち着け俺……。」
目の前にいるのは、ずっと会いたかった存在。
ゲームや本の中で何度も見てきたスライムが、今こうして草むらをぷるぷると跳ね回っている。
興奮しない方がおかしかった。
「まずは観察だ。」
夢野は深呼吸を一つすると、いつものメモ用ノートを開く。
青いスライムたちは群れで行動していた。
草むらの間を跳ね回り、落ちている木の実や小さな虫を身体に取り込みながら食べている。
「雑食寄りかな……。」
さらさらとペンを走らせる。
『主食:木の実、小型昆虫など』
『群れで生活』
『警戒心は比較的薄い』
『身体は高い弾力性を持つ』
「見た目以上によく跳ねるな。」
すると、一匹だけ様子の違う個体が目に入った。
「……あれ?」
少し離れた木陰。
青いスライムたちと同じくらいの大きさだが、その身体だけが淡い緑色をしている。
しかも、木の実にも虫にも見向きもしない。
じっとこちらを眺めているだけだった。
「あの子だけ食べないな。」
夢野が呟くと、エルダが静かに答える。
「当然だ。」
「あれはヒールスライムじゃ。」
「ヒールスライム?」
「普通のスライムとは食う物が違う。」
「違うの?」
「回復草を好む。」
「薬草の一種でな。」
「傷を癒やす魔力を蓄えておる。」
「だから身体も緑色なんだ。」
夢野は目を輝かせた。
「なるほど!」
慌てて荷物を漁る。
「そういえば昨日、薬草の調査で採ってたな。」
取り出したのは、葉先が淡く光る回復草。
薬効を調べるために採集していたものだった。
夢野はヒールスライムを驚かせないよう、少し離れた場所へそっと置く。
緑色のスライムがぴくりと震えた。
ぷる。
ぷるぷる。
興味津々といった様子で近寄ってくる。
そして。
ぱくっ。
一口で回復草を身体へ取り込んだ。
すると、身体全体が淡い緑色の光に包まれる。
「光った!」
「魔力を取り込んでおる。」
エルダは静かに頷く。
「回復草の魔力を糧に、回復能力を得る種じゃ。」
「面白い……。」
夢野の手は止まらない。
『ヒールスライム』
『主食:回復草』
『植物に宿る治癒魔力を吸収し、回復能力へ変換する』
『通常種とは食性が異なる』
書き終えると、夢野はゆっくりと腰を上げた。
「さて。」
「次は仲良くなれるか試してみよう。」
この三か月で分かったことがある。
モンスターも、いきなり触ろうとすると警戒する。
まずは餌を与え、安心してもらう。
焦らず距離を縮めることが大切だった。
夢野は木の実をいくつか地面へ転がす。
青いスライムたちは嬉しそうに集まり、ぷるぷると身体を揺らしながら食べ始めた。
「よしよし。」
夢野はゆっくりと手を差し出す。
一匹。
また一匹。
警戒する様子もなく近寄ってくる。
「触ってもいいか?」
答えはない。
しかし逃げる様子もない。
夢野はそっと一匹へ触れた。
「……!」
ぷにっ。
ひんやりとして柔らかい。
指が少しだけ沈み込み、押し返すような弾力が返ってくる。
「すごい……。」
「本当にぷるぷるだ。」
子どものような笑顔がこぼれる。
「ずっと触っていたい……。」
「お主。」
エルダが呆れ半分に笑う。
「顔が緩みきっておるぞ。」
「だってスライムだよ!」
「夢だったんだから!」
興奮した声に、青いスライムたちまで楽しそうにぷるぷると跳ね始める。
その少し後ろでは、回復草を食べ終えた緑色のヒールスライムが、じっと夢野を見つめていた。
その小さな瞳には、ほんの少しだけ興味の色が宿っていた。
調査を終え、夢野はゆっくりと立ち上がった。
「今日はこれくらいかな。」
ノートを閉じ、荷物を背負う。
「じゃあ行こうか、エルダ。」
「うむ。」
一人と一頭は森を歩き始めた。
その数歩後ろで。
ぷる。
緑色の小さな影が、一度だけ身体を揺らす。
そして、ぴょこん。
夢野たちの後を追いかけ始めた。
◇
森を抜けても。
街道へ出ても。
小川を渡っても。
ぷるん。
ぷるん。
小さな足音ならぬ、小さな跳ねる音が一定の距離を保ちながら付いてくる。
「……なあ、エルダ。」
「気付いておる。」
二人は同時に後ろを振り返った。
緑色のスライムはぴたりと止まり、何事もなかったようにぷるぷると身体を揺らしている。
「付いてきてる……よね?」
「そのようだな。」
夢野はしゃがみ込み、目線を合わせる。
「どうした?」
「群れのみんなの所へ戻らなくていいのか?」
ヒールスライムは答えない。
代わりに。
ぷるん。
夢野の靴へ身体を軽く寄せた。
「……。」
夢野は思わず笑う。
「懐かれたのかな。」
「回復草を貰った礼かもしれぬ。」
エルダが静かに言う。
「ヒールスライムは恩を忘れぬ種じゃ。」
「そうなんだ。」
夢野はもう一度スライムへ視線を向けた。
「一緒に来たいの?」
ぷる!
