第二話 夢見る獣医と暇を患う古竜
「……古竜。」
夢野は呆然と呟いた。
ゲームや物語の中でしか聞いたことのない存在。
それが今、自分の目の前で静かにこちらを見つめている。
ほんの少し前まで本の中だけの存在だったものが、今は息づき、言葉を交わしている。
不思議な感覚だった。
「どうした。」
エルダの低く穏やかな声が響く。
「あ、いえ。」
夢野は慌てて首を振った。
「改めて考えると、本当にドラゴンなんだなって。」
エルダは静かに頷く。
「お主の世界では、竜は空想の生き物であったな。」
「はい。」
夢野は思わず笑みをこぼした。
「子どもの頃から大好きだったんです。」
「ドラゴンも、フェニックスも、ユニコーンも。」
「ゲームや小説を見るたびに、『本当にいたらどんな世界なんだろう』って考えてました。」
懐かしい記憶が蘇る。
図鑑を眺め、フィギュアを並べ、ファンタジー小説を何度も読み返した日々。
そのどれもが、今では目の前の現実へと変わっていた。
「だから、お主は先ほど我を見て喜んでおったのか。」
「……やっぱり分かりました?」
「隠す気もなかったであろう。」
「それは……そうですね。」
夢野は照れ笑いを浮かべた。
「嬉しい気持ちの方が勝っちゃいました。」
古竜を目の前にして恐怖より好奇心が勝つ。
我ながら変わっていると思う。
だが、それが夢野 真という人間だった。
「面白い人間だ。」
エルダはどこか愉快そうに呟いた。
しばらく静かな時間が流れる。
洞窟の奥からは、水滴が落ちる小さな音だけが聞こえていた。
「ところで。」
エルダが夢野へ視線を向ける。
「お主は、元いた世界では何をして暮らしておった?」
「僕ですか?」
「うむ。」
夢野は少しだけ考えてから答えた。
「獣医をしていました。」
「獣医?」
聞き慣れない言葉だったのか、エルダが首を傾げる。
「動物のお医者さんです。」
「怪我や病気になった動物を診察して、治療する仕事でした。」
「ほう。」
エルダは興味深そうに耳を傾ける。
「動物は言葉を話せません。」
夢野はゆっくりと言葉を続けた。
「だから、『痛い』とか『苦しい』って教えてもらえないんです。」
「食欲はあるか。」
「歩き方はいつもと違わないか。」
「呼吸は苦しくないか。」
「そういう小さな変化を見つけて、原因を考えるんですよ。」
「なるほど。」
エルダは納得したように頷いた。
「だから我を見た時も、身体ばかり見ておったのか。」
「あっ。」
夢野は思わず苦笑する。
「つい職業病で。」
「鱗の並び方とか、翼の付き方とか……。」
「気になってしまって。」
「食われるとは思わなんだか?」
「思いました。」
夢野は即答した。
「だから心の中で『診察する前に食べられるわ!』って自分にツッコミを入れてました。」
一瞬。
エルダは目を丸くした。
次の瞬間、小さく喉を鳴らして笑う。
「くくっ……。」
「やはり変わった人間だ。」
「褒め言葉として受け取っておきます。」
二人の間に自然と笑みが生まれる。
少し前まで緊張で固まっていた空気は、いつの間にかすっかり和らいでいた。
「では今度はこちらの番だ。」
エルダはゆっくりと尾を揺らした。
「お主も、この世界について知りたいのであろう。」
「もちろんです!」
夢野は身を乗り出す。
「この世界にも、お主の世界と同じような動物はいる。」
「馬や牛、鳥、魚。」
「姿がよく似た生き物も少なくない。」
「じゃあ、動物以外にも……例えばスライムみたいなモンスターもいるんですか?」
期待を隠しきれない声だった。
「もちろんだ。」
エルダは静かに頷く。
「スライムも、フェニックスも、グリフォンも。」
「我のような竜も、この世界では共に生きておる。」
夢野の胸が高鳴る。
「じゃあ、人間はモンスターと戦って暮らしているんですか?」
ゲームではそれが当たり前だった。
だからこそ、自然とそう思ってしまう。
しかし、エルダはゆっくりと首を横に振る。
「違う。」
その一言は、夢野の予想を大きく裏切った。
「この世界でモンスターは、人の敵ではない。」
「互いに助け合い、共に暮らす隣人だ。」
静かな声が洞窟に響く。
「力を貸し、力を借りる。」
「家族として迎える者もいれば、仕事を支え合う相棒となる者もおる。」
「人の暮らしは、モンスターと共にあるのだ。」
夢野は思わず息を呑んだ。
頭の中に、一つの景色が浮かぶ。
スライムと遊ぶ子どもたち。
空を飛ぶグリフォン。
畑仕事を手伝うスケルトン。
それは、自分が何度も夢に見た光景。それが現実になると思うと......、
「……最高ですね。」
思わず本音が漏れる。
エルダは小さく目を細めた。
「そう思うか。」
「はい。」
夢野は力強く頷く。
「そんな世界なら……きっと毎日が楽しいでしょうね。」
その笑顔を見て、エルダは静かに微笑んだ。
この人間は、やはり面白い。
そう思いながら、古竜は次に何を話そうかと静かに考えていた。
夢野は胸の高鳴りを抑えながら、ふと一つの疑問を口にした。
「そういえば。」
「どうした。」
「モンスターが怪我や病気になったら、誰が診るんですか?」
エルダは静かに夢野を見つめ、それからゆっくりと首を横に振った。
「……誰もおらぬ。」
「え?」
予想していなかった答えに、夢野は思わず聞き返す。
「薬師はおる。」
「薬草に詳しい者もおる。」
「じゃが、病の原因を調べたり、身体の状態を診たりする者はおらぬな。」
