第31話 変わりゆく日常
あの男との話から、数日が経った。
ヴァルスの日常は、外から見れば何も変わっていない。朝、オーブンに火を入れ、生地を捏ね、パンを焼く。リラがカウンターに座り、ブロガーが新しい道具を運び込み、セレナが「たまたま」スイートパンを買う。
でも、ヴァルスの心の中は、少しだけ違っていた。
「最近、考え込むことが多いな」
リラが言う。彼女はいつものようにパンをかじりながら、ヴァルスの顔をじっと見ている。
「…そう見えるか?」
「ああ。何かあったら言え」
「うん」
ヴァルスはオーブンから新しいパンを取り出しながら、自分の手を見た。この手で焼いたパンが、誰かを呼び寄せる。あの男も、その一人だ。
「なあ、リラ」
「何だ?」
「お前は、自分のことを知りたいと思ったことはあるか?」
リラは少し考えて、答えた。
「あるよ。でも、知らなくても生きていける」
「それでいいのか?」
「いいんだ。大事なのは、今ここにいることだ。過去は変えられない。未来はわからない。でも、今は自分の手で何とかできる」
ヴァルスは、彼女の言葉をじっくりと噛み締めた。
その日、店には珍しい客が来た。年老いた旅人。杖をつき、ボロボロのマントを羽織っている。
「パンをくれ。焼き立てを」
「かしこまりました」
ヴァルスがパンを渡すと、老人はそれをかじりながら、ぽつりと言った。
「お前さん、ここでずっとパンを焼くのか?」
「…さあ。わかりません」
「そうか」
老人はそれ以上聞かず、銀貨を置いて立ち去ろうとした。
「待ってください」
ヴァルスの声に、彼は足を止めた。
「何か言いたいのか?」
「…なぜ、そんなことを聞くんですか?」
老人はしばらく考えて、答えた。
「お前さんのパンには、迷いがある。美味いが、どこか落ち着かない。何かを探しているように感じる」
ヴァルスは息を呑んだ。
「それが悪いこととは言わない。だが、たまには立ち止まることも必要だ」
老人はそう言って、店を出ていった。
夜。店を閉めた後、ヴァルスは一人でカウンターに座っていた。
今日の言葉が、頭から離れない。
「迷いがある」
確かに、そうかもしれない。自分は何のためにここにいるのか。なぜパンを焼いているのか。あの男は何を知っているのか。
「まだ起きてたのか」
リラが戻ってくる。彼女はヴァルスの隣に座り、パンを一つかじった。
「さっきの老人、変なこと言ったな」
「…ああ」
「でも、わかる気がする」
「どういう意味だ?」
「お前、最近、昔より考え込むようになった。それが悪いことじゃない。でも、考えすぎるとパンが不味くなるぞ」
ヴァルスは少し笑った。
「そうかもしれない」
「だから、たまには休め。ここはお前の店だ。お前が決めればいい」
ヴァルスはうなずいた。
翌朝。いつも通りオーブンに火を入れる。リラがカウンターに座る。ブロガーが新しい道具を運び込む。セレナが「たまたま」スイートパンを買う。レンが黙って銀貨を置く。
変わらない日常。でも、ヴァルスの心は少しだけ軽くなっていた。
迷ってもいい。考え込んでもいい。それでも、ここでパンを焼き続ける。それが、今の自分の答えだった。
<システム通知>
新規実績解除:一歩前進
あなたは自分の迷いと向き合い、それでも前に進むことを選びました。
報酬:+100 EXP、称号「歩み続ける者」
解説:「迷いながら進む。それもまた、成長の形だ。」