元気よく一度だけ跳ねる。
「ふふっ。」
その反応がおかしくて、夢野は笑ってしまった。
「じゃあ、一緒に来る?」
緑色の身体が嬉しそうに何度も跳ねる。
夢野はそっと両手で抱き上げた。
「軽いなぁ。」
ぷにぷに。
ひんやり。
そして思った以上にもちもちしている。
「……幸せ。」
「お主。」
エルダが呆れたように笑う。
「また顔が緩んでおるぞ。」
「仕方ないよ。」
「ずっと夢だったんだから。」
夢野は優しくスライムを撫でた。
「そうだ。」
「名前を付けてもいいかな?」
スライムは小さく震える。
夢野は少しだけ考えた。
「君は回復草が大好きで、優しくて。」
「それに、小さいけど頑張り屋だ。」
ふっと笑う。
「リトルスライム。」
「略して――リル。」
「どうかな?」
ぷるっ!
今までで一番大きく身体を跳ねさせる。
「気に入ってくれたみたいだな。」
夢野は嬉しそうに笑った。
「よろしく、リル。」
『ぷるる♪』
こうして、夢野に初めての仲間ができた。
◇
それからの日々は、あっという間に過ぎていった。
森。
湖。
岩山。
砂漠。
沼地。
鉱山。
古代遺跡。
洞窟。
そして、海
夢野はエルダに案内されながら世界中を巡り、数え切れないほどのモンスターと出会った。
遠くから生活を観察し。
食べ物を調べ。
餌付けをして信頼を得る。
身体を触らせてもらい、質感や骨格、筋肉の付き方を記録する。
病気になりやすそうな部位まで、自分なりに考察していく。
分からないことはエルダへ聞き。
それでも分からないことは、自分で何度も観察した。
それからさらに月日は流れ――。
旅を始めて一年。
何も書かれていなかった分厚い本は、いつしか立派な図鑑へと姿を変えていた。
「……完成、とはまだ言えないけど。」
夢野は図鑑を閉じ、小さく笑う。
「これなら。」
「ようやくスタートラインには立てそうだ。」
隣ではリルが嬉しそうにぷるぷる震える。
『ぷる♪』
エルダも静かに頷いた。
「十分であろう。」
「一年でここまで調べる人間など、お主くらいだ。」
「ありがとう。」
夢野は図鑑を抱き締める。
そこには獣医として培った知識と、この一年で積み重ねた経験が詰まっていた。
「よし。」
夢野は力強く立ち上がる。
「病院を作ろう。」
「この世界で初めての、モンスター専門の病院を。」
エルダは満足そうに笑みを浮かべる。
「ようやく始まるか。」
「ああ。」
夢野も笑う。
「ここからが、本当のスタートだ。」
獣医と古竜。
そして、一匹のヒールスライム。
三人(?)は顔を見合わせる。
「うむ。」
「ああ。」
『ぷる!』
思わず笑いがこぼれた。
世界初のモンスター専門の獣医――専モン医。
その扉が、いよいよ開こうとしていた。
【本日の診療記録】
患者:ヒールスライム(リル)
症状:人間に興味津々
診断:回復草一束で懐いてしまいました
処方:夢野と一緒に旅へ
次回の診療予定:なし 病院開業!!
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