夢野は思わず目を丸くした。
「じゃあ、原因が分からない病気になったら……?」
「知恵を出し合う。」
「薬草を試す。」
「回復を祈る。」
「それでも駄目なら、寿命だったと受け入れる者もおる。」
洞窟に静寂が流れる。
夢野は視線を落とした。
「……そう、なんですね。」
人とモンスターが共に暮らす世界。
それでも病気という存在は変わらない。
知識がなければ、助けられる命も助けられない。
それは夢野が元いた世界と同じだった。
「何を考えておる。」
エルダが静かに尋ねる。
夢野はゆっくりと顔を上げた。
「……もったいないなと思いました。」
「もったいない?」
「僕の世界でも、全部の病気が治せるわけじゃありません。」
「でも。」
「原因が分かれば、助けられることはたくさんあります。」
夢野は少し照れくさそうに笑う。
「だから勉強するんです。」
「知らないことを、一つずつ減らしていくために。」
その言葉に、エルダは静かに耳を傾けていた。
力でも、魔法でもない。
知識を積み重ねることで命を救おうとする。
そんな考え方は、この世界ではあまり馴染みのないものだった。
「もし。」
夢野は少し遠慮がちに続ける。
「この世界のモンスターについて勉強できたら……。」
「僕でも診られるようになると思いますか?」
エルダは少しだけ考え込んだ。
そして静かに口を開く。
「分からぬ。」
夢野は苦笑する。
「……ですよね。」
「じゃが。」
エルダは夢野を真っ直ぐ見据えた。
「やってみねば、分からぬだろう。」
その一言は、不思議と夢野の胸にすっと入ってきた。
「……。」
夢野は小さく笑う。
「それもそうですね。」
「誰かが最初の一人にならねば、何も始まらぬ。」
その言葉を胸の中で繰り返す。
――誰かが最初の一人にならねば、何も始まらない。
その瞬間、一つの景色が頭に浮かんだ。
病気で苦しむモンスター。
心配そうに寄り添う飼い主。
そして白衣を着て診察する自分。
犬や猫ではない。
スライムやグリフォン、ドラゴンたちを診る自分の姿。
「……やってみたい。」
自然と言葉が漏れる。
「モンスターのお医者さん。」
「この世界で初めての。」
エルダは静かに頷いた。
「面白い夢だ。」
「でも、その前に知らないことばかりです。」
夢野は苦笑する。
「犬も猫も、まずは生態を知るところから始まりました。」
「モンスターだって同じです。」
「スライムの身体がどうなっているのかも知りませんし、ドラゴンの病気なんて想像もつきません。」
「我は古竜だ。病気になどならん。」
少しだけむっとしたようにエルダが言う。
「あっ、ごめんごめん。」
夢野は慌てて笑う。
「でも、今みたいに何も知らないんです。」
拳をぎゅっと握る。
「だから、まずはこの世界を歩いて、モンスターを見て、触れて、知るところから始めたいんです。」
「本で読むだけじゃ分からないことって、たくさんありますから。」
その瞳には、獣医として積み重ねてきた経験に裏打ちされた強い意志が宿っていた。
「……どうでしょうか。」
エルダは腕を組み、しばらく考える素振りを見せる。
「ふむ……。」
長く考え込んでいるように見えた。
だが、その長い尾だけは、どこか楽しげにゆっくり左右へ揺れている。
「ふむ、一理あるな。」
ようやく口を開いた。
「では、こういうのはどうです?」
夢野はぱっと表情を明るくする。
「エルダの治療も兼ねて、一緒に世界を旅するんです。」
「治療?」
「ええ。」
夢野は真面目な顔で頷いた。
「診断結果が出ました。」
「ほう?」
「患者、古竜エルダさん。」
「症状、退屈。」
「診断――暇病です。」
一瞬の静寂。
エルダは目をぱちぱちと瞬かせる。
「暇……病?」
「かなり進行しています。」
「このままだと、もっと退屈になりますね。」
真顔で告げられ、エルダは数秒固まる。
そして――。
「はっはっはっ!」
洞窟いっぱいに笑い声が響いた。
「我を病人扱いするとは!」
「数百年生きてきて初めてだ!」
夢野もつられて笑う。
「でも、間違ってないでしょう?」
「……否定はできぬ。」
エルダは肩を揺らしながら笑った。
「よかろう。」
「その治療、とやらに付き合ってやろう。」
夢野の表情がぱっと明るくなる。
「本当ですか!」
「ついでに、お主の夢とやらも見届けてやる。」
少し間を置いてから、エルダはそっぽを向く。
「……暇だからな。」
夢野は思わず吹き出した。
「ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げる。
それから改めてエルダを見上げ、にっこりと笑った。
「それじゃあ、よろしくお願いします。」
「夢野 真です。」
エルダは少しだけ目を見開いた。
「今さら名乗るか。」
「すみません。」
「興奮して忘れてました。」
「夢野か。」
エルダは静かに頷く。
「覚えておこう。」
「それと、これから共に旅をする仲だ。」
「そんなに畏まらずともよい。」
夢野は少し照れくさそうに笑った。
「じゃあ……よろしく、エルダ。」
「うむ。」
モンスターを診たい獣医と、暇を持て余した古竜。
少し変わった二人の旅は、この日から始まるのだった。
【本日の診療記録】
■患者:古竜エルダ
症状:暇
診断:数百年生きた結果
処方:夢野 真
次回の診療予定:スライム
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